2025年4月12日土曜日

会社からの呼び出しで子連れ出勤

事情を説明するために会社へ

9時ちょうどくらいに会社に電話した。

コール音がするかしないかのうちにつながり、出てくれたのは引継ぎをした同僚だった。

良かった。

これなら話が早い。

「急で申し訳ないのですが。今日お休みをいただきたいんです」

と告げると、相手もピンときた様子で、

「ああ・・・例の件ですね」

と言った。

その時は軽いやり取りだけで終了。

ただ、その後上司から電話が掛かってきた。

業務で何かあったかな?と不安になったが、そうでは無かった。

可能なら一度話をしに来て欲しいとのことだった。

それで、子どもを連れて会社に行くことに。

実はこの時、とても不安だった。

私のような社員を置いておくのはリスクがあると判断されても不思議では無い。

事情を聴きとって、その内容によっては退職勧告されるのでは?と思った。

その日の会社への道のりは、何だかいつもよりも遠く感じた。

子どもはお出かけ気分で、ビルの前に到着した時も何だか嬉しそうだった。

ロビーに着くと別の階の会社の方が居て、チラッと子どもを見ていた。

職場見学とか思われてるのかもしれないな。

でも、そうじゃないんですよ。

もっとひっ迫した理由で来てるんですよ。

なんて思いながらエレベーターに乗り込んだ。


会議室に通されて、現状説明

社内に入ると、すぐに上司が近寄ってきて会議室に通された。

子どももペコリと頭を下げて中へ。

一緒に会議室に入ろうとしたら、同僚が

「こっちで一緒に遊んで待ってようか」

と声を掛けてくれた。

もう小学生だから、だいたいのことは分っている。

でも、目の前でしたくない話もあったので有難かった。

上司と向かい合う形でやや緊張しながら座った私。

ブラインドの外ではいつものように忙しなく社員たちが動き回っていた。

そこには日常があった。

その光景を見ていたら、日常から私だけが零れ落ちてしまったように感じて寂しくなった。

顔色が悪く見えたのか、上司はまず

「体調は大丈夫なの?」

と心配してくれた。

「体調は大丈夫です。でも今家に帰れる状況ではなくて・・・」

それから前日のことをポツリ、ポツリと話し始めた。

言葉にしてみても、どこか現実味が無かった。

話し合って決まったことは、

・しばらく休むこと

・その週は特別休暇扱いで、次の週からは有給扱いとすること

・業務連絡を入れるかもしれないから、時々携帯をチェックするように

ということだった。

「有給余ってるでしょ」

と言われると、確かに毎年15日以上は捨てていた。

特別休暇や有休ならお給料が減らないから助かるなあと思った。

待っていてくれる場所があるという事にも安心した。


あの日、誰も私たちの事情を詮索する人は居なかった。

薄々何か感じ取っていたはずなのに。

いつも通りに接してくれた。

「お早い復帰をお待ちしております~」

なんて言われて、思わず笑ってしまった。

会社を出た後に携帯を確認したら、先輩からLINEが入っていた。

内容は夕飯のメニューのリクエスト(笑)

『作って冷蔵庫の中に入れておきますね。温めて食べてくださいね』

と送ったら、

「一緒に食べましょう。しばらく家に居てくれた方が私も安心できるから」

と返ってきた。

『今晩どこに泊まろうか』と悩んでいたから、嬉しくて泣きそうになった。

2025年4月11日金曜日

急遽、学校を休むことに

家出中は学校にも行けず・・・

家を出た翌日は月曜日だった。

本来なら私は会社に行き、子どもは学校に行く。

でもその時は学校用品を持ってきて居なかったので行けなかった。

第一、ランドセルや教科書、文房具なども無い。

距離的なことで言えば、その場所から学校に通うのも難しかった。

子どもは朝目を覚まして、

「月曜日だから学校に行かなくちゃ」

と起きてきた。

でも、

「今日は行けないんだよ」

と説明して納得してもらった。

私が『今日』と言ったから、

「明日はどうしようね~」

なんて言っていたが、『きっと明日も明後日も行けないな』と思った。

これが仮にもし物凄く近い場所であっても、多分行けない。

子どもと私が家を出て連絡がつかなくなったら、夫は何とかしてコンタクトを取ろうとするだろう。

その時、子どもの学校というのは一番手っ取り早くて確実な方法だ。

私の会社という選択肢もあるが、夫は決して電話など掛けてこない。

それまでにも緊急の用事が発生したことがあったが、繋がらなくても携帯に掛け続けていた。

私の会社が苦手なのか。

それともただ単に会社という所に掛けるのが億劫なのか。

理由は分からないが、こういう状況でも私の会社に連絡する可能性は低いのではと思った。

ましてや体面を気にする夫が会社までわざわざ出向いてくるとも思えなかった。

そうなると、やはり子どもの学校というのがもっとも可能性が高くなる。

ただ、学校の先生に電話するのはやはり躊躇するかもしれない。

現実的な線を考えると、恐らく下校時間を見計らって外で待ち伏せすると思った。

だから、その時点で学校に行くのは非常に危険なことだった。

落ち着くまでは、しばらくお休みをしなければならない。

可哀そうだけれど、それが最善の策だった。


担任の先生に電話

学校に電話をして、担任の先生に取り次いでもらえるようにお願いした。

だが、あいにく席を外されていたようで、

「戻りましたら折り返しお電話するように伝えます」

と言われた。

しばらくして担任の先生から掛かってきたので、

「家の都合でしばらくお休みします」

とだけ伝えた。

本当は理由も伝えられたら良いのだが、そういう訳にもいかなかった。

『家出をして今別の場所にいるんです』なんて言えるはずがない。

それに、家の事情を話したら子どもを見る目も変わってしまうのではないかと恐れた。

それまでは『のんびりしていて天真爛漫な子』と言われてきた。

それが話した途端に『家庭環境が複雑で注意が必要な子』になってしまうかもしれない。

学校は子どもが唯一羽を伸ばせる場所だから。

できるだけ変わらない環境を残してあげたかった。

でも、先生ってやっぱりプロなのね。

少しだけ子どもと代わって話した時の様子から何かを感じ取ったのか、

「もし何かあったら遠慮なく言ってください。

 サポートできることもあるかもしれません」

とおっしゃった。

こんなお気遣いを頂いたことに恐縮してしまって、

「本当にご迷惑をおかけしてすみません。ありがとうございます」

としか言えなかった。

私はとりあえず

「今週お休みします」

と告げたのだが、先生からは

「2~3日後に私の方からもう一度お電話します」

と言われた。

それまでに少しは状況が片付いていれば良いなと思った。

さあ、これで子どもの学校のことは一応済んだ。

あとは私の会社への連絡だ。

ふと時計を見たら間もなく9時だった。

業務の始まる時間だ。

事前にある程度の情報は伝えてあったけど、やはり急に休むことになり迷惑をかけてしまった。

せめて業務に支障が出ないように早く伝えなければ。

そう思って慌てて電話した。

2025年4月10日木曜日

先輩と語り明かした夜

子どもが寝た後に詳しい事情を説明

先輩に案内されて着いたのは立派なマンションだった。

毎月のやり繰りに頭を悩ませている私からしたら夢のような暮らしだ。

「すごいお家ですね」

と驚く私の横では子どもが緊張していた(笑)

ロビーに入ってもずっともじもじしていたのだが、

「(子ども)ちゃん、行こう」

と先輩が手を引いてくれた。

部屋に入り、まずはリビングに案内された。

よくドラマで見るような素敵なお部屋。

物が散乱しているなんていう事も無く、綺麗に整頓されていた。

こんな綺麗な部屋のどこに荷物を置かせてもらおうかな、と迷っていた時に、

「とりあえず、こっちの部屋自由に使って」

と案内されたのが、これまた素敵な洋室だった。

普段は使っていないらしく、時々物が増えてきた時の保管場所にしていると言っていた。

荷物を置き、上着をかけさせてもらった後はお風呂をいただいた。

家を出る時、もみくちゃになりながらも用意しておいたバッグだけは何とか持ち出せた。

だから、着替えとか下着などは入っていた。

もし用意できていなかったら新たに買うことになって更に軍資金が心許ない状態になっていたことだろう。

やはり、水面下で動いておいて正解だった。

お風呂上がりに歯磨きセットが無いことに気づいたのだが。

これは全く問題無かった。

コンビニがすぐ傍にあったので買いに出た。

そこで飲み物やちょっとしたおつまみも購入して帰宅。

お世話になるのにそんな物じゃ返せないと思いつつも会計を済ませていたら、

「私が払うのに~。気を使わせちゃってごめん」

と謝られてしまった。

「こちらこそ、急に押しかけてしまって本当にすいません。

 本来なら宿泊費をお支払いしたいくらいです」

と言ったら、

「何言ってんのよ。馬鹿ねぇ」

と笑われた。

夫のそれとは違い、先輩の『馬鹿』はとても優しかった。

『私、結構傷ついてたんだな』とその時思った。

家に着いて子どもは歯磨きを済ませたらすぐに寝てしまった。

寝かしつけた後にリビングに戻って先輩に詳しい事情を説明することになった。


お酒を飲みながら今までのことを話した

先輩はビール、私は缶チューハイを飲みながらこれまでのことを話した。

ハッキリ言って私はお酒が弱い。

アルコール度数3%の缶チューハイ一本で酔ってしまう。

それ以上の度数になると眠気に襲われたり目がグルグル回ってしまうので、その日は缶チューハイ1本だけにした。

それでも十分に酔っぱらった私は、いつもよりも饒舌になった。

話した内容は詳細に覚えている。

子どもが虐待をされていること。

結婚してから私もずっとモラハラを受けていること。

家のルールや、夫の機嫌に振り回される生活。

全部話した。

話している最中にふと携帯に触れたのだが、その時私が怯えたような顔をしていたらしく、

「可哀そうに。よっぽど怖いんだね」

と言われた。

「大丈夫だよ。うちの事は知らないんだから」

という先輩の言葉が私を安心させた。

ここに居る間は安心していて良いんだ。

そう思うだけで急に気持ちが楽になったのを覚えている。

子どもの虐待の証拠は残っていないのかとも聞かれた。

だが、残念ながら持っていなかった。

以前携帯で撮ったものは消されてしまった。

破壊されたものを取っておこうとしたら、勘づかれてしまいゴミの日に廃棄された。

私がこっそり何か動こうとしても相手の方がいつも上手だった。

連絡できるような人もほとんど居ない中で、安全面への懸念から両親に頼ることもできない。

だから、誰にも知らせずに家を出ようと思ったのだと伝えた。

話し込んでしまい、気づいたら朝になっていた。

先輩はそのまま仕事に行ったので眠かっただろうな。

本当に申し訳ないことをしてしまった。

私は早朝から少しだけ寝て、子どもが起きてきた8時ごろ朝食をとった。

久々に『生きてる』と感じた朝だった。

2025年4月9日水曜日

夫の知らない滞在先を確保できた経緯

どこも宿泊費が高くてため息・・・

本当はもう少しお金を貯めてから家を出たかったな。

お財布の中身を見ながらため息をついていたら、子どもが

「ママ、今日どこにお泊りしようか」

と言った。

恐らく子どもも家に帰れないであろうことは分っていて不安になったのだろう。

「おじいちゃん家に行く?」

と聞いてくるので、

「それは無理なんだよ。このあたりのホテル探してみようか」

と答えた。

子どもはてっきりうちの実家に行くと思い込んでいたようで、

「え~何で行けないの?」

と不満そうだったが、

「もう少し落ち着いたら絶対に行こうね」

と約束して、私は再び宿泊する場所を探し始めた。

実家に行けば宿泊費は掛からないが、それは絶対に避けなければならなかった。

夫がすぐに探し当ててしまう所はリスクが高すぎる。

怒り狂った夫が何をするか分からないから、全く知らない場所が良いと思った。

万が一何かあっても私に対してならまだ納得できるけど。

子どもや両親にその矛先が向かうのだけは絶対に回避しなければと考えた。

夫の予想できない宿泊場所を確保する必要があるということは常に頭の片隅にあった。

だけど、実際問題そんな所なんて思いつかなくて、とりあえず今日泊まれるところだけでも確保しなければという感じになっていた。

それにしても一泊するのにこんなにかかるのか。

これだといつまで泊まれるか分からないな。

お金の不安も抱えつつ、なんだかんだと1時間以上も探し続けた。

でも、なかなか見つからなくて『この辺りを歩いてみようかな』と立ち上がった時、見覚えのある人にばったり会った。

相手は私を見るなり『あっ』と小さな声をあげ、笑顔で近づいてきた。

その人は以前勤めていた会社の先輩だった。

専門職でバリバリ働く人。

当時はその人に憧れて、少しでも近づきたいと頑張った。

結局は途中で転職して一般職にうつってしまったのだが・・・。

もし続けていたら『彼女のようになりたい』と目標にし続けたと思う。

懐かしいその顔は以前と変わらず活き活きとしていて美しかった。

私とはまるで月とスッポン。

きっと今どんよりとした顔してる。

自分に自信が無さ過ぎて、向かい合いながら話すのも恥ずかしくなり俯いた。

それなのに彼女は

「あの頃と変わらないねー!」

と言って、子どもに『こんにちは~』と挨拶してくれた。

聞けば、仕事の打合せのために休日出勤をしていたのだと言う。

その打合せも終わり、この後はフリーだとのこと。

「ご飯でも食べに行こうか」

と誘っていただき、私たちはそのまま夕食を一緒にとることになった。


先輩の家でしばらくお世話になることに

先輩は少し静かなレストランに案内してくれた。

食事をし始めてからは一緒に働いていた時のことなんかを話していたのだが、急に

「何か話したいことがあるんでしょう」

と言われてドキッとした。

やっぱり困っているように見えたのかもしれない。

だけど、こんなヘビーな話を先輩にするわけにはいかないと思って、

「何言ってるんですか~。何も無いですよ」

と答えた。

私としては上手くごまかしたつもりでも、先輩にはお見通しだった。

「バレバレなのよね。前からそうだけど隠し事できないタイプでしょ」

と優しく笑った。

気が張っていたせいなのかな。

それとも結構メンタルにきてたのかな。

先輩の優しさに触れた途端、涙がドバっと出てきた。

自分でも何でこんなに泣けてくるのか分からなかったが・・・。

ただひたすら涙が止まらなかった。

子どもの前でこんな風に泣くなんて。

早く止めなければと焦っていたら、先輩が子どもに

「ママはね、おばちゃんと久々に会えてうれしくて涙が出ちゃったんだって」

とフォローしてくれた。

それを聞いた子どもは嬉しそうな顔で

「ふーん、そうなんだ。ママ良かったね」

と言った。

こういう時にさり気ないフォローをしてくれるところも、ちっとも変っていなかった。

少し落ち着いた後、

「今日は、この後どうするの?」

と聞かれたので、正直に

「宿泊できるところを探してるんです」

と答えたら、

「じゃあ、とりあえず家に来なよ」

と言ってくれた。

あの日、偶然再会した先輩に私たちは助けられ、結果として離婚することができた。

この後のことは身バレ防止のためにどこまで書けるか分からないが・・・。

普段外に出ても近所の人にさえ会わないのに、10年ぶりに先輩に会ったということ自体がまず奇跡だった。

こんな事ってあるんだな、としみじみと思った。

2025年4月8日火曜日

あの日、突然家を出ることに(続き)

家を出て駅に向かった

夫の怒鳴り声を背に受けながら家を出た私と子ども。

義父が止めてくれているとは言え、いつ飛び掛かってくるか分からない状況だった。

だから非常に焦っていたのだけれど。

こういう時に限って靴を履くのもスムーズにいかない。

いつも以上に時間が掛かってしまった。

やっと履き終えてすぐに玄関のドアを開け、勢い良く階段を下りて行った。

子どもの後から下りたのは、夫が追いかけてきた時のことを考えたからだ。

もし私が捕まってしまっても、子どもには逃げて欲しかった。

だから駆け下りながら子どもに

「もしママが捕まっちゃっても一人で駅の方に行って」

と伝えた。

駅の方に行けば交番もある。

大勢の人が居て、人目もある。

最悪の状況は免れると思った。

夫が本気で走ってきたら追い付かれてしまう可能性もあったため、駅までのルートも考えた。

ちょっと遠回りになるけど、いつもは使わない道の方が良い。

怯えながらも、とにかく走り続けた。

体力の落ちている私よりも子どもの方が早くて、途中で何度も

「ママ早く!」

と言われたんだけど、なかなか足が前に出なくて・・・。

やっとの思いで駅に着いた頃には足が鉛のように重かった。

遠回りをしたとは言え、結構な勢いで走ってきたのだから運動不足の夫はまだ来ないはず。

そこでようやく少しだけ安心して、子どもとこの後のことを話そうとした。

その時、ふと遠くの方を見たら夫によく似た人の姿が目に入った。

「(子ども)ちゃん、こっちに来て!」

咄嗟に子どもの手を引き、建物の脇に隠れた。

子どももハッとした顔でそちらに目を向けたが、よくよく見たら別人だった。

今はまだ大丈夫だと言っても、いつ夫が来るか分からない。

早くこの場を離れなければと思った。


行き先を決められず途方に暮れて

いつかは家を出ると決めていた。

準備もしていたし、気持ちも固まっているつもりだった。

だけど、いざ出てみるとまだまだ腹が決まっていなかったのだと痛感した。

この期に及んで、心のどこかでまだ『元に戻る』ことを想像するなんて。

その方が私にとっては楽だったのだ。

何でも夫の指示通りに動き、決定権も無い。

それはとても窮屈だったけど、考える必要も無かった。

長い間そんな環境に居たら自分の考えに自信が持てなくなったというのもある。

誰かに『それは合ってるよ』とか『間違ってるよ』と言って欲しい。

判断を仰いでから動きたいと思うようになってしまった。

家を出る準備自体は何か月も進めていた。

それでも、心が悲鳴をあげているような状況なのに『戻れるかもしれない』と考えてしまう矛盾。

そんな矛盾だらけの私についてくることになった子どもは大変だったと思う。

「この後どこに行こうか」

と小学生の子どもに聞いてしまうあたりが終わってる。

普通は親が率先して決めるものだろうに、私は子どもにまで意見を求めた。

だけど、まだ小学生の子がそこまで考えられるはずもなく。

私の方も滞在先に関しては検討中だったので、行く当てが無かった。

途方に暮れて早くも弱気になったが、ここで諦めてしまったら終わりだ。

だから、当ては無くてもとにかく動こうと思った。

とりあえず電車に乗ってしまおうか。

夫や義父が来ないうちに。

そう思っていたら、携帯が鳴って画面には『お義父さん』と表示された。

見ただけで嫌な気持ちになったが、同時に心配もした。

何かあったのかな。

本当は状況を聞きたくても連れ戻されるのが怖くて出られない。

そうこうしているうちに電話は鳴り止んだ。

実はこの後何度もかかってきて、そのたびに心が揺れた。

一度出て状況を確認できればスッキリするのかもしれない。

だけど、情に訴えてくるだろうからそれに耐えられる自信が無かった。

そんな風に葛藤しながら何とかやり過ごし、電話に出ること無くその場を後にした。

私たちが向かったのは駅のホームだった。

2025年4月7日月曜日

あの日、突然家を出ることに

機嫌の悪い夫が子どもをいたぶり始めた

あの日、突発的な出来事により私たちは急遽家を出ることになった。

夫は朝から機嫌が悪った。

でもそれ自体には慣れていたから。

いつも通り、波風を立てないように注意しながら過ごした。

いつもならそれで何となく収まるはずだった。

でも、あの日は違った。

夫は自分のイライラを分からせるかのように執拗な嫌がらせを繰り返した。

何をやっても怒鳴られるので、私たちは部屋の隅でじっとしていた。

食事の時も夫がリクエストしたものを出したのに。

何が気に入らないのがムスッとして箸もつけず。

仕方がないから私と子どもだけ食べていたら、突然箸が飛んできた。

「危ない!」

咄嗟に腕を伸ばして手の平で子どもをガードした私。

多分そうしなかったら当たっていた。

軌道から考えると、恐らく頭の方だったと思う。

これにはさすがに私も声を荒げて、

「危ないよ!何でこんなことするの!」

と言ったのだが、それに対して更に怒ってしまったようだった。

本当は謝って欲しいのに、これ以上怒らせて暴れられたらと思うと怖くて詰め寄ることもできず。

ただ、悲しい気持ちで黙々とご飯を食べた。

子どもも驚いてしまって箸が進まなかったのだが。

夫が立ちあがった後はひたすら私の方を見ながら黙々とご飯を食べていた。

これまでの経験から学んだことがあった。

それは、『ご飯は食べられる時に食べてしまわないと後悔する』ということだった。

あんな状況では夫に捨てられてしまったり暴れて食事どころではなくなる可能性もあった。

だから、生きるために黙々と食べた。

夫が立ち上がったのは自分のご飯を捨てに行ったからだ。

私たちの分を持って行かれてしまうのは困るけど、せっかく作った夫の分を捨てられてしまうのも悲しかった。

でも、悲しくてもいつも通りにしていなくちゃならないから。

全然笑えない状況なのに子どもに笑顔を向けながら、

「早くご飯済ませちゃおうね」

などと話しかけた。


午後になり虐待がエスカレート

ご飯を食べた後もずっと機嫌が悪かった。

なるべく近寄らないようにして、早く機嫌を直してくれることを願った。

子どもにも近寄らないようにとこっそり伝えたが、夫が急に

「お前、ちょっとこっちに来い」

と呼び寄せて、いつものように教育虐待を始めた。

まずは返却されたテストを目の前に開き、

「自分がどれだけバカか分かるか?」

としつこく言った。

子どもはひたすら『はい』と返事をしていた。

傍で見ている私の方がメンタルをやられそうになった。

その言い方があまりにも厳しくて・・・。

本当は口を出したいのに出せないジレンマ。

夫は私が何も言えないことを分かっていて、わざとやっていたと思う。

ようやくテストの見直しが終わり、ホッとしたのも束の間。

今度は家用のドリルを出して、規定時間の半分で解くように指示を出した。

そんなのできる訳がない。

だって、実際の年齢よりも上のものをやらせていたんだから。

当然のように指示された時間内に解くことはできず、

「今日から毎日10時間勉強しろ」

と無茶な要求をつきつけた。

子どもはもう何を言われても『はい』しか言えない状態に。

傍でヤキモキしていた私は、

「もう十分でしょう?」

と止めてもらおうとしたのだが、

「うるせーんだよ!口出すなって言ってるだろ!」

とキレられ、何もしていない子どもの手をパチンと叩いた。

あっと思った時にはもう遅かった。

私に怒った腹いせに子どもを叩いただけ。

それなのに、夫は後から理由付けをして、

「鉛筆の持ち方が間違ってる!」

「姿勢が悪い!」

と怒鳴った。

その上、真っ新の紙に自分で問題を書いて、

「これ解けなかったら、もう小学校なんて行かなくて良い」

と訳の分からないことを言った。

その問題は子どもにとって見たことも無い記号が書かれていて、当然解けなかった。

それを見た夫は、ハァ~とため息をつきながら

「学校意味ないじゃん」

と子どもの頭を何度も叩いた。

今度は私も身構えていたので、間に入るようにしながら子どもをガードした。

一度だけその手が私の肩あたりに当たったのだけれど構わなかった。

子どもが痛い思いをしなければそれで良い。

その後は庇った私を気に入らない夫と言い合いになり・・・。

ちょうど義父が来たところだったので、助けて欲しくて視線を送った。

それに気付いてくれて

「もうその辺にしとけよ」

なんて言いながら止めに入ってくれたのだが、夫の怒りは止まらず今にも殴りかかりそうな雰囲気だった。

このままではマズいな。

そう思って離れようとしたら、いきなり夫が私の肩を掴もうとしてきた。

その手を避けるように逃げて、隣の部屋に移動。

義父が何やら説得していたみたいだが、納得できない夫が私の居る所までやってきて揉み合いになった。

『もう逃げるしかない』

私は子どもの手を引いて、玄関に走った。

背後では夫の怒鳴り声が聞こえた。

2025年4月6日日曜日

喧嘩するたびに実家に帰る義兄

結婚してからもトラブルの絶えなかった義兄夫婦

食事会の件以降、義両親は義姉のことを毛嫌いしていた。

まさか本人には言わないと思うのだが、私たちの前ではよく

「あの嫁はダメだ。性格がキツすぎる」

と愚痴をこぼしていた。

確かに気の強い部分があることは否定しない。

でも、義兄だって十分に酷い態度を取っていた。

だから、あの夫婦の場合には”おあいこ”なんじゃないかと思った。

どちらか一方だけが責められるような関係ではいずれ追いつめられてしまうから。

・・・そう、我が家のように。

だけど、義両親にとっては文句も言わずせっせと夫の世話を焼くような人が良かったみたいで、義姉の話をする時にはいつも不満そうだった。

そんな状況でも、最初の頃は何とか上手くやっていた。

段々と歯車が狂い始めたのは入籍してから3カ月位が経った頃だった。

余談だが、義兄たちは結婚式をしていない。

義姉が親戚とも疎遠で呼ぶ人が居ないからと言っていたが。

そうだとしても、家族だけ集めてこじんまりとした式とか挙げなくて良いのかな、と心配した。

食事会の時に、結婚式への憧れのようなものがあると教えてくれた義姉。

あの時は酔っていたけれど、彼女の様子からは本当は式を挙げたいと思っているように見えた。

それを正直に言えれば良いんだけどね。

そういうキャラじゃなくて、『式なんて興味ない』と言ってしまうようなタイプ。

義兄の方も彼女の気持ちを慮って何かをするタイプではない。

そうすると、心の中で思っているだけでは何も伝わらない。

パッと見や第一印象とは違って、実は義姉は結構『乙女』なタイプだったと思う。

結婚に対する理想もあったようだが・・・。

相手があの義兄なので、期待していたような結婚生活は送れなかった。


喧嘩ばかりの義兄たち、そこに義両親が参戦

義兄たちの夫婦喧嘩は頻繁だった。

あまりにも頻繁過ぎて、周りは慣れてしまった。

でも本人たちは結構大変だったんだと思う。

段々とぶつかることにも疲れてしまったようだった。

やがて義兄は衝突すると実家に帰るように・・・。

義姉もそれを促すように『実家に帰れ!』と言った。

こうなると問題を解決するのが困難になる。

何か話し合いたくても相手への嫌悪感から素直になることができない。

二人は元々上手く行っていなかったけど、状況は更に悪化した。

階段を一段ずつ降りるように少しずつ少しずつ。

こういう時って、周りはどちらかの肩を持ってはいけないのだと思う。

でも、義両親は義兄の肩を持ち、義姉を非難した。

『可哀そうに』と繰り返し言って、義姉への苛立ちを隠さなかった。

「あんな人と結婚させるために一生懸命育てたんじゃない」

という言葉が、義両親の気持ちをよく表していたのだと思う。

真新しい新居にたった一人残された義姉。

毎日どんな風に過ごしていたのだろうか。

話し合いたくても義兄が実家から帰ってこない。

自分には帰る家もない。

義姉は早くに両親を亡くしていて、たった一人のお兄さんとも疎遠だった。

私は未だに

「家庭運が薄いのよ」

と寂しそうに笑っていた義姉の横顔が忘れられない。

今度こそ幸せになれると思ったに違いない。

それなのに、ずっと一人で生きてきてようやくつかんだ幸せが幻だった。

それを悟った瞬間の失望は想像を絶するものだったに違いない。

義兄にはまだ逃げる場所があるから良かったけど、義姉にはそれが無かった。

結果的に、段々と精神的に追い詰められてしまった。

その異変に気付ける人も居なく、気づいたら取り返しのつかないことになっていた。

2025年4月5日土曜日

お義兄さん夫婦の抱えていた問題

お義兄さん達の結婚祝いのお食事会でもひと悶着

お義兄さんの奥さんはお義兄さんよりも5つ年下だった。

私の姉と同い年で、ちょっとパリピ臭のする人。

会話をすればどんどん話題が出てくるし、基本的に陽気。

だから、それなりに楽しかった。

こちらが話題を提供しなくても会話が続くというのも楽だった。

初めて会ったのは、二人の結婚が決まった時。

義両親も交えてみんなで食事をすることになった。

場所の手配は当然お義兄さんたちでしてくれるのだろうと思っていたのだが。

何故か『自分たちは忙しいから』という理由で義両親に丸投げしてきた。

だけど義両親もそういうのが苦手。

『どうしたら良いのかしら。どこにすれば良い?』と夫に相談し、巡り巡ってとうとう私のところにまで話が来た。

夫が私に伝える時には依頼ではなく命令だ。

拒否することなど許されないから渋々引き受けることになった。

みんなの好みを考慮しつつ日程の調整を行い、金額的にも許容範囲のお店を探して予約。

平日の日中はなかなか時間が作れなかったので依頼を受けた週の土曜日に手配した。

その時点で夫からは

「動きが遅くない?」

と文句を言われていて、義両親からも

「食事会の件、どうなってるの?」

と何度かせっつかれていた。

だから、手配が済んだ後すぐに夫と義両親に報告。

報告を受けた義両親はその日のうちに我が家にやってきて、

「なかなかいいお店だね」

とご満悦だった。

お義兄さんとは直接やり取りしたことが無かったので、そこは夫に伝えてもらうように依頼して完了。

やっとこの役目から解放されたかに見えた。

その日の夜、夫の携帯が鳴った。

お義兄さんからだった。

最初はお店の手配に対し、お礼を言われているようだった。

だが、段々と表情が険しくなった。

相槌を打ちながらチラチラとこちらを見てくる夫。

私は何だか嫌な予感がした。

電話を切った後、夫は

「予約したお店なんだけどさ・・・。兄貴たちが別の所が良いんだって」

とバツが悪そうに言った。

さすがの夫も全て丸投げしたくせに文句だけ言ってくるなんて非常識だと思ったのだろう。

私も内心は腹が立っていたのだが、表情を変えずに

「分かった。別の所探すね。今度はお義兄さん達に事前に確認しよう」

とだけ答えた。

その後は淡々と与えられた役割をこなした。

最初は『少しでも良いところを探して喜んでもらいたい』と思っていたのだけれど・・・。

どうでも良くなった。

次の週の土曜日に予約を入れ、食事会はその2週間後になった。


お義兄さんの奥さんと初対面

食事会の日、お義兄さんの奥さんと初めて会った。

噂に聞いていた通り、明るい人だった。

鈍くさい私と比べ、ハキハキしていて動きも早い。

初対面だと言うのに、まるで以前から知っていたかのように話しかけてくれた。

お義兄さんも良い人を見つけたのね。

他人事ながら喜んでいたら、お義姉さんが私の隣に来て

「(お義兄さん)はモラハラだよ」

と突然言ってきた。

えっ?と思って彼女の顔をまじまじと見ていたら、

「いつも酷いことばっかり言うの。まだ結婚する前だけど自信ない」

と続けた。

それなら婚姻届けを出す前にもう一度考えた方が良いんじゃないの?

まだ間に合うんだから。

と思ったのだけれど、その後の発言でズッコケた。

「でも結婚はするよ。だってもう家を買っちゃったんだから」

『モラハラだ』と言いながらも幸せそうなのには、そういう理由があったということだ。

真新しい新居に移り住むことを心待ちにしている様子で、とても嬉しそうだった。

食事会も終わりに近づいてきた頃。

お義兄さんから家の件で報告があった。

突然『皆さんに報告があります』なんて改まって言うものだから、一同シーンと静まり返った。

この時、お義母さんは赤ちゃんができたと思っていたようだ(笑)

全身から喜びがにじみ出ていて、『あらっ、何かしら』と言いながらソワソワしていた。

だが、家を買ったという話を聞いた瞬間にドーンと落ち込んでいて、その落差が凄かった。

その後は負のオーラを纏っていて話しかけることもできなかったのだが、帰り際に

「(子ども)ちゃんの従兄弟ができると思ったのにね」

とポツリと言っていた。

お義兄さん達はというと、食事会が終わった後に何やら言い争いをしていた。

原因は些細なことだったみたいだが、二人とも気が強いので収拾がつかなくなっていた。

それで珍しく夫が間に入って話を聞くことに。

そこでもお義兄さんがモラハラだという話が出て、義両親の表情が曇った。

だけど、お義兄さんが言うには『(お義姉さん)の言うこともおかしい』と。

こんな船出で大丈夫なのかと周りは困惑した。

2025年4月4日金曜日

元夫との復縁をすすめてくる知人

モラハラや虐待を理解している人は多くないのかも・・・

知人と話をしていた時のこと。

唐突に、

「元旦那さんと復縁する気は無いの?」

と聞かれた。

これが全く事情を知らない人の話ならまだ分かる。

でも、その人にはざっくりとこれまでの経緯を話してあった。

だから衝撃を受けてしまった。

モラハラや虐待って理解してもらうのが難しいのだと思う。

特にそういった事象とは無縁に生きてきた人たちにとっては。

ただ、こうやってそれを目の当たりにしてしまうと、やるせなさを感じずにはいられなかった。

全身の力が抜けるような脱力感。

家を出たり離婚の交渉をすることは、私たちにとっては命がけのことだった。

こんな目に遭った私たちのことを周りだって分かってくれるはず。

気づかないうちにそんな風に考えてしまっていたのかもしれない。

私はもちろん、

「復縁は絶対にないよ。あの生活に戻るなんて想像もできない」

とキッパリ否定した。

でも相手はその答えに納得できなかったのか、

「そうは言っても、離れてみて見方が変わることってあるでしょう」

と言ってきた。

離れてみて私は現実を知った。

自分の置かれていた状況をきちんと理解できるようになった。

『あー、あれは異常なことだったんだ』と気づいたのは家を出てからだ。

それまでは自分にも悪い所があるから夫を怒らせるんだと思っていた。

その後も、

「同じ人と再婚する人って案外多いらしいよ」

「まだ少しでも気持ちが残っているのなら、他の人にとられないうちに早めに動いた方が良いよ」

などとしつこく言ってきて、何だか嫌な気持ちになった。

「どんな所に惹かれて結婚したの?」

などと聞かれたって、今となってはもう良かった所なんて思い出せない。

記憶に残ってるのは怒った時の表情や声、無言の圧力だけだ。

子どもを叩いたり蹴ったりする姿も脳裏にこびりついている。

こうやって離婚した後もちょっとしたことで傷つき、誰からも理解されていないような寂しさを感じることがある。

相手も悪気があるわけじゃない。

世間話の延長でそんな話になっただけ。

そうだとしても、復縁という言葉を聞いただけで耳を塞ぎたくなった。


旦那さんが可哀そう、という世間の目

離婚した後、思わぬ攻撃を受けたことがある。

元夫と子どもの面会頻度を聞かれ、『会わせていない』と話した時、

「旦那さんが可哀そう!どんな理由があるにせよ父親ということに変わりは無いのよ」

と言われた。

本当は話したくなかったんだけど、仕方なく虐待の事実を淡々と伝え、

「子どもも会いたくないと思っているんです」

と言ったら、

「そうなるように誘導してるんでしょ。子どもの権利は奪っちゃダメ!」

と何故か憤っていた。

その人に怒られる筋合いは無いが、世間一般ではこういう見方をする人もいるんだなと勉強になった。

虐待に関しても納得できないようで、

「虐待って言っても感じ方は人それぞれだから。あなたがそう思っていても旦那さんは違うと思っていたわけでしょう?」

などと言われ、

「世の中は父親側が損をすることが多すぎると思うのよね」

と元夫に同情した様子だった。

母親が子どもを連れて家を出てそのまま離婚が成立し、父親がずっと子どもと会えていないという問題があることは知っている。

だけど、我が家とは全く別の問題だ。

それを一緒くたにされると本当に困ってしまう。

これが私を攻撃したくて言っているだけなら、そういう気持ちで聞き流せば良いんだけど。

「共同親権で少しでも不公平な現状が改善されれば良いのにね」

という発言から推察するに、恐らく本当に現状を憂いているのだとは思う。

『良い人なんだろうな』というのが分かるからこそ、残念な気持ちになった。

2025年4月3日木曜日

スマホゲームで元夫からフレンド申請?!!

深夜のフレンド申請・・・その名前に見覚えが

夜ご飯を食べ、洗い物をしてお風呂に入った後は自由時間だ。

大抵はテレビを見たりアマプラでドラマを観たりしている。

このリフレッシュ時間がとても大事。

時々スマホでゲームをすることもある。

結構長い間続けているゲームもあって、その世界観に何となくはまっている。

熱中するというほどでもないんだけど。

空き時間ができたらちょこちょこやる感じ。

先日夜遅くにゲームをしていたら急にフレンド申請が届いた。

もうフレンドはいっぱい居るので普段はあまりチェックしない。

でも、何故かその時は何となく確認しようかなと思って画面を開いた。

レベル的には『あ~まだ始めたばかりの人なんだな』という印象。

そして名前を見ると・・・。

あれっ?と思った

その名前には見覚えがあった。

もちろん本名ではないんだけど、過去に何度も見た名前。

思い出した途端に嫌な気持ちになったのは、元夫が使っていたものだったからだ。

一緒に居た頃、本名以外で登録する時によく使っていた。

もちろん偶然ということもあるんだけどね。

目にした瞬間に驚いて思考が停止してしまった。

アルファベットの並びとか使い方とか。

まさに!という感じ。

元々フレンドを増やすつもりも無いし・・・。

迷うことなく拒否を選択した。

この状況だったら誰でも警戒すると思う。

その名前が一般的なものならまだ分かる。

でも、元夫の感性は独特なので他の人が使わないような名前だ。

まさかとは思うけど、私だと分かっていて申請してきてないよね?と疑心暗鬼になった。

もしバレているとしたら、こちらにも落ち度がある。

というのも、私もいつも使っていた名前で登録していたからだ。

同じ発音でもアルファベットの使い方が分かれるような名前で、元夫ならピンと来るかもしれない。

と言っても今更変えられないしゲームも止めたくない。

それにまだ元夫と決まったわけでもない。

ということで、とりあえず様子を見ることにした。


再びのフレンド申請に警戒感MAX

そのゲームは、男性がやっているというのをあまり聞かない。

だから女性が男性っぽい名前でやっているのかな、とも思った。

元々ゲーム内でコンタクトを取る手段はほぼ無くて、フレンドにならなければそれで終わり。

相手はそれ以上何もできないと考えて、この件は放置することにした。

それからはいつも通りゲームを楽しんでいたのだが・・・。

その数日後。

驚くことに、またあの名前の人からフレンド申請が届いた。

今度は見ただけでちょっと手が震えた。

やっぱり本人なのかな。

そもそも2回も申請してくること自体が異例のこと。

それで私の警戒心もMAXに。

元夫は結構執着するタイプだから、本人の可能性が高まったとも言える。

でも、たまたま同じ人に申請してしまったという可能性も残されている。

私はまたしても考え込んでしまった。

フレンドになるという選択肢は無いのだが、拒否し続けても大丈夫かなと不安になった。

変に恨みを買ってしまい、その後暴れられても困る。

うちに来て嫌がらせをされたり子どもにしつこくされるのも怖い。

フレンドになるとプレイをしている時間なんかも分かってしまうので、絶対に避けなければならなかった。

ただ、2回目は怖くて拒否することができず、気づかないフリをすることに。

いや、相手は気づいているかどうかなんて分からないんだけど。

『前回拒否したのに今回はスルーなんだから、気づいてないんだろうな』と思わせたかった。

思えば、離婚してからもずっと夫の影に怯えて暮らしてきた。

道で似た人を見れば息が止まるほど驚いて、物陰に隠れた。

子どもも同じで、以前駅前で似た人を見かけた時には怖くて家に帰れなくなってしまった。

それで私の仕事が終わるのを待っていた。

帰りの道沿いにあるお店の中で震えながら待っていたことを知った時には胸がギュッとなった。

それくらい恐怖を感じているということだ。

早くこの恐怖心から解放されたいけれど、その方法が分からない。

2025年4月2日水曜日

急な引継ぎに戸惑う同僚

詳しいことを伝えられなくて

いつ修羅場になるか分からないくらい緊迫した毎日だった。

だから、家を出たいと思うのも自然なことだったのかもしれない。

その時が来たら迷わず出よう!と決心したのだけれど・・・。

タイミングを見極めるのがとても難しかった。

用心深く夫の様子をうかがいつつチャンスを待つ私たち。

そのことばかり考えていたので、あの頃は終始緊張していた。

だけど、待っている時に限ってそういうタイミングがやって来ない。

本当は決心が鈍らないうちに動きたかったのだけれど、なかなか思うようにはいかなかった。

あまりにも膠着状態が続いたので、ちょっと不安になったことも。

『あれっ?もしかしてこのままズルズルいってしまうのでは?』

一度そんな嫌な想像をしてしまったら余計に焦りが出てきた。

無理やり動くことも考えたけれど、やっぱり上手くいかないような気がして踏みとどまった。

膠着状態と言っても決して平和だったわけではない。

常に低空飛行という感じで、ずっとじわじわと辛かった。

ドーンと落ち込むのも嫌だけど、じわじわと辛いのも結構しんどい。

大きなきっかけが無いまま時間だけが過ぎていき、精神的にはより窮屈になった。

こういう時は色々と考えてしまうので、できるだけ動いた方が良いのだと思う。

私の場合は、時間を無駄にしてはいけないと考えて業務関係の引継ぎや連携をこっそり始めた。

同僚に会議室に来てもらい、

「実は今行っている業務を引き継ぎしておきたいんだ」

と伝えた。

聞いた瞬間、驚いたような顔をして

「えっ?辞めるの?」

と聞かれたので、慌てて否定した。

「ううん。辞めるわけじゃないんだけど。もしかしたら何日間か来られない日があるかもしれなくて」

こんな説明で納得してくれる人が居るだろうか。

私だったら訝しんできっと何か隠してるんだろうな、と考えてしまうと思う。

だけど、同僚は快く引き受けてくれて、

「よく分からないけど、引き継がなきゃいけないっていうのは分かった」

と言ってくれた。

ハッキリ言って、家族である夫よりも会社の同僚や知人の方がはるかに優しかった。

人ってこんなに優しいんだ、と私はたびたび感動した。

この時、詳しいことを伝えられないのが本当に心苦しくて・・・。

しかも、会社まで巻き込んで大事になってしまった。

ここまでしても、もしかしたら身動きが取れないまま『その時』がやってこないかもしれない。

夫との対峙も怖かったが、『その時がやって来ないかもしれない』という不安も大きかった。


上司への報告と夫からの疑惑の目

引継ぎを終えたところで、だいぶ気持ちが安定した。

こうやってちょっとずつ準備をしていけば、きっとうまくいく。

大丈夫。

そう自分に言い聞かせるように目の前のことを処理していった。

それまではメソメソしたり考え込んだり。

塞ぎこむことの多かった私だが、動いているうちに少しだけ吹っ切れた。

ほんの些細な変化だと思うのだが、恐ろしいことに夫は何かに勘づいた。

「お前、何か企んでない?」

何度もそう聞かれた。

過去に何度か家出を試み、そのたびに失敗したという前科がある。

夫はそれを思い出して警戒したのかもしれない。

私の方も、これ以上勘づかれてはまずいと慎重に行動することにした。

それにしても夫はなぜあんなにも鋭いのか。

まるで心の中を読まれているみたい。

コッソリ貯めたお金のこととか仕事のこととか。

知られてはいけないことがたくさんあって、毎日冷や汗ものだった。

最終的に大事なものは会社に置かせてもらうことになったのだが。

会社といっても色んな人が居る。

鍵がいくつかあると安心できないので、私だけがカギを持っている棚を利用した。

しかも、ぱっと見では分からないように奥の方にしまいこんで目立たなくした。

犬が大事な骨を埋めて隠すような感じ?

きっと開けっ放しにしてあっても誰も気づかなかったに違いない。

着々と準備が進む中、まだ大きな問題が残っていた。

それはしばらく滞在できる所の確保だ。

実家や姉の所はすぐにバレてしまうし迷惑がかかる。

親戚も割と近くにいるけれど、こんな時ばかりお世話になることはできない。

モラハラ夫がすぐに探し当てられるという点でも現実的では無かった。

以前は電車で数十分の観光地に身を隠そうかな、なんて考えたこともあった。

だけど、いざそういう時が近づいてきたらメンタル的に無理だと分かった。

とてもじゃないが、そういう気分にはなれない。

そんなこんなで、滞在先探しに本腰を入れることにした。

2025年4月1日火曜日

仕事が続かない夫

ブランクがあっても雇ってもらえたのに

元夫は何年もの間働いていなかった。

体調不良もあったから仕方がないと言えば仕方がない。

そのままずっといってしまったら将来どうするんだろう。

他人事ながら心配していた。

離婚した後、夫は実家に戻った。

それからしばらくしてから就職活動を始めた。

働く気はあってもブランクがあるから難しいだろうな。

結婚後数年しか働く姿を見ていなかった私は、そんな気持ちで傍観していた。

だけど、意外にもあっさりと次の職を見つけた。

意外と決まるものなんだな。

ずっと引け目を感じていたことも知っていたから、本当に良かったな~と思っていた。

内定を頂いてからすぐに働き始め、次に連絡が来たのは1か月後。

その時点でかなり怪しかった。

せっかく決まった仕事をもう辞めそうというか・・・。

まだ慣れるのに必死の頃だと思うのに粗探しばかり。

それを私に言ってきて『なあ?酷いだろ?』と同意を求めてくる。

まさかとは思うけど、1か月やそこらで嫌になったんじゃないでしょうね。

でも自分の置かれた状況は理解しているだろうから簡単には止めないよね。

そんな風に思っていたのだが、そのまさかだった。

何と2か月後には『もう辞めるわ』と言い始め、たった3か月で退職した。

雇ってくれた会社もどう思っただろうか。

ブランクがあってもやる気を見てくれたわけだけど。

こんなに短期間で辞めてしまうなんて考えてもいなかったはずだ。

長い長いブランクの後の職場復帰は、こんな感じであっさりと終了した。


一目置かれる存在になりたい夫の現実とのギャップ

自分は凄い人間だ。

他の人たちからもっと尊敬されるべきだ。

いつもそんな考えが根底にあった。

だから、職場などで少しでも扱いに不満が出るとすぐに辞めたくなった。

私と付き合い始めてから結婚して数年の間は奇跡的に同じ仕事を続けていた。

だけど、結婚して数年で辞めてしまい、その後はずっと無職。

無職というと聞こえが悪いので、周りにはテレワークということにしていた。

私も子ども関連で聞かれた時には言葉を濁してそのように匂わせた。

だけど、子どもは正直だから、

「パパはずっとお家にいるよ。何もしてないよ」

と言ってしまう。

嘘を言わせるのも良くないし。

正直に言うのも憚られる。

この問題は一緒にいる間ずっとついて回った。

夫は夫で、子どもがカミングアウトすると物凄く怒った。

そうは言っても幼児だから上手に嘘なんてつけないんだよ。

そう伝えると、

「コイツが馬鹿だからそんな簡単なこともできないんだ」

と子どものせいにして𠮟りつけた。

子どもからしたら訳の分からないことで怒られているような感じになってしまう。

あまりにもそういうことが多かったので、子どもは段々と夫のことを外では口にしなくなった。

家の中でもあまり話さず、必要最低限のことを伝えるだけ。

夫は子どもからも慕われる自分を理想としていたので、それも許されなかった。

口調や態度から、『もっと俺を敬え』という圧力をかけた。

その頃の子どもは私同様ちょっとした異変にも気づくようになっていた。

夫の気持ちを敏感に感じ取り、今度は一緒に居る時にわざとはしゃいだり饒舌になったりした。

夫がそれで満足してくれれば良いのだけれど・・・。

機嫌が悪いと『うるせー!!!』と怒鳴りつけた。

どうしたら良いのか途方に暮れる子ども。

可哀そうで見て居られなかった。

夫にもう『少し態度を改めて欲しい』と伝えたこともあったけど。

『お前ごときが俺に口を出すな』と話にならなかった。

馬鹿にしている私の意見なんて聞けないということだ。

対等に話すこともできない夫婦なんて終わってると思う。

あの偏った考えに苦しめられた私たちからすると、夫を慕う仲間たちが異様に思えた。

でもそれも仕方のないことなのかもしれない。

だって外面がとても良くて、仲の良い友人は皆騙されていたのだから。

本当の姿を知っているのは私たちだけだ。

2025年3月31日月曜日

義両親からの手紙はちょっぴり切ない

『孫に会いたい』という気持ちが溢れていて・・・

時々、義両親から手紙が届く。

ハガキのこともある。

そこに共通しているのは『孫に会いたい』という気持ちだ。

文章からにじみ出ていて、それを無視することができない。

気づかないフリをしても、その思いが容易に想像できてしまう。

たった一人の孫だから、本当は会いたいんだろうなということは分かっている。

分かっているくせに疎遠にし続けることは『悪』なのだろうか。

近頃そんなことばかり考えている。

義両親だってもう若くない。

このまま疎遠にし続けて二度と会うことができなくなったら・・・。

その時後悔しないと言える自信がない。

子どもも『会いたかった』と思うかもしれない。

どうにもならないことを考え続け、だけど思考は堂々巡りで。

段々と疲れてきてしまった。

『いつか会える日を楽しみにしています』

特にこの言葉が私の心に棘のように刺さってチクチクとした痛みをもたらしている。

そう書かざるを得ない義両親にはどんなに望んでも二度と手に入らないものがある。

それは、孫との普通の生活だ。

離婚する前は家に来るたびに子どもと遊んで買い物にも一緒に行った。

小さい頃は泊りにも行った。

幼い子どもにご飯を食べさせているお義父さんやお義母さんは、とても幸せそうだった。

『可愛いねぇ』と目を細めて言っていた姿を思い出す。

それが、離婚を機に全く会えなくなって、これからもずっと会えないかもしれないなんて。

私だったら絶望するだろうな、と思った。

だから、手紙を無視し続けることに罪悪感をおぼえてしまう。

かと言って会わせてあげることもできず、未だに夫の存在に怯えている。

どうしてこうなっちゃったのかな。

もし夫があんな人でなければ、きっと義両親ともそれなりに上手くやっていた。

そうしたら子どもとも交流し続けて、幸せな老後を送れたに違いない。

こういうのでタラレバは無いけれど、ふとそんなことを考えてしまう。


夫からの不満

離婚が決まった後、夫から

「お前はうちの両親のことも不幸にしたんだよ」

と言われた。

当時は夫への恐怖心が大きくて、そんな言葉にもまともに反応できなかった。

ただ言われた言葉をそのままのみこみ、『そうなんだ・・・』と思った。

私が何も言わないからか、夫は追い打ちをかけるように

「俺に気づかれないように毎日こっそり(子ども)の動画なんか見ちゃってさ・・・」

と言った。

イベントなどで撮ったものを義両親にも渡していた。

だから、義実家にはいくつもの動画があった。

ある時、トイレに起きて階下に行ったら自分の部屋でお義父さんが動画を見ていたそうだ。

夜遅くに真っ暗な部屋で動画を見ている後ろ姿を見た夫は『声を掛けられなかった』と言っていた。

そこに自分の責任を感じていない所が夫らしい。

離婚することになったのは自分にも責任があるのに。

まるで全責任が私にあると言われているようだった。

それには反論したい気持ちもあったが、義両親に関しては本当に申し訳なく思った。

子どもはどんどん大きくなる。

その成長を一緒に見守ってもらえたら良かったのに。

それもできなくなってしまった。

今はもう、大きくなった姿を想像しながら過去の動画を見るしかないのだろう。

どんな風になっているかな?と想像しながら・・・。

いつか状況が変わり夫への恐怖心も無くなって会える日が来たら。

その時は義両親と子どもを会わせてあげたい、という気持ちもある。

それが叶うまで元気で居て欲しい。

私は決して義両親のことを嫌ったり憎んだりしていたわけではない。

時には分かってもらえなくて悔しい思いもしたけれど。

それは本気でぶつかってお互いの主張を言い合っただけ。

家族だからそれで良いんだと思ってた。

でも、離れてみて義理の実家との関係というのは脆くて難しいものなんだなと実感した。

2025年3月30日日曜日

義両親からの支援で塾に行くように言われたが・・・

「出来が悪ければ早めに手を打て」

小学校低学年の頃、子どもの成績が芳しくなかった。

理解していないという感じではなく、ケアレスミスが目立った。

小さいうちはそういうこともあるだろうから、ひとまず様子を見守ることにした。

だが、これに口出しをせずにはいられない人たちが居た。

そのうちの一人が夫だ。

夫は日々何かしらの文句を言っていたのでいつも通りと言えばいつも通り。

予想外だったのは義両親まで色々言ってきたことだった。

呑気に構えている私に対し、

「今のうちからちゃんとしなければだめ」

「このまま行ったら落ちこぼれちゃうから」

「出来損ないと思われも良いの?」

などなど、色んなことを言ってきた。

『子どもが勉強しなかったり真剣に取り組めないのは家庭環境のせい』とまで言われた。

家庭環境のせいと言われると非常に困ってしまった。

その責任の一端は夫にもある。

それを私だけのせいにされるのも納得できなかった。

義両親からは、そういう諸々を含めて私が管理するようにと言われた。

この時『簡単に言わないでよ!』と内心思っていた。

家庭環境を整えるのはかなり難しい事だと義両親も知っているはずなのに。

日頃どんなに辛い思いで過ごしているかも知っているはずなのに。

私の頑張りが足りないような言い方をされてショックだった。

あのモラハラ虐待夫が家に居たら普通に暮らすだけでも非常に大きなストレスを抱えることになる。

その上、子どもの成績まで『普通』では許されないなんて。

一緒に聞いていた子どももショックを受けたみたいで表情は硬かった。

その後、夫から

「お前、今のままじゃダメなんだぞ。どうするんだ?!」

と詰め寄られ、子どもは半泣きになりながら

「頑張る。頑張るから」

と言った。

そうしたら夫が、

「前にもそう言ったよな!もう聞き飽きたって言ってるんだよ!」

と怒鳴った。

傍で聞いていたお義父さんが子どもに

「ほら、ごめんなさいってしちゃいなさい」

と促し、それを聞いた夫が更に激高して

「そういう話じゃねーよ!こんな落ちこぼれでどうしようもねー奴、どうやって普通のレベルまで持って行くのかって聞いてるんだよ!」

と叫んだ。

子どもは手をギュッと握りしめてポロポロと涙を流していた。

それを見た私はたまらず、

「もう止めてよ。何でそんな酷いことを言うの!」

と子ども抱きしめた。

夫に歯向かってしまったことでドキドキしていたが、子どもが可哀そうで言わずにはいられなかった。

義両親にも夫を止めて欲しくて視線を送ったら、二人は口々に

「ママがそんなに感情的になってちゃ話もできないわ」

と馬鹿にしたように言った。


『塾代を出すから通うように』と言った義両親

怒られた子どもは私の後ろに隠れて『ごめんなさい』と繰り返した。

私にしがみつきながら、しゃくり声をあげて泣いた。

あまりにも泣くものだから義両親も少し戸惑ったようだ。

でも、夫は子どもの手を無理やり引っ張って自分の方に引き寄せた。

「泣いてちゃ分かんねーんだよ!」

更に怒鳴られて肩を揺らしながら涙を流す子ども。

このままではまずい。

そう思って咄嗟に夫と子どもの間に入ろうとした。

だけど、義両親から

「今、大事な話をしているの」

と止められた。

私にはどう見ても子どもを虐めているようにしか思えなかった。

それなのに、この3人からしたらこれは教育的指導ということになるのだ。

自分たちのしていることは正しいと信じて疑わない様子に正直ゾッとした。

結局子どもは無理やり

「塾に行かせてください」

と言わされた。

夫がそう言うように促し、義両親も満足そうに聞いていた。

決して子どもの意思ではない。

それは、そこに居た全員が知っていることなのに、夫は

「お前が決めたんだからな!一度決めたことを途中で投げ出したら許さないからな!」

と脅した。

お義母さんも、

「自分で決めたんだもん。頑張れるわよね」

と言っていて、私は絶句した。

きっとこれで成績が上がらなかったらなじられる。

そうなったらまた別の意味で地獄だ。

子どもは本当は行きたくもない塾に通うことになり、しばらく落ち込んでいた。

2025年3月29日土曜日

2度目の上司との話し合い

『次のチャンスで家を出るつもり』だと伝えた

2度目の上司との話し合いの機会はすぐにやってきた。

前回は中途半端な所でお開きになってしまったので上司も気になっていたようだ。

業務が比較的忙しくないタイミングを選んで再び会議室で話し合いをした。

モラハラや虐待なんて家の中でのことだ。

本来なら会社の人に言うような話ではない。

でも、家を出た時にどうしても迷惑をかけてしまうから言っておかなければならなかった。

まず最初に伝えたのが『現在、家を出るタイミングをうかがっている』ということだった。

これまで、なかなかチャンスが巡ってこなかった。

チャンスがあったとしても勇気が無くて出られなかった。

次にもしチャンスがやってきたら迷わず出るつもりだ、と伝えた。

本当に家を出た場合、1週間程度は仕事に来られなくなる可能性がある。

状況が落ち着かなければ更に長引く恐れも。

その間、夫は何としてでも探し出そうと色んなことをするはずだ。

周りの人を巻き込み、会社にだって連絡が来ると思う。

連絡が来た時に、想定内のこととして動けるようにしておきたかった。

休んでいる間の業務も気になっていた。

実は少しずつ手順や内容をファイルにまとめていたのだが、それだけではやはり不十分だった。

それで、関係する人に時間を作ってもらい、説明しておきたいとお願いした。

その件も快くOKをもらい、早めに動くことになった。

ただ、その人たちに何て説明したら良いのかが分からなかった。

急に業務内容を連携しておきたいと言われたら普通なら戸惑うだろう。

その上、理由も分からなければ不審に思うかもしれない。

本来なら事情を説明するべきなんだけど、夫の件を知られるのも躊躇われた。

「理由は何にする?」

と聞かれた私は黙り込んだ。

そんな様子を見た上司はしばらく考えた後に

「家庭の事情、ということにしておく?」

と提案してくれた。

確かにそれなら詳しいことを言わずに済む。

特定の状況を表すものではないから、その後会社に居辛くなるということもない。

今後のことも考えてそれが一番良さそうだということで、ある程度の方向性は決まった。


上司の前で涙

「それにしても、旦那さんてそんなに怖いの?」

と上司から聞かれた時、私は間髪入れずに、

「はい、とても」

と答えた。

「まあ厳しい人は居るけど、家族にそんなことするなんてね・・・」

と同情している様子だった。

特にうちの子のことを気にかけてくれて、

「虐待なんて何があってもしちゃだめだよね」

と言ってくれた。

夫からは聞いたことのない、

「頑張ってきたんだね」

「辛かったでしょう」

という私たちを気遣う言葉が胸にジーンときた。

話し合いが始まった時には、伝え漏れが無いようにということばかり考えていたのだけれど。

優しい言葉をいただいて、思わず涙が出てしまった。

親子ほど年の離れた上司からの言葉は私の心にズシンと響いた。

まるで両親から言われているような気がして。

あー、きっとうちの両親に伝えたら同じように心配されるんだろうな、と思ったら涙がボタボタと出てきてしまった。

ハンカチで涙を拭いながら、

「本当は家を出るのも怖いんです。でも子どものためにやらなきゃって思って・・・」

と言ったら、

「上手く行くといいね。弁護士さんが必要なら紹介するから」

と力強い言葉をもらった。

2度の話し合いで、とりあえずは状況を伝えることができた。

後は家を出た後に困らないようにお金や荷物の準備をしなければならなかった。

一時的にでも滞在できるところを探す必要もあった。

まだまだ気を抜けない状況ではあったが、ほんの少しだけホッとした。

2025年3月28日金曜日

家を出ることを想定し、上司に相談

やっと離婚を決心

長い長い時間がかかってしまった。

繰り返されるモラハラ虐待により、夫との生活に疲れ切っていた。

『明日なんて来なければ良いのに』

そう思うこともたびたびあった。

それなのに、どこか諦めきれない気持ちもあった。

その気持ちが決心を鈍らせた。

きっと夫に見抜かれていたのだろう。

何があっても見捨てるはずがないと。

実際、どんなに酷いことをされても見捨てることができなかった。

この人には私たちしかいない。

そんな思いが決断の邪魔をした。

長い人生の中には、決断しなければならない時がある。

私にとっては、まさにあの時がそうだった。

我慢することが当たり前になっていたが、ふと思ってしまった。

『もう良いかな』って。

頑張っても頑張っても報われない日々。

むしろ頑張れば頑張るほど、もっと高いレベルを要求されて苦しくなった。

子どもは、ありのままの自分を愛してもらうという経験ができなくて苦しんだ。

私が褒めると、

「甘やかすな!コイツはどうしようもない人間なんだからな!」

と叱られ、常に否定されて育った。

悲しむ子どもを見るたびに『母親の私がしっかりしなければ』と思うのに何もできない。

そんな日々に疲弊し、追い詰められた。

ある時、いつものように夫から暴言を吐かれ子どもが虐待されて自分の中でプツンと何かが切れた。

ようやく決心することができた瞬間だ。

ただ、決心したと言っても簡単ではなかった。

夫は上手く立ち回り離婚を回避しようと試みるだろうし、口でも体力でも叶わない。

闘うためには周到に準備をして不測の事態にも備えなければと思った。

多分、仕事にも影響が出るだろう。

私の職場では仕事が被る人が居ないので、数日抜けただけでも迷惑をかけてしまう。

前もって相談しておかなければ業務に支障が出る可能性が大きい。

その日がいつ来るかはまだ分からなかったが、こちらも備えなければと動いた。

仕事に関しては、やはり上司への相談が必須となる。

どんな反応が返ってくるか怖かったけれど、まずは話を聞いてもらうことにした。


上司の驚き

朝一で、上司に

「ちょっとお時間頂けますか?」

と声をかけた。

一瞬ビクッとなり、それから

「じゃあ会議室を予約して時間教えてね」

と言われた。

後から知ったのだが、私が退職を申し出るのだと思ったらしい。

思い詰めた表情で『お話が・・・』と言われたら誰でもそう思うだろう。

それがまさか家庭内のトラブルの話だなんて想像できなかったと言われた。

だからなのか、話し合いが始まる前に

「何かとても重要な話なのかな」

とソワソワしていた。

そんな勘違いをされているとは露知らず、私は家庭内の問題を話し始めた。

夫が無職というのは上司も知っている。

私の扶養に入っていて、家族手当までもらっている状況だったのだから。

ポツリポツリと家でのことを話し始めると、上司は驚いた表情になった。

私は辛かったり悲しかったりといった気持ちが表情や態度に出ないタイプらしく、皆から

「いつものほほんと幸せそうだね~」

と言われていた。

だから、そんな問題を抱えていたなんて思いもしなかったようだ。

夫の問題を人に話すのは初めてのことなので、私の方はとても緊張していた。

まず、この話を信じてもらえるのか。

信じてもらえたとして、どれほど深刻にとらえてもらえるだろうか。

理解を得るためにはいくつものハードルがあった。

家庭内で起きていることなので目撃者はいない。

私や子どもの証言だけなのだから、話を作ろうとすればいくらでもできる。

また、上司は少し年配の方なのでモラハラに理解があるかも未知数だった。

だから、相談はいわば賭けだった。

話している間、上司は時々相槌を打ちながら聞いてくれた。

「家を出るかもしれない」

と言った時には、

「それが良いかもしれないね。弁護士さんに依頼した方が安心だよ」

と助言してくれた。

現状を話し終えた時点で、何となく『これなら大丈夫そうだ』という感じがした。

午後4時から話し始め、気づいたら既に1時間が経過していた。

定時で上がらないと子どものことが心配なので、その日はお開きに。

一回目の相談では状況説明だけして、肝心の話は翌日以降に持ち越しとなった。

2025年3月27日木曜日

元夫の友達からの連絡に警戒

電話をかけてきた夫の友人

元夫の友達の中には連絡先を交換した人もいる。

前は時々連絡を取り合っていた。

つながっておくと急な用事ができた時に便利だった。

ただ、今はもう離婚していて夫とは他人だ。

子どもの父親という事実に変わりはなくても、はっきり言って気持ち的には他人以下になっている。

そんな夫の友達とも当然連絡するような用は無いから、そろそろ消さなくちゃなーと思っていた時だった。

携帯に夫の友人の名前が表示され、着信のランプが点滅した。

誰からもかかってくるような時間帯では無かったので、ちょっとだけ驚いた。

うちの両親や姉は夜遅くにはかけてこない。

だから、夜間はいつも携帯を放置している

いつもなら気づかなかったかもしれないが、その時は偶然目の前に置いてあった。

反射的に慌てて出ようとして、ふと考えた。

一体何の用?

もし夫から頼まれごとをしてかけてきたのだとしたら面倒だな、と思って出るのを躊躇した。

警戒しているうちに一度切れたのだが、数分後に再び鳴った。

こうなってくると出ないのも気になるし、出るのも怖い。

この頃まだ離婚して数か月くらいの時だったので恐怖の方が大きかった。

もし夫が何かを要求してきているのなら、できるだけそれに応えなければならない。

恐怖で支配され続けた私は、離れても尚そんなことを考えていた。

だけど、心のどこかで『そんなのおかしい』とも思っていて。

相反する気持ちが自分の中でせめぎ合っているような状態だった。

少しでも接すれば心を乱されることは分っている。

だから普段はできるだけ夫関連のことを思い出さないようにしていたのだけれど・・・。

やはり長年しみついた思考はなかなか消えないみたいだ。

時期的にはまだ、声を聞けば怯えて悪夢を見ていた頃。

本人でなく友達からと言っても、十分に憂鬱の種だった。


夫の仲間内では話が逆に伝わっていた

「元気だった?」

思い切って電話に出た後の第一声がこれだった。

相手は以前やり取りした時と変わらずフレンドリーな感じだったんだけど。

夫が裏で何か画策しているのかもしれないと思うと身構えてしまった。

その友人自身が良い人だったとしても、夫が絡むと予期せぬ方向にいってしまう。

私は警戒しながら世間話をしつつ相手の出方をうかがった。

その中でしきりに聞かれたのが、

「最近どうしてるの?お子さんは元気?」

ということだった。

そりゃー元気に決まってる。

あんな父親と離れられたんだから。

それだけで幸せ度は1000倍、いや10000倍上がってるはずだ。

友人のところにもお子さんが居るからちょっと気にかけてくれたのかな?

そんな風に思ってしまった私は少しだけ気を許してしまい、子どもの近況なんかも話した。

なんだかんだと普通に会話できて、『警戒することも無かったかな』と思ったのだが・・・。

4~5分くらい話した後、唐突にその友人が、

「そろそろアイツとお子さんを会わせてあげられないかな」

と言った。

その瞬間、頭が真っ白になった。

実はそう言ってくるのではないかと予想はしていた。

だから、その言葉自体にショックを受けたわけではない。

ただ、過去の虐待シーンが鮮明に思い出されてしまった。

既に子どもと二人で穏やかに暮らしているのに、どうしてかな。

やっぱり嫌な思い出というのはなかなか消えないのかな。

動揺していることを悟られたくなくて、

「それは無理ですね・・・」

と答えるのが精一杯だった。

友人は納得している様子だったが、その後の言葉に更に衝撃を受けた。

「いやー、これ言っていいのか迷ったんだけど」

と言うので、そんな奥歯に物が挟まったような物言いは逆に気になると思って、

「何ですか?言ってくださいよ」

とお願いしたら、

「アイツ、お子さんが虐待されてるんじゃないかって心配してるんだよね・・・」

と教えてくれた。

何を言ってるんだろう???

それが最初の感想だった。

虐待していたのは自分なのに、何で私が疑われなきゃいけないの?

よくよく聞いてみたら、どうやら仲間内では逆の話になっていたらしく。

私が虐待していたのに親権を取られてしまった、ということになっていたようだ。

これには正直驚きすぎて言葉も出なかった。

ただ、そのままではマズいのですぐに訂正した。

訂正したところで、それほど親しくない私と長年の友人である夫のどちらを信じるだろうか。

こうやって事実でないことがあたかも真実のように広まっていくことが怖いと思った。

2025年3月26日水曜日

〇〇家の孫というけん制

孫に執着する義両親

産まれるまでは、それほど興味を持っている様子は無かった。

だけど、産まれた瞬間に物凄い孫フィーバーが起きた。

人間ここまで変わるのか、という位に孫命になった義両親。

最初は驚いたけど、これはわりとどこのご家庭でも起こることだと思う。

ただ、うちの場合にはその執着の仕方が結構凄かった。

夫の実家から見ても私の実家から見ても孫という点は変わらない。

だから、どちらの比重を重くしてもいけないと思って平等になるように心がけた。

お祝い事だって両家に声を掛けて皆で集まれるように段取りを整えたのに。

上手くいかなくなってしまった。

最初は良かったんだけど、段々とバランスが崩れた。

こういうのって、お互いへの気遣いにより絶妙なバランスで成り立っているのだと思う。

だから、どちらか一方がエゴを出し始めると途端におかしくなってしまう。

そのきっかけとなったのが、義両親の『この子は〇〇家の孫だから』という姿勢だった。

そう思っていたとしても心の中だけにしておいてくれたら良かったんだけど、黙っていられない人たちなのだ。

皆で集まる時もそれを前面に出すものだから不穏な空気が流れた。

うちの母も、実は結構気が強い。

顔では笑っていても言葉の端々から戦闘態勢が見て取れた。

『これはマズイ!』

焦った私はこの場を何とかしなければと余計なことをペラペラとしゃべりまくった。

だけど、そういう時って誰も聞いていない。

お互いの出方を探っているような状況なので、相槌を打つ人は居ても話の内容など全く耳に入っていなかったと思う。

これが1度や2度ならまだ良かった。

うちの場合には集まるたびにそうなるのだから嫌になってしまった。

せっかく良かれと思ってやっているのに裏目に出るなんて・・・。

母がもう少し気の弱い人だったら上手くいったのかもしれない。

でも、それだと言われっ放しでストレスが溜まったかな。

うちの父は穏やかな人だから、一人和やかな空気をまとっていた。

他の3人が父のような人なら良かったのにね。

集まるたびに不穏な空気に包まれていた我が家。

お祝いや行事のたびにそんな状態だったので、私の胃は毎回キリキリと痛んだ。

それで段々と集まることを止めた。

それと同時に両親を呼ぶ機会も失ってしまった。


可愛がりはするけど虐待からは守ってくれない

義両親の溺愛ぶりは凄かった。

うちの両親には嫉妬もしていて、

「そちらの家は良いわね~。お孫さんが他にも居て」

と事あるごとに言っていた。

姉の所にも子どもが居たので羨ましく思ったのだろう。

その次に続くのは、

「うちは一人だけだから」

という言葉だった。

最初はピンと来なかったんだけど、ある時母から耳打ちされた。

「あれって、そっちは他にも孫が居るから良いでしょって意味よ」

と言われとても驚いた。

そんなこと考える人居るんだ・・・。

いや、母がうがった見方をしているだけかもしれないけど。

世の中は言葉の表面だけを見ていても上手くいかないんだなと痛感した。

裏を読まない私は常に言われたままの意味で受け取った。

だから、時々お義母さんに『天然ね』と言われた。

もしかしたら、あれは嫌味だったのかもしれない。

そこまで溺愛しているのだから虐待からも守ってくれそうなものだが、それは期待できなかった。

孫が可愛いと言っても、しょせん息子には負けるのか。

目の前で夫から虐められていても、子どもに

「早く謝っちゃいなさい」

と言う始末。

何も悪いことをしていなくても、だ。

そんなことを言われたら、子どもだって納得できない。

だから、会っても嬉しそうにすることも無く真顔で接していた。

我が家にやってきて義実家に連れて帰ろうとした時などは泣いて嫌がった(笑)

目の前で叩かれていても助けず、

「そういうことするな」

と軽く注意するだけ。

裸足で外に出されそうになった時には、

「靴をはかないと汚れちゃうだろ」

という謎のフォロー。

その程度じゃ何の意味もないことを義両親が一番分かっていたはずだ。

少しでも守ってくれていたら、また違った見方ができていたのかもしれない。

結局面倒なことには目をつぶってスルーするだけだった。

2025年3月25日火曜日

友達が誘いに来ても出かけるのを許さない夫

小学校に入ってからできた友達

子どもが小学生になり、新しい友達ができた。

保育園から小学校に上がる頃って環境の変化に適応するだけでも大変だと思う。

だけど、我が子はどんどん自分の世界を広げていった。

引っ込み思案だと思っていたのに結構やるな、と頼もしく感じた。

放課後になると、仲良くなった子たちが『遊びに行こう』と誘いに来る。

うちの子はどちらかと言うと大らかで行動もゆっくり。

だから、迎えに来てもらうことが多かった。

のんびり帰っていたら既に一度家に帰った友だちが迎えに来ていて驚いたこともあったようだ。

「ちょっと待っててね~」

と家に入り、急いで遊びに行く準備をする子ども。

普通に考えたら微笑ましい光景だと思うのだが・・・。

夫は快く思っていなかったようだ。

わざと外で待っている友達に聞こえるような声で、

「お前、どこに行くつもりだよ!」

と怒鳴り、子どもが答えようとするのを遮って、

「遊びになんて行ってる暇あるのかよ!」

と言ったそうだ。

これが一度や二度ではない。

私が仕事から帰ると『今日ね・・・』といつも子どもが教えてくれた。

私の居ない間にこんなことが頻繁に起きていた。

時にはわざわざ外に出て、

「ごめんね。今日(子ども)は遊べないから」

と言ったそうだ。

時間はたっぷりあるはずなのに。

夫は子どもが楽しく過ごすのを許さなかった。

多分、そう言われた友達も驚いたと思う。

次の日に学校で、

「昨日何で遊べなかったの?約束したのに」

と言われたと、子どもはしょんぼりしていた。


子どもが外に出て遊ばなくなった

何度も友達との約束を反故にしているうちに、いつしか誘われなくなった。

子どもは外に出なくなり、放課後は家に引きこもるように・・・。

家に居たって虐待する父親が居るから地獄だ。

でも、外に行きたくても邪魔されてしまうから行けない。

こういうことを考えるたびに、結局夫は何をしたかったんだろうと思う。

その後も時々は誘われることがあったようだが、いつも自分から断っていた。

「どうせダメって言うもん」

とすっかり諦めてしまった子ども。

そう言いつつも表情は寂しそうだった。

家の外から楽しく遊んでいる声が聞こえてくるのもストレスになったようだ。

本当は遊びたいのに遊べない。

段々と塞ぎこむようになった。

なぜ自分だけがこんな目にあわなければならないのか。

きっとそう思ったに違いない。

「ママがおうちに居てくれたら遊びに行けるのに」

と言われたこともあったが、それは不可能だった。

私が働かなければ一家で無職になってしまう。

そういう時こそ義両親に活躍して欲しいのに、肝心な時に夫の言いなりだった。

これが目の前で起きている時でも意見することもなく、子どもの気持ちをくんで動くことも無い。

私が夫と話すのを見ても、よく分からない反応を示した。

『話し合うのは良いことだ』

『どちらの意見にも良い点、悪い点がある』

・・・いやいや、そういう話ではない。

こんな感じで全くあてにならなかったので、一人で闘った。

でも、私の言うことなんて聞き入れてはもらえなかった。

そういうのを見て、きっと失望したんだろうな。

元気がなくなっていった子どもに対し、夫は『勉強さえすれば上手くいく』と勉強させた。

『勉強しない奴はろくな大人にならない』と言うのが夫の持論。

まるでその他のことは疎かにしても良いような物言いだった。

義両親もそれに同調していた。

次第に孤立していった子ども。

学校の話もしなくなり、心配でよく先生に相談した。

相談しても良い解決法など浮かばないのだけれど相談せずに居られなかった。

きっと寂しかったと思う。

あの頃、子どもに何もしてあげられなかったことを今も悔やんでいる。

2025年3月24日月曜日

賃貸契約の重み・・・義両親の反対と夫の無関心

なぜ義両親は反対したのか

せっかく良さそうな物件が見つかったのに義両親からは反対された。

これまであげた条件はクリアしていたし、治安も問題無かった。

それなのに、何やかやと理由をつけてもう少し考えるように促された。

そう言われても期限というものがある。

それ以上の物件が出てくる気もしなかったので私は説得を試みた。

悠長に構えていたらそれこそリミットを迎えて行く所が無くなってしまう。

義実家での同居のことも脳裏をかすめ、内心焦っていた。

確かに100%合致している物件ではない。

でも許容範囲であることは確かだったし、予算にもギリギリ収まっていた。

これ以上何を求めるというのか・・・。

あまりにも頑固に反対してくるので途中から話をすることも億劫になった。

でも、何度か不動産屋巡りに付き合ってくれた義両親の意見を無視することもできなかった。

どうしたら良いのだろうか。

考えるのは、毎日毎日家のことばかり。

仕事にも集中できないくらい気になっていたが、義両親が折れる気配は無かった。

こんなことをしているうちに他の人が決めてしまうかもしれない。

そんな不安も日に日に大きくなり、焦れば焦るほど空回りした。

それで、会社帰りに不動産屋さんに立ち寄って事情を説明した。

私は契約をしたいのだけれど、家族から反対されていると。

その時に担当営業さんに言われたのが、

「旦那さんは何ておっしゃってるんですか?」

だった。

そう言えば夫自身は意見をほとんど言っていなかった。

その代わりに義両親のことを立ててあげて欲しいというニュアンスのことばかり言っていた。

それってつまり、気に入っても義両親のOKが出なければ契約できないということ?

客観的に見ても、非常に面倒な状況になっていたことは否めない。

それにも関わらず担当営業さんは色々と相談に乗ってくれた。

話しているうちに、私はふと思った。

契約をするのは私なんだから、このまま決めてしまっても良いのではないか、と。

一番最初に見せた時、夫はその部屋事体は気に入っていると言っていた。

そこに住む人が気に入っていると言うのなら、その気持ちを優先すべきでは。

そう考え、思い切って契約を進めることにした。

そうでもしなければ決められなかった。


部屋の契約を結ぶと報告

『見つけた部屋を契約する』と夫や義両親に告げた。

案の定、義両親は反対した。

そんな義両親を見た夫は

「もう少し話し合ってからにしろよ」

と私に再考を求めた。

そんなこと言ったって、話し合う意味なんて無いではないか。

きっといくら時間があってもOKを貰えることはない。

義両親はタイムリミットが来るのを待っていて、そのために反対しているのだと思った。

『これ以上待っていたら引っ越しの日が来てしまう』という言葉も通用しない。

だって、その方が好都合なんだから。

期限が迫ってきたらお義父さんは義実家への引っ越しを提案するに違いない。

その時に他の選択肢が無ければそうせざるを得ない。

私は何としてでも見つけてきた部屋を契約したかった。

それで、もう不動産屋さんとは話がついていると説明した。

これに怒った義両親はしばらく顔を見せなくなった。

ほとぼりが冷めたらまたせっせとやって来ていたが・・・。

夫は義両親を怒らせた私を許せず、当時は針の筵だった。

それでも、義実家に引っ越すよりはマシだと思ったので頑張れた。

ここを乗り切ることができればあとは上手く行く。

そう思って契約に臨んだ。

それにしても、自分の名義で部屋を借りるというのはとても緊張するものだ。

これまでに自分の名義で契約したのは一人暮らしの時の一度きり。

あの時とは状況が違う。

家族のことまで背負っているのだ。

両肩にずっしりと責任がのしかかっているような気がして、ちょっとだけ心が重くなった。

夫がそういう気持ちを理解してくれる人だったら良かったのだけれど。

私の不安な気持ちには全く興味が無いようだった。

肝心なところで無関心だった夫。

何かあっても寄り添ってくれることもない。

そんな人に対して日々気遣う自分がばからしく思えた。

2025年3月23日日曜日

ようやく引っ越し先が見つかったけど契約者が私に・・・

働いてた頃も夫はモラハラだった

当時住んでいた部屋を契約した時には夫はまだ働いていた。

専門職としてそれなりに忙しくしていて、当然収入もあった。

子どもを保育園に預けて二人とも仕事に行くという生活。

送り迎えは基本的に毎日私の仕事だった。

だけど、夫はその分仕事の拘束時間が長かったので不満は無かった。

今考えると、あの頃はまだお互い協力し合いながら生活できていたように思う。

それが段々とおかしくなったのは子どもが間もなく2歳になる頃だった。

日々の生活の中で怒られることが増えて細かいことにうるさくなった。

付き合っている時も色々と厳しかったんだけど怒り方のレベルが違っていた。

もしかしたら、ずっと我慢していたのかもしれない。

本当の自分を隠して生活していたけれど、徐々に地を出し始めたのではないだろうか。

それが何故そのタイミングだったのかは今も分からない。

もう私に逃げられることは無いと思ったのかもしれないし、隠しきれなくなったのかもしれない。

ただ一つ言えるのは、モラハラをしている時の夫が本当の姿だったということだ。

なぜそう思ったのかと言うと、義両親の前で暴れた時に

「まだそんなことやってるのか」

と言ったからだ。

後でお義母さんに詳しく聞いたら、急に怒って口をきかなくなったり家具を壊すことがあったそうだ。

「相手が誰であっても自分の意見を押し通すのよ」

と何故か誇らしげに言っていた。

その口ぶりは、まるで『誰にも忖度しない正義感の強い人』という感じだった。

私はその言葉に強烈な違和感をおぼえた。

どう考えてもただ単に自分の思い通りにしたくて暴れていただけなのに。

お義母さんにとっては『正しいことをした』という感じになっていることに驚いた。

そんな人だから、無職になっても家族を大事にしようなどという姿勢もなく・・・。

ひたすら虐げられてコントロールされた。


「大家からの退去願い」のその後

子どもが小さい頃は夫が契約した部屋に住んでいた。

でも突然、大家さんから退去願いの手紙が届いた。

期限も書いてあって、悠長に探している余裕もなく・・・。

慌てて探し始めたのだが予算的にそれほど多くは出せないのでかなり難航した。

希望のエリアではなかなか見つからなくて、エリアを広げることまで考えた。

そうすると治安の問題も出てくる。

子どもがいると、大人だけの時と違ってそういう面にもとても気を遣う。

保育園の頃は常に保護者と一緒だからまだ良い。

でも、学校に上がったらそういう訳にはいかない。

いつも一緒に居るわけじゃないから、やっぱり治安の良くない所は怖いな、と思った。

そんな風に子ども中心に考えてエリアを絞っていった。

ちょうど住んでいた地域はけっこう安心できる場所だったので、そこを中心に探すことに。

近隣の不動産屋を巡り、条件を少しだけ変えたりしながら探し続けた。

リミットが迫る中、焦って毎週のように不動産屋巡りをしていたあの頃。

夫はいつも文句ばかり言っていた。

自分は一切探さないくせに口だけ出してくるのだから嫌になる。

「こんなのどうかな?」

と聞いても、この部屋は気が滅入るとか前よりも狭いねとか。

そして二言目には、

「うちの実家に行けば楽に暮らせるのに。お前の我が儘で探してるんだからな」

と言った。

このまま決まらなければ本当に義実家に連れていかれてしまう。

そんな焦りもあって、より部屋探しに力を入れるようになった。

その甲斐あって期限ぎりぎりに何とか見つけることができたのだが、問題は契約のことだった。

引っ越しをする頃には夫は既に無職になっていた。

そうすると必然的に私が契約をしなければならない。

当時はあまり深く考えなかったが、これは結構面倒な問題をはらんでいた。

自分の契約した部屋がネックになり、離婚時の夫との交渉が難しくなってしまったのだ。

事の重大さに気づいたのは、家を出て離婚を要求する時だった。

2025年3月22日土曜日

日常が戻り、モラハラ再開

夫は変わらない、何があっても・・・

私たちがたった一日でも居なくなったことで何かが変わるのではないかと期待したが、結局何も変わらなかった。

夫はそれまで通り横柄に振舞っていたし、子どもは怯えていた。

私は普通に振舞うことが難しくて、そのたびにため息をつかれた。

だって、考えてしまうんだよ。

あのまま家に戻らずにいたらどれだけ自由に過ごせただろうか、とか。

子どもと二人なら笑って暮らせるのに、とか。

ありもしない世界を考えた。

だけど現実には目の前に夫が居て、いつも通り私たちの全てをコントロールしている。

それがどうしても受け入れられなくて、叫び出したい気持ちだった。

夫は私たちがあの日家に帰らなかったことを『裏切り』だと言った。

家族としてあり得ない裏切り行為だと。

でも、あの時『もう戻ってくるな』と言ったのは夫だ。

そう言われて家に入ることもできず、途方に暮れながら夜の街をさまよったのだ。

子どもも不安だったに違いない。

途中で私が泣いたり、泊まる所が見つからなくて夜遅くまでファミレスに居たりしたから。

疲れ果ててウトウトしている頃に姉が迎えに来てくれて、そのまま姉の家に連れて行ってくれた。

本当にありがたくて嬉しくて、『優しくされたのなんていつぶりだろう』と考えてしまった。

でも、夫からするとそれも気に入らなかったみたい。

姉夫婦が勝手に私たちを連れて帰ったと解釈した。

『そうじゃないよ。私からお願いしたんだよ』と言っても聞いてくれなかった。

こうなったらもう姉夫婦は夫の中で敵認定されてしまう。

それが嫌で直接会わせないようにしたのに・・・。

結局色んな理由をつけて私の周りから親しい人を排除したいのだな、と思った。


義両親が更に頻繁に来るようになった

あの一件依頼、義両親は更に頻繁に我が家に来るようになった。

せっせと通ってきては『何か困っていることはないか』と聞いてきた。

きっと息子夫婦の家庭が壊れるのではないかと心配したのだろう。

聞かれるたびに私は返事に困った。

決して大丈夫なんかじゃないけど、そんな風に言える訳がない。

多分、義両親はそれも分かっていて聞いていたのだと思う。

私からSOSが出ないことで安心していたのではないか、と。

右往左往する義両親を見るたびに、これって親不孝だよなーなんてことも考えた。

夫は既に30代のいい大人なのに未だに親に心配をかけている。

その上更に私が限界だと言ったら大きなショックを受けてしまうかもしれない。

余計なことまで考えてしまう私は、いつも義両親のメンタル面が気になって身動きが取れなくなった。

こうなると可哀そうなのは子どもだ。

不甲斐ない母親を持ち、父親は虐待することを愛情だと勘違いしている。

義両親の中ではもう一緒に住むことだけが解決策だと思い込んでいたようで、

「何か他に方法があるのなら言ってちょうだい!」

とも言われた。

自分たちが夫と私・子どもの間に立ってストッパーになると張り切っていたが。

普段の様子からして本当にストッパーになるのかという点で疑問が残った。

ある時、夫が近くの病院に行っている隙にお義母さんから聞かれたことがある。

「うちで皆で住む気にはなれないの?」

と。

その時お義父さんは夫に付き添っていたが、たぶん義両親の中ではそういう方向で進めようという話がついていたと思う。

いつもは夫の顔色をうかがってなかなか本音を言えないのだが、この時は居なかったので

「もう限界なんです。いつまで一緒に居られるか分からない状況で引っ越しなんて考えられません」

とハッキリ答えることができた。

私にとっては決死の意思表明だったわけだが、その言葉を聞いたお義母さんの顔色が変わった。

私なら何でも言うことを聞くと思っていたのに当てが外れたのかな。

だけど、あまりにも色んなことがあり過ぎて・・・。

もう夫との生活に何の希望も抱けず、1年後の未来も描けないところまで来ていた。

2025年3月21日金曜日

姉の連絡先が削除された

夫はやはり怒っていた

家出をしたことで、姉に現状を伝えることができた。

それが唯一の収穫だったかもしれない。

あの後、子どもと私は家に戻った。

姉夫婦に家の近くまで送ってもらった。

本当は一緒に中に入って話をしたいと言ってくれたのだが断ってしまった。

電話では泣き言を言ったりして弱気になっていたかもしれない。

でも、私たちが戻ると分かったらまた強気に出るのではないかと思った。

善意から話をしようとしてくれている姉たちに対しても何か失礼なことを言うだろう。

そうなったら、申し訳なくて顔向けできない。

一晩お世話になったのに、恩を仇で返すようなことはしたくなかった。

それで、私たちだけで大丈夫だと伝えた。

最後まで心配そうにしていた姉と旦那さん。

「落ち着いたら連絡してね」

という言葉をもらい、別れた。

家に入ると、夫と共にお義父さんも待っていた。

これは正直なところ想定内だった。

今回の件でお義父さんが黙っているはずがないだろうと予想していた。

だから、玄関のドアを開けて真っ先にお義父さんの姿を確認した時も驚かなかった。

「ただいま戻りました」

そう言いつつ靴を脱いでいると、まずは夫がごくごく普通の様子で

「おかえり」

と言った。

お義父さんには

「いやー大変だったんだよ。私も急にここに泊まることになっちゃって」

と言われ、暗に非難されているように感じた。

さあ、これからどうなるのか・・・。

戻った直後は夫もお義父さんも冷静な感じで、ひとまず安心した。

でも、怒っていないはずがないのでとにかく警戒した。

その一方で、夫が少しでも改心してくれていれば良いなと期待した。


姉の連絡先を消すように促され・・・

これまでの経験上、そのままで終わるはずがないというのは分っていた。

でも、また家出されるのを警戒するだろうから強い態度には出ないのではないかとも思った。

この考えが甘かったようだ。

上着を脱いで掛けようとしていたら、いきなり目の前に座るように促された。

何かを察知したお義父さんは子どもを連れてそそくさと外へ。

「おじいちゃんとお外に買い物に行こう」

と言い、こちらをチラッと見た後、

「夫婦なんだからお互い言いたいことを全部言った方が良い」

という言葉を残して出かけて行った。

そんなこと言っても、いつも話を聞かないのは夫の方だ。

私はいつも聞く側で、多くの不満を飲み込んできた。

そういう思いもあって納得できない気持ちで座ったのだが、そんな私を見た夫は

「不満があるなら言えよ!」

といきなりつっかかってきた。

こうなるんじゃないかな、とは思っていた。

でも、あまりにも早い豹変ぶりに何だかとても落胆した。

結局この人はどこまで行ってもモラハラを止められないんだ。

そう思ったら、家に戻ったことを早速後悔した。

だけど、とりあえず次の一手を繰り出すまでは何とか安全に暮らさなければ。

そう考えて、夫を落ち着かせるために謝った。

こういう時の夫はとてもしつこい。

謝っても謝ってもネチネチと色んなことを言ってくる。

それに対して謝っても、また新たな文句を言うという無限ループ。

とても面倒だし納得もできないが、とにかく下手に出るしかなかった。

いつもならその繰り返しで徐々に落ち着くはずが、この日は違った。

夫はどんどんヒートアップして、急に私に携帯を出すように言った。

戸惑っていると、

「俺だって不安なんだよ!一生懸命やってるのに急に出ていかれて!」

と叫んできて、

「少しは悪いことしたと思ってるのかよ!」

と詰め寄られた。

そして、とうとう携帯を取り上げられてしまった。

力づくで取り戻すこともできず、ただ茫然と夫のことを見ていたら、舌打ちしながら何やら操作していた。

携帯はすぐに戻されたが、

「何をしたの?」

と聞いても無言。

夫が席を立った時にこっそり確認したら、姉や実家の連絡先が消されていた。

実家の固定電話は暗記しているので問題ない。

でも、姉や両親の携帯までは覚えていないので途方に暮れた。

もう連絡できなくなっちゃったよ・・・。

『何かあったら絶対連絡してね』と言っていた姉の顔が浮かび、思わず涙がにじんだ。

2025年3月20日木曜日

姉に初めて打ち明けた夜

怒りに任せて子どもの傘を破壊した夫

家から追い出されて途方に暮れたあの日

夜の街を子どもと彷徨い、辿り着いた場所  の続き

何時間も姉と話した夜

電話を切ってから1時間くらいが経過した頃だっただろうか。

姉から『到着してすぐ傍に停車している』という連絡をもらった。

きっと物凄く急いだんだろうな、と思った。

本来ならもっと時間がかかるはずだ。

私たちの様子を気にかけてくれているのだと感じ、嬉しかった。

まだ自分たちにも味方が居る。

そう考えるだけで幸せで、夫の元に戻りたくないという気持ちがより強まった。

夫と一緒に居ると、まるで世間から取り残されたように感じるから。

誰にも頼れない、自分で何とかしなければとそればかり考えた。

迎えに来てくれた車に乗り、私たちは姉の家へと向かった。

着いた頃には既に日付が変わっていた。

「どうする?何か食べる?それともお風呂かな」

と聞かれて、シャワーだけ使わせてもらうことにした。

子どもは既に爆睡していたので、そのまま就寝。

道中、一度パチッと目を開けて姉と旦那さんを確認していた。

あれっ起きたのかな?と思ったら何やらモゴモゴ話しかけた後にまたすぐに寝てしまった。

シャワーを浴びた後、寝室として用意してくれた部屋に行くと姉が待っていた。

布団が二組敷かれていて、

「今日はとことん聞くよ」

と言い、私にも座るように促した。

いつも通りの感じだったけど表情は真剣で、何か考えているようでもあった。

私が本当のことを言わないのでは、と危惧したのかもしれない。

これまで肝心なことを言えずに、後になってから『実は~』と話すことがあった。

だけど、この時は全てを話した。

こんな話をして姉が引くのではないかと不安だったが、頷きながら最後まで聞いてくれた。

途中、涙ぐんで鼻をすすりなら

「(私)ちゃん、何で今まで言ってくれなかったの・・・」

と言われたが、

「こんな話誰にもできないよ」

と答えたら

「そりゃそうか」

と納得していた。

ただ、『両親にはまだ伝えないで欲しい』というお願いにはなかなか首を縦に振らなかった。

確かに私が姉の立場なら報告するべきだと諭すだろうけど、やはり心配を掛けたくなかった。

それで、時期が来たら自分で伝えると約束して、納得してもらった。


姉が様子を探るために夫に電話

翌日、姉がモラハラ夫に電話を掛けた。

それまでに直接電話したことなど数えるほどしかなかった。

これといた用事も無いのに『用事があって電話した』というのも使えない。

だから、単刀直入に今回のことを聞くつもりだと教えてくれた。

姉が携帯を手に持ち発信した瞬間、私は思わず息を止めた。

どうせここに居ることはバレるのに、気配を消さなければと思ってしまった。

そんな私を気にしつつ姉は話し始めたのだが、

「今回のこと、どう思ってるんですか?」

とか

「どういうつもりで、あんな酷い仕打ちを?」

という会話が聞こえた。

よく分からないが、姉が夫に詰め寄っていたらしい。

普段は私たちがやり込められる立場なので、逆に夫がやられていると思ったら何だか驚いてしまった。

あの強い夫が姉に叱咤されて言い訳しているというのが信じられなくて。

電話を切った後、姉が教えてくれた。

夫は泣いていて、

「自分のしてきたことは全て間違いだった」

「心から反省している。二人には帰ってきて欲しい」

「今からでも迎えに行きたいが、二人は許してくれるだろうか」

と言ったそうだ。

それに対して、

「本当に反省しているんですか?人がそんなに簡単に変われるとも思えないんですけど」

と言ったら、

「変わります。すぐに100%とは言えないけど精一杯努力します」

と答えたらしい。

私たちにキツく当たった理由は『仕事をしていないプレッシャーだった』とも話していたそうだ。

これが本当なのかどうかは分からない。

でも、帰ってきて欲しいと思っていることが分かり、少しホッとした。

そして私は、この時に大きな誤りを犯した。

大事な選択で正しい判断が出来なかったのだ。

冷静に見ることのできる今なら分かる。

爆発期で酷いことをされて心が傷ついているタイミングで優しい言葉をかけられたために、心が揺れ動いてしまったのだと。

それで、姉の反対を押し切って家に帰る選択をした。

2025年3月19日水曜日

夜の街を子どもと彷徨い、辿り着いた場所

怒りに任せて子どもの傘を破壊した夫

家から追い出されて途方に暮れたあの日  の続き

実家の両親には電話できなかった

どこにも行く当てはなかったが、とにかく歩いた。

少しでも歩いて、夫の居る場所から離れたかった。

途中で何度か後ろを振り返ったのは、ふいに怖くなったからだ。

夫が着いてきているのではないか、と。

でも、時計を見たら夫はもう寝る準備をしている頃だった。

実際の就寝は12時近くでも、1時間半以上前から寝る準備を始める。

あの夫が、わざわざいつものルーティンを崩してまで追いかけて来ることはないと思った。

所詮、私たちはその程度の扱いということだ。

普段ならそういう所に悲しくなったりするが、その時はかえって都合が良かった。

私たちは少しだけ安心し、歩く速度を落とした。

早く駅に着きたいような、着いてしまったらもう後戻りできないような・・・。

何だかとても複雑な心境だった。

そうこうしているうちに最寄りの駅に到着。

とりあえず駅の構内に入ったのだが、そこでもどうすべきか決めることができなかった。

地元の駅近くに宿泊できる所はない。

私一人ならファミレスでも良いが、まだ6歳の子どもが一緒なのだからそういうわけにもいかない。

普通ならそんな時間に連れまわすこと自体が非常識なんだけど。

その時は非常事態だったので申し訳なく思いながらも付き合わせてしまった。

早く休める場所を見つけなければ。

そう考えれば考えるほど焦り、ひしひしと自分の置かれた状況を実感した。

これまで夫の目が怖くてどんどん周りの人との関係を切っていった。

家族にさえほとんど連絡を取らなかった。

だから、頼る人が居なくて当然だ。

これも自分がしてきたことへの報いなのかな、と思ったら余計に悲しくなった。


電車に乗って大きな駅に

地元の駅に居ても打つ手が無いような気がした。

それで電車に乗って大きめの駅に移動した。

そこなら宿泊できるところもあるし、深夜でも空いているお店がある。

普段は人混みが苦手なのだが、その時は人が居ることでほっとした。

たくさんの人々に紛れていると、何となく迷いや不安が薄らいでいくような気がするから不思議だ。

駅前にはファミレスがあり、まだチラホラと人が座っているのが見えた。

まずは一休みしようかな?と思って入ったのだが、そこでお腹が空いていることに気づいた。

なーんだ。

こんな時でもお腹が空くなんて。

私、案外元気なんだ。

思っていたよりも逞しい自分にほっとして、子どももそんな私を見たら急に元気になった。

メニューを見ながら、あれも食べたいこれも食べたいと始まり、結局パンケーキやジュースを注文した。

本来はこんな時間に食べちゃダメなんだけど特別だよ。

そう言ったら、子どもは満面の笑みで

「とくべつだね!」

と嬉しそうに言った。

私たちにはこういう時間が無かった。

だから、夫から逃げてきているというのにふと幸せを感じてしまった。

食べ終えて少し休んでいたら、子どもはウトウトし始めた。

そりゃーそうだ。

疲れたよね。

私も横になりたかったけれど、まだ泊る場所を探せていなかった。

実は食べながら探してはいたのだが、どこも高くて・・・。

払えないわけではないのに躊躇してしまった。

だけど、ずっとそこに居るわけにもいかないし、と迷っていたら急に電話が鳴った。

夫かと思って身構えたら姉からだった。

こんな時間に?と驚きながら電話に出ると、心配そうな姉の声が聞こえてきた。

「良かった、出てくれて!ねぇ、今どこに居るの?」

唐突にそう聞かれても、何て説明したら良いのかが分からない。

それで言葉に詰まっていたら、

「さっき、うちの旦那が(私)ちゃんのこと見かけたって言うからさ」

と言われ、

「何かあったの?うちに来る?」

と言ってくれた。

気づかないうちに見られていたのか。

こんな偶然があるんだな、と驚きつつも即答できなかった。

夜遅くにお邪魔するなんて迷惑過ぎるし、姉だって家族の手前気を使うだろう。

そういうのを表に出さない人だから、余計に申し訳ないと思った。

でも姉は、

「今から旦那と一緒に迎えに行くから。場所教えて」

と言ってくれて、結局姉の家に行くことになった。

2025年3月18日火曜日

家から追い出されて途方に暮れたあの日

怒りに任せて子どもの傘を破壊した夫 の続き

暗闇が心細かった

戸惑っている間にも、容赦なく家のドアは閉められた。

どうしよう・・・。

ここで待っていれば開けてもらえるという保証もない。

だけど、どこかに行ってしまったら怒られるような気もする。

どうするのが正解なのかが分からず、しばらくその場に立ちすくんだ。

子どもはドアを見つめて、ただ呆然としていた。

最初の数分は何も考えられずじっとドアの前に立っていたのだが、そこで重大な問題に気づいた。

いきなり追い出されてしまったので、財布もPASMOも持っていなかったのだ。

それに、まだ肌寒い時期なのに上着も羽織っていなかった。

どちらにせよ、このままでは何もできない。

そう思って一度家の中に入ることにした。

と言っても、鍵を閉められていたらそれで終わりだ。

だからまずは家の中に入れるかどうかでかなり神経をすり減らした。

鍵がかかっていないとしても、いきなり開けるわけにもいかない。

それで、ドアの前で聞き耳を立てて夫がそこに居ないかを確認しようとした。

だけど、やっぱり音は聞こえてこない。

仕方がないので気配で感じ取ろうとしたが、よく分からなかった。

それでもう開けてみるしかないと思って、恐る恐るドアを握りしめた。

なるべく音を立てないように、ゆっくりゆっくり。

そっと引っ張ってみた。

そうしたら、ガチャリと鈍い音を立ててドアが開き、目の前に仁王立ちの夫が立っていた。

ゴクンとつばを飲み込み、思わず後ずさりした。

まさかまだ玄関に立っているとは思わなかった。

予想外のことだったので驚いてしまい、色々と考えていたことが一気に吹っ飛んでしまった。

怯える私たちを冷たい目で見つつ、

「なに?!」

と夫は詰め寄った。

この人は私たちのことが心底目障りなんだと思った。

もしかしたらそのまま家に入れるかもしれない、なんて淡い期待を抱いた私が馬鹿だった。

とにかく上着だけでも持ち出さなければと、

「肌寒いから上着がないと風邪を引いちゃうと思って」

と言いながらそそくさと家の中に入った。

それさえも許せなかったのか、夫は私の肩を掴んで、

「おい!勝手なことしてんじゃねーぞ!」

と言ってきたが、私はすばやく二人分の上着とショルダーバッグを持ち出した。

玄関の方に向かっている間も、夫はずっと文句を言っていた。

でも、私は反応しないようにして急いで靴をはいた。

子どもはずっと玄関で待っていて、その手を握りしめて行こうとした時に、

「もう戻ってくるなよ」

という捨て台詞が背後から聞こえた。


夜道に子どもと二人。どこに行こうか

「ママ、大丈夫だった?」

夫に肩を掴まれた私を、子どもは心配したようだった。

確かに結構な力で掴まれたのだが、それよりもあの場から逃げられたことにホッとした。

とにかく必死で、ただ逃げることだけを考えた。

夫が今頃どんな思いで居るだろうとか、なぜあんなに怒ったのか、とか。

考えても答えの出ないことばかりが頭の中にぐるぐると浮かんだ。

夜の道というのはどこか心細くて不安になる。

この時の私たちは、追い出されてしまったという状況も相まって非常に不安な気持ちになっていた。

時々すれ違う人たちも居たけれど、みんな家路を急いでいるようだった。

それを見て、私たちとは正反対だなーなんて思った。

帰りたいと思う家があるだけで幸せなんだ。

もう戻ってくるなと言われたのだから、家に帰ることはできない。

だけど、行くところもなくて。

今晩どうするのかさえ決められなかった。

私が泣きそうになっていると、子どもが私のポケットから携帯を取り出して

「ママ、お電話しよう。おじいちゃんにたすけてって言おうよ」

と言った。

私は困って『う~ん』と唸り、

「言えないんだよ。言ったら心配しちゃうから」

と言おうとしたのだが、言い終わらないうちに涙が出てきてしまった。

止めようとしてもどんどん溢れてきて言葉にならなかった。

そうしたら、

「ママ、大丈夫だよ」

と子どもが小さな手で私の背中をポンポンと優しく叩いた。

それって、いつもおばあちゃんがやってくれるやつだね。

思わずその小さな手を握り返したら、いつの間にか子どもも泣いていた。

2025年3月17日月曜日

怒りに任せて子どもの傘を破壊した夫

玄関に放置されていたのは壊れた子どもの傘だった

仕事から帰り、玄関のドアを開けると子どもの傘が放置されていた。

「こんなところに置きっ放しでしょうがないな~」

と持ち上げたのだが、何か違和感があった。

その違和感の正体はすぐに分かった。

一見すると何の問題もないように見えるのだが、骨の部分が曲がっていた。

もう差すことができない状態だった。

驚いて傘を握りしめていたら、夫がこちらをチラチラ見ていることに気づいた。

それでピンときた。

いつものように怒った夫が子どもの傘を破壊したのだ。

その日は雨が降っていて、朝学校に向かう時に傘を差していた。

家に着いてから何があったのかは分からない。

ただ、酷く怒られたであろう子どもはションボリしていた。

「何があったの・・・」

そう言うのがやっとだった。

聞こえているはずなのに、夫は私の問いかけを無視した。

都合の悪い時にはいつも無視をする。

そういうところが本当に卑怯だなと思っていた。

何かというと子どもに対して怒り狂っているけど、どうせ大したことではない。

夫が気に入らないというだけで暴力をふるった。

ただ、それだけ。

どんなに上手く立ち回ろうとしても、結局は夫の機嫌次第なんだから不可能なのに。

ついこの間まで保育園児だった子どもにも、夫は完璧な対応を求めた。

全てが理想通りにいくわけではないのに、何か一つでも思い通りにならなければキレた。

その日も酷く怒ったようだった。

可哀そうに。

私が帰ってくるまで狭い我が家に夫と二人。

どんな気持ちで過ごしていたのだろうかと想像したら涙が出てきた。


子どもと選んだ思い出の傘

その傘は、少し前に子どもと出かけた時に二人で選んだものだった。

外出を許されたのが久々だったので、本当に楽しくて幸せな時間を過ごした。

そんな思い出も一緒に壊されてしまったような気がして悲しかった。

ただ、悲しんでばかりもいられない。

怒りの矛先を子どもから変えなければ。

あるいは怒りが収まるような方法を考えなければ。

放っておいても自分で機嫌を直してくれる人ではない。

常に私たちが怒らせるから悪いというスタンスなので、機嫌を取るのも当然私たちの仕事だった。

ここは機嫌を直してもらうのが先だと考え、何とか雰囲気を変えようと奮闘した。

最初は返事もしなかった夫だが、次第に反応するようになった。

その間、ご飯を作りながら翌日の子どもの準備も手伝い、お風呂洗いもした。

努力の甲斐あって途中までは順調だったんだけど・・・。

その日、ショックを受けていたであろう子どもが私の後をついて回っていた。

それが気に入らなかったらしく、

「ママの邪魔してんじゃねーよ!」

といきなり怒鳴った。

その瞬間、子どもの体がビクンとなって私の服の端をギュッと握りしめた。

なんでいつも怒鳴るのだろうか。

怒鳴らなくたって聞こえる距離なのに。

この言葉にはさすがに沸々と怒りが沸いた。

それを表に出さないように必死だった。

きっとこの人は私たちを脅すためにわざわざ大声を張り上げているんだ。

怯えさせて従わせることで満足しているんだよね。

だけど、これはやっぱり許せない・・・。

本当は夫の機嫌を取り続けなければならなかったのに、とうとう黙って居られなくて

「もう止めてよ!何でこんな酷いことばっかりするの?」

と言ってしまった。

そうしたら夫が怒りで顔を真っ赤にしながら立ち上がり、こちらに向かってきた。

私は思わず身構えた。

一瞬最悪の事態を想像したのだが、目の前まで来た夫は手でシッシッと払うような仕草をした。

そして、

「もうお前ら出て行けよ」

と言った。

2025年3月16日日曜日

モラハラの証拠が欲しい

離婚を有利に進めるために

口の達者な夫との話し合いは非常に難しかった。

こちらが正論を言っても上手く交わされて、いつの間にか夫のペースに乗せられてしまう。

対等に話し合うためには何か証拠が欲しいと思った。

証拠さえあれば夫も耳を傾けないわけにはいかないだろうから。

一番良いのは普段の虐待やモラハラを記録すること。

例えば私が居ない間に子どもを怒鳴ったり叩いたりするところを撮れればこれ以上の証拠はないはずだと思った。

私へのモラハラも、記録できるタイミングはたくさんあった。

これらは家の中で行われることなので、外で誰かに気づいてもらうというのは非常に難しかった。

表面上はごく普通の家庭に見えていたのだろう。

周りからは平和に暮らしていると思われていた。

唯一気づいていたのが義両親だったが、こちらも全く期待できなかった。

息子可愛さに『悪気はないと思うんだよ』と繰り返した。

そうすると、他に気づいている人も居ないので私たちは孤立無援の状態になってしまう。

そんな環境だから夫だって暴走してしまったのかもしれない。

とにかく家庭内で行われていることを記録しなければ。

そう思って、夜な夜な小型カメラを検索した。

今は子どもやペットの見守りのためのカメラが色々と用意されている。

高性能なものも多数あり、普通に使う分には選り取り見取りだ。

ただ、ここで問題になるのが夫に気づかれてしまうのではということだった。

掃除もしない人だから隅っこの方に置いておけば気づかないかもしれない。

でも、万が一気づかれてしまったらきっと問い詰められるだろう。

何のために置いたのか。

何か企んでいるのではないか、と。

非常に小型のカメラもあったので、安全に事を運ぶならそちらの方が良いと思った。

ただ、超小型のものは高い、高すぎる・・・。

予算との兼ね合いもあってすぐには決められず、数か月の間毎晩カメラを検索した。


テレビで偶然、監視カメラを使った事件が放送されて・・・

ある日、家族でテレビを見ていた時のこと。

監視カメラを使った事件の再現ドラマが放送された。

私はドキンとして、思わず息をのんだ。

毎日毎日カメラの検索をしていたので、頭の中はそのことでいっぱいだった。

だから、反応してはいけないのに一瞬焦って夫の方をうかがった。

大丈夫。

気付いているはずがないんだから。

そう思いたいのに、安心できない気がして夫の言葉を待った。

こういうテレビを見ている時、夫はいつも黙っていない。

簡単な感想であることが多いんだけど何か言うはずだと思った。

それほど興味が無かったら反応も薄くなり、適当な感じの言葉になるはず。

そう期待したのだが、夫は私の予想を裏切り、かなり怒った口調で

「最低だよな!こっそりカメラをつけて見張ってるなんて!犯罪だよ!」

と言った。

私にも同意を求めてきたのだが、上手く答えられていたか分からない。

もうこの人は全て気づいているのではないか。

私の計画を知っていて、わざとこういう発言をしているのではないかと不安になった。

それでも平静を装い続けたけど、もう心臓はバクンバクンと鳴っていて内心とても慌てた。

何だか全てを見透かされているような気がする・・・。

そんな状態でカメラを購入して設置する度胸も無く、この計画は実行せずに終わった。

本当は、送り先を会社にして受け取って・・・という感じで綿密な計画を立てていたのだが。

やはり恐怖の方が勝ってしまい、できなかった。

2025年3月15日土曜日

とうとう家を出ることを決意

できない理由を探していた日々に別れを告げた

私たちはずっと我慢してきた。

子どものことが大事だと言いながらも、なかなか決断できなかった。

夫はそんな様子を見て高をくくっていたんだと思う。

どうせ妻は何もできない。

自分で決断することもできないんだから、このままの生活が続くはず。

そう思っていたから強気に出たんだと思う。

確かに私は決断するのが苦手で、いつも夫の答えを待っていた。

最初からそうだったわけではない。

結婚生活の中でいつの間にかそういう風になってしまった。

決めてもらうのは楽だったけど、そこには自由も無くて。

全て夫の言う通りにしなければならない生活は私から気力を奪っていった。

苦しくても苦しいと言えず、辛くても笑顔でいるように強要される毎日。

嘘ばっかりで本当のことなんて一つも無かったのに。

独りぼっちになるだろう夫を見捨てることができなかった。

だけど、このままではダメになるという危機感も常に持っていて状況が変わることを切望した。

少しずつでも変わればきっと未来は良くなるはずだ。

そう思っていたのに、子どもが小学生なっても良い変化は見られず虐待はエスカレートした。

二年生になり焦りは増すばかり。

身動きの取れない状態が続いた。

この地獄が永遠に続くのではないかと心もささくれ立っていた頃だ。

重苦しい閉塞感を打ち破るようなことが起きたのは三年生になってからだった。

予想もしない形で事態は大きく動いた。

やっと私たちに巡ってきたチャンスだった。


家を出るための資金を貯めた

いつチャンスが巡ってくるか分からないからと、少しずつお金を貯めた。

夫にバレないように新しい通帳も作り、会社で保管した。

実はその前にも用意していたのだが、夫に見つかって没収されてしまった。

その時の夫は本当に恐ろしかった。

もう終わりかもしれないと本気で思った。

決して同じ間違いを繰り返してはいけない。

今度は絶対に夫の手の届かない場所に保管しようと会社を選んだ。

この話をすると、知人などに

「ご両親とかお姉さんに借りたら良かったんじゃないの?」

と言われることもある。

でもそれは不可能だった。

夫を怒らせたら何をするか分からない。

家族や親せきを危険な目に遭わせてしまうかもしれない。

そうなったら、それこそ後悔するだろうと思った。

逆恨みされて危害を加えられるという想像は、決して【考えすぎ】などではない。

夫のことをよく知る人たちなら、それが現実に起こり得ることを想像できるはずだ。

それ以外にも理由があって、夫から連絡が来た時に上手く対応できないのではと考えた。

居場所を隠し通すことができないかもしれないし、誘導尋問に引っかかる可能性もある。

もし隠していたことがバレれば、その怒りの矛先は家族にも向くだろう。

そうなったら、よくテレビで見るような事件に発展することだって考えられる。

だから、周りには知られずに実行する必要があった。

姉は意外と強心臓なんだけど、嘘が下手だからやっぱり無理だと思った。

そんなことを考えたら、結局誰にも言えなかった。

安全に事を運ぶために私はこっそり準備を始め、会社にも手回しをすることにした。

2025年3月14日金曜日

「心を入れ替えた」と言ってくる元夫

モラハラの自覚も無かったくせに

元夫はいつも自分が正しいと思っていた。

自分は尊敬されるべき存在で他の人から一目置かれていると信じて疑わなかった。

ただ、これは本人談であって周りからの評ではない。

確かに友人内では結構人気があって、相談なんかもされているのを見聞きしたことがある。

その時の感想は、正直なところ『えっ、こんな人に相談するの?』という感じだったのだが・・・。

当の本人は物凄くご満悦だった。

『仲間内からも慕われる俺って凄い』みたいな感じで。

こんな調子なので、夫が自分を顧みるタイミングは無かった。

あったとしたら、私たちが家を出た時だと思う。

その時に初めて自分の言動を顧みて、

「俺にも悪いところがあったかもしれない」

と言ってきた。

これは大変な進歩だと感じた。

それまでなら、何が起きても絶対に自分の非を認めなかった。

だけど、家を出た妻や子どもを呼び戻すために『自分が悪い』と初めて口にした。

この発言には感動すら覚えたが、よくよく考えたら本心かも分からないのに喜んでいる場合ではないことにすぐに気づいた。

私たちが居無くなったばかりの頃は、

「いつ帰ってきてくれるの?」

とたびたび聞かれた。

あんな仕打ちをしていたくせに帰ってきて欲しかったのか・・・と驚いた。

私たちはもう戻らない覚悟で家を出たのだから変に期待を持たせてもいけない。

「もう戻るつもりはないんだよ」

と正直に答えると、しばしの沈黙の後に、

「騙された!」

と騒ぎ始めた。

何を騙されたのかと言うと、家出がバレた直後に私が

「もう少しだけ時間をください」

と発言したことだった。

少しだけ待てば帰ってくると思っていたのに。

それを信じて待っていたのに。

騙されて心を傷つけられたと夫は騒ぎ立てた。

それに便乗してきた義両親(特にお義父さん)から、一度家に帰るように促された。


離婚した後もやっぱり戻れると信じている夫

連れ戻されそうになったが、必死で抵抗した。

そもそも居場所を伝えて居なかったので、迎えに来られることは無かったのだが・・・。

それまでの支配による恐怖から、夫が私たちを探し当てて迎えに来るのではと怯えた。

親にも居場所を知らせず、ただひたすらじっと耐えた時間。

その間、子どもはいつもと違う環境で伸び伸び過ごしていた。

私はと言うと、解放感を感じつつも自由って怖いななどと考えていた。

これまで長い間自由を満喫できなかった。

だけど急に全て自分で決められるようになったら決断するのが難しくなっていた。

そんな状態が長く続いていたら、きっと夫の同情心を引き出すような交渉に負けていただろう。

本位でなくても家に戻ることを選択し、また期待したに違いない。

夫は変わってくれる。

今度こそ良い家族になれる、と。

でも、そうならなかった。

結局家に戻ることはなく、離婚の話し合いを行うことになった。

元夫は今でも家族としてやり直せると信じている。

事あるごとに

「俺はもう心を入れ替えたんだよ。前とは違う」

と言ってくる。

だけど、そんな言葉を誰が信じられるというのだろうか。

何度も何度も騙された私たちには、懇願するような夫の言葉ももう響かない。

今はただ、虚しさを感じるだけだ。

2025年3月13日木曜日

月のものが来ない - 焦りと絶望

不本意な行為による妊娠への不安

今日はちょっと真面目なお話になるのかな。

これはモラハラ夫との生活に疲れ、もう離れたいと考え始めていた頃のお話だ。

夫婦生活だってもちろん拒絶したかったけど、逆らうことができなかった。

夫の方はと言うと、これまでと全く変わらない様子だった。

私が嫌がっていることに気づいているのかいないのかも分からず。

とにかく自分の欲求だけ満たせれば良いという感じで飄々としていた。

その一方で私は夫から誘われないようにと常に警戒していた。

最初は機嫌の良い日がソノ日だったんだけど・・・。

段々と機嫌の良い日も悪い日も誘われるようになった。

そうすると、いったいいつがタイミングなのか予測できない。

それで一緒に居る間中警戒するようになり、できるだけ距離を取ろうとした。

ただ、狭い我が家の中で避け続けることも難しい。

時々は嫌々応じなければならないこともあり、心が死んでいくような感覚だった。

気持ち悪くて気持ち悪くて。

ただ心を空っぽにしてじっと耐えるだけ。

そんな日々を送っていたある日、月のものが遅れていることに気づいた。

普段はきっちり来る方だったので気にはなった。

でも、最初の頃は『まあこんなこともあるかな』という感じだった。

でも、一週間が過ぎてもまだ来ない。

あれ?おかしいな。

段々と不安になり始めた。

二週間が過ぎる頃にはかなり焦っていて、毎日そのことばかり考えていた。

ちょっとお腹が痛くなったら『もうすぐくる』と思うのだが、やっぱり来ない。

そうこうしているうちに三週間が経過した。


嫌な想像が頭を離れず絶望

『断ると怖いから』などと言っていないではっきりと拒絶すれば良かった。

もし本当に二人目ができていたらどうしよう・・・。

私は不安になり、仕事中もずっとモヤモヤした気持ちで過ごした。

こうなったら調べるしかない。

そう思うのだが、怖くて勇気も出ない。

悶々と過ごす時間もまるで地獄のようで途方に暮れた。

家に帰ってからも頭の中はそのことでいっぱい。

きっと夫への対応も雑になっていたと思う。

そうしたら、

「なんか最近冷たいよね」

と言ってきて、そんな状況じゃないのににじり寄ってきた。

「ちょっと具合が悪くて。悪いけど」

と断ったのだが、いつも通り圧をかけてきた。

今回のことも私の弱さが招いたことだ。

だから怖くても断らなければ。

そう思って、

「もう薬を飲んで寝るから」

と伝えて早々に横になってしまった。

いつもなら猛烈に怒るところだ。

でも、この時の夫は何も言わずに大人しく横になった。

ただ、翌日から子どもに対してとても厳しくなり、『お前のせいだぞ』と言われているような気がした。

こんなことはもう、お終いにしよう。

段々とそう思えるようになり、ちょっと精神的に落ち着いてきた頃に月のものが再開した。

もし子どもができてしまったら今後の自分を縛り付ける。

そんな風にしか考えられなかった私のところに来てしまったら、それこそ不幸にしてしまうところだった。

だから、本当に良かったと安堵した。

あの頃の私は今いる子どもを守るだけで精一杯で、それ以外のことを考える余裕が無かった。

2025年3月12日水曜日

私の仕事をバカにする無職の夫

一生懸命働いても認められない

夫は常々私を見下していた。

仕事に関してもそう。

別に夫に認めて欲しかった訳ではない。

生活するためには働かなければならないんだし。

自分たちが生きていく分の最低限の収入を確保するのは当然だと思っていた。

だからいつも必死で気にする余裕も無かったんだけど。

そんな私を見て夫はいつも

「誰にでもできる仕事なのに楽しいの?」

と言った。

本来ならここは怒るべきところなんだろうな、と思う。

でも私は『まあ、うちの夫なら言うだろうな』と考えていた。

専門職から一般職に移った時も、

「あ~あ、誰にでもできる仕事じゃ潰しがきかないのに」

とか、

「これでお前の価値が更に下がったな」

という感じだった。

直接的な言葉は使わないのだが、間接的に嫌味を言っていた。

今考えると専門職で続けていた方が良かったのかもしれないと思うこともある。

だけど、当時は仕方が無かった。

夫はまだ働いていてワンオペだったし、何かあっても全く頼れなかった。

ただ、辞めた後も結局ワンオペに変わりは無かったので、夫のことは関係なかったということになる。

そんな状況なのに、自分の気が向いた時だけお迎えに行ったりして・・・。

私が行ける時でも一緒について来ることもあり。

これまた非常に迷惑だった。

誰にでもできる仕事と言うけれど『絶対に辞めてはいけない』というプレッシャーがある。

夫はそのプレッシャーに耐えられないと言った。

自分は耐えられないのに私には耐えろと言うんだから、都合の良い話だ。


仕事探しにも様々な要求を突き付けられた

一度職を失った時、夫は私に様々な要求を突き付けた。

それは次の仕事の条件に関してだったのだが・・・。

夫の挙げる条件をクリアしていなければならないと言われても、実際にはとても厳しかった。

例えば収入は今まで以上に上がることが大前提。

家事も疎かにしないようにと念を押された。

更に福利厚生がしっかりしていて子育てにも寛容な会社が良い。

昇給もあって倒産するリスクが少ないところでないと安心できないと言われた。

挙げればキリがないのだが、私が応募をするたびに

「条件的にはクリアしてるのか」

と聞かれるのが憂鬱だった。

そんなに条件の良い会社だったらたくさんの人が集まってしまう。

その中から選んで欲しいなんて言えない。

夫は自分の安心のために私の応募先まで管理しようとしたが、私はそれを拒んだ。

いくつも応募したって返事が来るのはごく僅かだ。

だから、選り好みしていたらそれこそ無職期間が長引いてしまう。

そう説得して条件的に合わないところにもどんどん応募した。

そのたびにため息をついて、

「これからどうするんだか」

と嫌味を言った。

体が本調子ではないと言うから支えていこうと思っていたのに、嫌味を言う元気はある。

こんなことが続くと結構限界だった。

仕事をしていない夫にここまでコントロールされるなんて。

私の言うことなんてちっとも聞いてくれないし、子どもへの扱いも信じられないほどに酷かった。

こんな生活のどこに未練を感じていたのだろうか、と今なら思う。

この支配は転職後も続いた。

入ったばかりの頃は残ってでも覚えなければならないことがあるのに、それを許してもらえなかった。

定時後すぐに会社を出て電車に乗らなければならない。

乗る時には連絡を入れなければならない。

買い物は手早く済ませ、遅れそうな時には連絡を入れなければならない。

それらのルールは私を縛り付け、少しの自由も許されない生活は苦しかった。

2025年3月11日火曜日

胃痛で苦しむ私にイライラする夫

夕食時に異変は起きた

平日だったかな。

それとも休日のことだったのかな。

とにかくあまりにも痛みが強くて、その印象しか残っていない。

ある日、夕飯を食べていたら胃の辺りに強烈な痛みを感じた。

その前から少しおかしかったんだけど、そのうち治ると思って気にしていなかった。

でも、ご飯を食べ始めたらどんどん痛みが増していった。

しまいには脂汗まで出る始末。

呼吸をするのもしんどくなって、箸を置いた。

「ちょっとゴメン、胃の辺りが痛くて」

とことわり、うずくまった私。

夫はその時点でとてもイライラしていた。

そのイライラを感じ取ってしまい焦ったけど一向に良くならない。

それどころか痛みはどんどん増していき、何回か意識が飛びそうになった。

多分、その間に夫から何か言われたと思うのだが答えられなかった。

それで更に怒った夫が、

「飯食ってんだろーが!」

と訳の分からないキレ方をした。

せめて無視して勝手に食べてくれていたら良いのに。

その場に居るのもダメなのだろうか。

悲しくなったけど他に居る場所も無くて、うずくまったまま

「ごめん。もうちょっと待って」

と再度謝った。

我が家にはもう一つ部屋があるが、そこは夫がいつでも横になれるように布団を敷いたままだった。

子どもや私が使わせてもらうことはできないし、物を置くことも嫌がられた。

ただでさえ狭い我が家で実質的に使えるスペースは一部屋だけという状況。

だから、あの時も隣で横になるということができなかった。

残るはキッチンだが、キッチンは人一人が立つのがやっとのスペース。

うずくまる位ならできるだろうが。

それはそれで、夫が冷蔵庫に何か取りに来た時などに邪魔にされそうだった。


体調を崩すことも許されない

結局、その日はご飯を食べられなかった。

少し経ったら胃痛自体は良くなった。

でも、夕食に並んだものたちはほぼ完食されていたのでご飯しか食べる物が無かった。

まあ、あれだけの痛みがあったんだから食べない方が良いか・・・。

少しだけご飯を口に運び、お終いにしようとしたら夫から

「いつまでそうしているつもり?」

と言われ、ギロリと睨まれた。

それで慌てて立ち上がり、食器をシンクに運んだ。

鬱陶しいと思われていたことは間違いない。

調子が悪そうにしているのが目障りだったのだろう。

子どもが残りの食器を運んできてくれて、

「ママ、大丈夫?」

と夫に聞こえないくらいの声で聞いてきたが、それにも聞き耳を立てていた夫。

『大げさだ』と馬鹿にしたように言って、早くいつも通りに振舞うように要求してきた。

体調が悪くても休むこともできない。

辛そうにしているだけでイライラされる。

それが当たり前だったので、私はとても我慢強くなった。

それと同時に周りにSOSを出すことができなくなった。

胃痛は何度も私を苦しめたが、夫からの影響が大きかったようだ。

離れたら嘘のようにスーッと無くなり、それ以来一度も起きていない。

会社からの呼び出しで子連れ出勤

事情を説明するために会社へ 9時ちょうどくらいに会社に電話した。 コール音がするかしないかのうちにつながり、出てくれたのは引継ぎをした同僚だった。 良かった。 これなら話が早い。 「急で申し訳ないのですが。今日お休みをいただきたいんです」 と告げると、相手もピンときた様子で、 「...