夫の気配
離れて暮らしていても、本当の意味での自由には、
まだ程遠かった。
いつもどこかで、
夫の気配を感じていた。
義両親がやって来て、
「十分に気を付けるように」
と忠告してくれたけど。
実際にできることは限られている。
夫がその気になれば、
何だってできる。
そんな思いが、
頭から離れなかった。
私たちは、
万が一に備えて
いくつかのルールを決めた。
子どもが家に着いたら、
まず遠くから様子を見る。
夫が近くにいないか、
確認してから近付く。
鍵を持っている以上、
部屋の中に潜んでいないとも限らない。
だから、
鍵を開けた後も
すぐに靴を脱がないよう伝えた。
こんな言い方は良くないのかもしれない。
だけど夫は、
いつも禍々しい空気をまとっていた。
その異様な雰囲気は、
少し離れた場所からでも感じられた。
子どもも夫の気配には敏感だった。
「隠れていても分かるよ」
そう言って、
妙に自信満々だった。
家に入った後は、
夫が訪ねて来ても出ない。
絶対に応答しない。
それを徹底するだけでも、
少しは不安が和らいだ。
チェーンを掛けていれば、
すぐには入れないはずだから。
ただ、
私たちはその先も考えてしまう。
チェーンを壊されたらどうしよう。
そうなれば、
逃げ場はない。
ある程度の時間は稼げても、
どこにも逃げられない造りだった。
子どもは言った。
「ベランダに出て叫ぶよ」
その言葉を聞いても、
安心はできなかった。
もし本当に、
子どもがベランダで助けを求めたら。
誰か助けてくれるのだろうか。
人通りは多い。
だけど、
危険を冒してまで
手を差し伸べてくれるだろうか。
そんな不安が、
消えることはなかった。
思わぬ救世主
放課後、
友達と遊んだ日は
駅まで来ることが多かった。
早い時間に解散した日は、
そのまま家へ帰ることもある。
高学年になると、
習い事や塾で忙しい子も増える。
以前のようには遊べなくなり、
一人で過ごす時間も長くなっていった。
塾の日は安心だった。
問題は、
それ以外の日だ。
安全のためなら、
背に腹は代えられない。
「塾の日を増やそうか」
私はそう提案した。
すると子どもは、
家計のことを気にしているのか、
「大丈夫だよ。
今まで通りで」
と気丈に答えた。
だけど、
私の不安は消えなかった。
仕事をしていても、
ずっと気になっていた。
そんな時だった。
子どもが何気ない雑談の中で、
「ちょっと困ってるんだよね」
と話したらしい。
すると塾長が、
「毎日来ていいよ」
そう言ってくれた。
さらに、
「自習してれば?」
「毎日勉強してたら、
成績も伸びるかもね」
そんな前向きな言葉まで
掛けてくれたという。
ありがたい申し出だった。
子どもは喜んで塾へ通い始め、
少しずつ精神的にも落ち着いていった。
この話を聞いた私は、
すぐにお礼の電話を掛けた。
すると塾長は、
笑いながらこう言った。
「自習室なんて、
誰も使ってくれないんですよ」
「やる気がみなぎっているみたいで、
こちらも嬉しいです」
子どもは本当に楽しそうだった。
そして、
塾長や先生たちの優しさに触れるたび、
父親への不信感や拒絶感は
ますます大きくなっていった。






