もう愛せない
あの頃の夫は、とにかく必死だった。
必死に、取り戻そうとしていた。
過去の日常を。
失いかけた家族を。
自分で手放したはずのものが、
惜しくなったのだろう。
一方で、
私たちは『引き戻されないように』
必死だった。
可哀そうに思う気持ちはあった。
けれど、
何度も辛い思いをしてきたからか、
愛情はもう枯渇していた。
その代わりに、
私たちのいない場所で、
幸せに暮らしてほしい。
そんな、
他力本願な願いだけが
強くなっていった。
子どもへのすり寄りも酷くて、
「パパを許してくれる?」
と、何度も言う。
そのたびに、
――都合のいいことを言わないで。
心の中で、そう叫んでいた。
だけど、
怒らせた時の恐怖が
体に染みついている。
だから私は、
表面上は曖昧な対応に徹した。
子どもは、
決して首を縦に振らなかった。
それは本当に、
すごいことだと思う。
そんなある日。
夫がお寿司を片手に、
我が家にやってきた。
「お昼、何にしようか」
そんな会話をしていた
ちょうどその時だった。
子どももお寿司が好きだ。
でも、少し前に
私の誕生日に押しかけられて、
辛い時間を過ごしたばかり。
また、
あの時間を過ごすのか……。
そう思った瞬間、
私は思わず嘘をついた。
「もうお昼は済んだんだ」
そう言うと、
みるみる夫の表情が変わった。
怒気をはらんだ声で、
「そんなはずあるか!」
と言った。
― いつもと違う、夫の反応
ああ、
また暴れるのか。
どこか冷めた目で、
私は夫を見ていた。
この瞬間は強がっていても、
きっと後で後悔する。
「あんなこと言わなければ良かった」
と。
でも、
怒りの表情を見て湧いてきたのは、
恐怖だけではなかった。
憐れみ。
恐怖と同じくらい、
憐れみも込み上げてきて、
――可哀そうな人。
そう思った。
とはいえ、
やはり暴れられると怖い。
私は一歩後ずさって、
「今日は、
いつもよりお昼が早くてさ。
ごめんね~」
と取り繕った。
いつもなら、
ここから暴れて
手が付けられなくなる。
至近距離で怒鳴られたり。
物が飛んできたり。
子どもを叩くこともあった。
私は叩かれない。
けれど、
物凄い力で掴まれたり、
家具やコップを
壊されたことはある。
その直後の恐怖を思い出し、
体が硬くなった。
その瞬間。
夫は、
予想外の反応を見せた。
「そうだよな。
急に押しかけてごめん」
そう言って、
そのまま帰ろうとした。
ただ、
体は帰ろうとしているのに、
どこか
引き止めてほしそうな様子。
私は、
それに気づかないふりをして、
「また今度ね」
と言った。
せっかく持ってきてくれたのに、
冷酷だっただろうか。
帰り際、何度も
「また来るから。
今度は連絡してから来るよ」
と言う夫。
その姿を見ても、
可哀そうだとは
思えなかった。
ただ、
――早く帰ってくれて良かった。
そう思って、
ほっとしていた。






