罪悪感から?それとも子どもをコントロールするため?
普段からちょっとしたことで怒られていた子ども。その怒鳴り声は異様に大きくて、大人の私でも縮み上がるほどだった。
子どもの小さな体にはさぞかし堪えただろうと思う。
それでも怒鳴られるだけならまだマシだ。
叩かれたり首ねっこを掴んで持ち上げられたり、蹴られることもあった。
「そんなことをしたら怪我しちゃうよ!」
何度そう伝えたか分からない。
もう後のことなんて考えられなくて必死で止めようとした。
それくらい切羽詰まった状況だった。
けれど夫にそんな訴えが届くことは無く、
「大げさなことばっかり言いやがって」
と余計に怒らせてしまうことがほとんどだった。
こういう場面でもっとも恐れたのは、私が口を出すことで更に状況を悪化させることだ。
人から指図されることを極端に嫌う夫が私の言うことなど聞くはずがない。
それが分かっていても言わずにはいられなかった。
そして案の定、夫を怒らせてしまい二人まとめて罰を受けることに・・・。
モラハラや虐待というものが日常生活の中で当たり前のこととして存在していた我が家。
夫の機嫌を意識しながら生活することに疑問も抱かなかった。
酷い虐待の後、夫は決まって子どもに優しくなった。
普段はかけないような優しい言葉をかけ、おもちゃを買い与えた。
そういう時はまるで子どもを溺愛しているかのように振舞い、
「どんなおもちゃが欲しいんだ?」
などと聞いていた。
こういうのが飴と鞭って言うのかな。
さっきまで意味不明なことで怒られていた子どもの目には薄っすらと涙が浮かんでいて。
でも、にじり寄ってくる父親を無視もできないので、
「えっとね~、今欲しいのはね~」
と一生懸命答えようとしていた。
こんなのって絶対におかしい。
いつもそう思っていたのに強く言えなかった私も同罪だ。
積み上げられていくおもちゃ
我が家は狭かった。
だから収納場所も少なくて、狭い部屋におもちゃがどんどん積み上げられていった。
そんなにたくさんのおもちゃがあるということは、それだけ虐待されたということ。
本当はおもちゃなんて要らないから子どもを虐めないで欲しかった。
その一つ一つを見ると蘇ってくる嫌な思い出の数々。
私はあまり見たくなかったのだが、子どもも多分同じ。
自分から率先して遊ぶことは少なかったように思う。
ハッキリ言って、あんなのは夫の自己満足以外の何物でも無い。
「あのおもちゃで遊ばないのか?」
と言われても困ってしまうよね。
それなのに、おもちゃさえ与えていれば自分は良い父親なのだと勘違いしているふしがあった。
義両親が我が家に来た時、子どもに向かって
「パパに買ってもらったのか。良かったな~」
と言った。
何とも複雑な気持ちでそのやり取りを眺めていたのだが、次に出てきた
「パパは(子ども)のことが大好きなんだな」
という発言はどうしても納得できなかった。
本当は義両親だって知っているはずなのに。
二人の目の前で子どもが虐待されることもあるのに。
そして、そのおもちゃたちがどういう風に与えられたのかも知っているのに。
それなのに、なぜ『おもちゃを買ってあげる息子はエライ』と思えるの?
ここには私たちの味方は居なくて、一人で子どもを守るしかなかった。
だけど私はあまりにも無力で。
どうやって自分たちの身を守れば良いのかが分からなかった。