2025年3月31日月曜日

義両親からの手紙はちょっぴり切ない

『孫に会いたい』という気持ちが溢れていて・・・

時々、義両親から手紙が届く。

ハガキのこともある。

そこに共通しているのは『孫に会いたい』という気持ちだ。

文章からにじみ出ていて、それを無視することができない。

気づかないフリをしても、その思いが容易に想像できてしまう。

たった一人の孫だから、本当は会いたいんだろうなということは分かっている。

分かっているくせに疎遠にし続けることは『悪』なのだろうか。

近頃そんなことばかり考えている。

義両親だってもう若くない。

このまま疎遠にし続けて二度と会うことができなくなったら・・・。

その時後悔しないと言える自信がない。

子どもも『会いたかった』と思うかもしれない。

どうにもならないことを考え続け、だけど思考は堂々巡りで。

段々と疲れてきてしまった。

『いつか会える日を楽しみにしています』

特にこの言葉が私の心に棘のように刺さってチクチクとした痛みをもたらしている。

そう書かざるを得ない義両親にはどんなに望んでも二度と手に入らないものがある。

それは、孫との普通の生活だ。

離婚する前は家に来るたびに子どもと遊んで買い物にも一緒に行った。

小さい頃は泊りにも行った。

幼い子どもにご飯を食べさせているお義父さんやお義母さんは、とても幸せそうだった。

『可愛いねぇ』と目を細めて言っていた姿を思い出す。

それが、離婚を機に全く会えなくなって、これからもずっと会えないかもしれないなんて。

私だったら絶望するだろうな、と思った。

だから、手紙を無視し続けることに罪悪感をおぼえてしまう。

かと言って会わせてあげることもできず、未だに夫の存在に怯えている。

どうしてこうなっちゃったのかな。

もし夫があんな人でなければ、きっと義両親ともそれなりに上手くやっていた。

そうしたら子どもとも交流し続けて、幸せな老後を送れたに違いない。

こういうのでタラレバは無いけれど、ふとそんなことを考えてしまう。


夫からの不満

離婚が決まった後、夫から

「お前はうちの両親のことも不幸にしたんだよ」

と言われた。

当時は夫への恐怖心が大きくて、そんな言葉にもまともに反応できなかった。

ただ言われた言葉をそのままのみこみ、『そうなんだ・・・』と思った。

私が何も言わないからか、夫は追い打ちをかけるように

「俺に気づかれないように毎日こっそり(子ども)の動画なんか見ちゃってさ・・・」

と言った。

イベントなどで撮ったものを義両親にも渡していた。

だから、義実家にはいくつもの動画があった。

ある時、トイレに起きて階下に行ったら自分の部屋でお義父さんが動画を見ていたそうだ。

夜遅くに真っ暗な部屋で動画を見ている後ろ姿を見た夫は『声を掛けられなかった』と言っていた。

そこに自分の責任を感じていない所が夫らしい。

離婚することになったのは自分にも責任があるのに。

まるで全責任が私にあると言われているようだった。

それには反論したい気持ちもあったが、義両親に関しては本当に申し訳なく思った。

子どもはどんどん大きくなる。

その成長を一緒に見守ってもらえたら良かったのに。

それもできなくなってしまった。

今はもう、大きくなった姿を想像しながら過去の動画を見るしかないのだろう。

どんな風になっているかな?と想像しながら・・・。

いつか状況が変わり夫への恐怖心も無くなって会える日が来たら。

その時は義両親と子どもを会わせてあげたい、という気持ちもある。

それが叶うまで元気で居て欲しい。

私は決して義両親のことを嫌ったり憎んだりしていたわけではない。

時には分かってもらえなくて悔しい思いもしたけれど。

それは本気でぶつかってお互いの主張を言い合っただけ。

家族だからそれで良いんだと思ってた。

でも、離れてみて義理の実家との関係というのは脆くて難しいものなんだなと実感した。

2025年3月30日日曜日

義両親からの支援で塾に行くように言われたが・・・

「出来が悪ければ早めに手を打て」

小学校低学年の頃、子どもの成績が芳しくなかった。

理解していないという感じではなく、ケアレスミスが目立った。

小さいうちはそういうこともあるだろうから、ひとまず様子を見守ることにした。

だが、これに口出しをせずにはいられない人たちが居た。

そのうちの一人が夫だ。

夫は日々何かしらの文句を言っていたのでいつも通りと言えばいつも通り。

予想外だったのは義両親まで色々言ってきたことだった。

呑気に構えている私に対し、

「今のうちからちゃんとしなければだめ」

「このまま行ったら落ちこぼれちゃうから」

「出来損ないと思われも良いの?」

などなど、色んなことを言ってきた。

『子どもが勉強しなかったり真剣に取り組めないのは家庭環境のせい』とまで言われた。

家庭環境のせいと言われると非常に困ってしまった。

その責任の一端は夫にもある。

それを私だけのせいにされるのも納得できなかった。

義両親からは、そういう諸々を含めて私が管理するようにと言われた。

この時『簡単に言わないでよ!』と内心思っていた。

家庭環境を整えるのはかなり難しい事だと義両親も知っているはずなのに。

日頃どんなに辛い思いで過ごしているかも知っているはずなのに。

私の頑張りが足りないような言い方をされてショックだった。

あのモラハラ虐待夫が家に居たら普通に暮らすだけでも非常に大きなストレスを抱えることになる。

その上、子どもの成績まで『普通』では許されないなんて。

一緒に聞いていた子どももショックを受けたみたいで表情は硬かった。

その後、夫から

「お前、今のままじゃダメなんだぞ。どうするんだ?!」

と詰め寄られ、子どもは半泣きになりながら

「頑張る。頑張るから」

と言った。

そうしたら夫が、

「前にもそう言ったよな!もう聞き飽きたって言ってるんだよ!」

と怒鳴った。

傍で聞いていたお義父さんが子どもに

「ほら、ごめんなさいってしちゃいなさい」

と促し、それを聞いた夫が更に激高して

「そういう話じゃねーよ!こんな落ちこぼれでどうしようもねー奴、どうやって普通のレベルまで持って行くのかって聞いてるんだよ!」

と叫んだ。

子どもは手をギュッと握りしめてポロポロと涙を流していた。

それを見た私はたまらず、

「もう止めてよ。何でそんな酷いことを言うの!」

と子ども抱きしめた。

夫に歯向かってしまったことでドキドキしていたが、子どもが可哀そうで言わずにはいられなかった。

義両親にも夫を止めて欲しくて視線を送ったら、二人は口々に

「ママがそんなに感情的になってちゃ話もできないわ」

と馬鹿にしたように言った。


『塾代を出すから通うように』と言った義両親

怒られた子どもは私の後ろに隠れて『ごめんなさい』と繰り返した。

私にしがみつきながら、しゃくり声をあげて泣いた。

あまりにも泣くものだから義両親も少し戸惑ったようだ。

でも、夫は子どもの手を無理やり引っ張って自分の方に引き寄せた。

「泣いてちゃ分かんねーんだよ!」

更に怒鳴られて肩を揺らしながら涙を流す子ども。

このままではまずい。

そう思って咄嗟に夫と子どもの間に入ろうとした。

だけど、義両親から

「今、大事な話をしているの」

と止められた。

私にはどう見ても子どもを虐めているようにしか思えなかった。

それなのに、この3人からしたらこれは教育的指導ということになるのだ。

自分たちのしていることは正しいと信じて疑わない様子に正直ゾッとした。

結局子どもは無理やり

「塾に行かせてください」

と言わされた。

夫がそう言うように促し、義両親も満足そうに聞いていた。

決して子どもの意思ではない。

それは、そこに居た全員が知っていることなのに、夫は

「お前が決めたんだからな!一度決めたことを途中で投げ出したら許さないからな!」

と脅した。

お義母さんも、

「自分で決めたんだもん。頑張れるわよね」

と言っていて、私は絶句した。

きっとこれで成績が上がらなかったらなじられる。

そうなったらまた別の意味で地獄だ。

子どもは本当は行きたくもない塾に通うことになり、しばらく落ち込んでいた。

2025年3月29日土曜日

2度目の上司との話し合い

『次のチャンスで家を出るつもり』だと伝えた

2度目の上司との話し合いの機会はすぐにやってきた。

前回は中途半端な所でお開きになってしまったので上司も気になっていたようだ。

業務が比較的忙しくないタイミングを選んで再び会議室で話し合いをした。

モラハラや虐待なんて家の中でのことだ。

本来なら会社の人に言うような話ではない。

でも、家を出た時にどうしても迷惑をかけてしまうから言っておかなければならなかった。

まず最初に伝えたのが『現在、家を出るタイミングをうかがっている』ということだった。

これまで、なかなかチャンスが巡ってこなかった。

チャンスがあったとしても勇気が無くて出られなかった。

次にもしチャンスがやってきたら迷わず出るつもりだ、と伝えた。

本当に家を出た場合、1週間程度は仕事に来られなくなる可能性がある。

状況が落ち着かなければ更に長引く恐れも。

その間、夫は何としてでも探し出そうと色んなことをするはずだ。

周りの人を巻き込み、会社にだって連絡が来ると思う。

連絡が来た時に、想定内のこととして動けるようにしておきたかった。

休んでいる間の業務も気になっていた。

実は少しずつ手順や内容をファイルにまとめていたのだが、それだけではやはり不十分だった。

それで、関係する人に時間を作ってもらい、説明しておきたいとお願いした。

その件も快くOKをもらい、早めに動くことになった。

ただ、その人たちに何て説明したら良いのかが分からなかった。

急に業務内容を連携しておきたいと言われたら普通なら戸惑うだろう。

その上、理由も分からなければ不審に思うかもしれない。

本来なら事情を説明するべきなんだけど、夫の件を知られるのも躊躇われた。

「理由は何にする?」

と聞かれた私は黙り込んだ。

そんな様子を見た上司はしばらく考えた後に

「家庭の事情、ということにしておく?」

と提案してくれた。

確かにそれなら詳しいことを言わずに済む。

特定の状況を表すものではないから、その後会社に居辛くなるということもない。

今後のことも考えてそれが一番良さそうだということで、ある程度の方向性は決まった。


上司の前で涙

「それにしても、旦那さんてそんなに怖いの?」

と上司から聞かれた時、私は間髪入れずに、

「はい、とても」

と答えた。

「まあ厳しい人は居るけど、家族にそんなことするなんてね・・・」

と同情している様子だった。

特にうちの子のことを気にかけてくれて、

「虐待なんて何があってもしちゃだめだよね」

と言ってくれた。

夫からは聞いたことのない、

「頑張ってきたんだね」

「辛かったでしょう」

という私たちを気遣う言葉が胸にジーンときた。

話し合いが始まった時には、伝え漏れが無いようにということばかり考えていたのだけれど。

優しい言葉をいただいて、思わず涙が出てしまった。

親子ほど年の離れた上司からの言葉は私の心にズシンと響いた。

まるで両親から言われているような気がして。

あー、きっとうちの両親に伝えたら同じように心配されるんだろうな、と思ったら涙がボタボタと出てきてしまった。

ハンカチで涙を拭いながら、

「本当は家を出るのも怖いんです。でも子どものためにやらなきゃって思って・・・」

と言ったら、

「上手く行くといいね。弁護士さんが必要なら紹介するから」

と力強い言葉をもらった。

2度の話し合いで、とりあえずは状況を伝えることができた。

後は家を出た後に困らないようにお金や荷物の準備をしなければならなかった。

一時的にでも滞在できるところを探す必要もあった。

まだまだ気を抜けない状況ではあったが、ほんの少しだけホッとした。

2025年3月28日金曜日

家を出ることを想定し、上司に相談

やっと離婚を決心

長い長い時間がかかってしまった。

繰り返されるモラハラ虐待により、夫との生活に疲れ切っていた。

『明日なんて来なければ良いのに』

そう思うこともたびたびあった。

それなのに、どこか諦めきれない気持ちもあった。

その気持ちが決心を鈍らせた。

きっと夫に見抜かれていたのだろう。

何があっても見捨てるはずがないと。

実際、どんなに酷いことをされても見捨てることができなかった。

この人には私たちしかいない。

そんな思いが決断の邪魔をした。

長い人生の中には、決断しなければならない時がある。

私にとっては、まさにあの時がそうだった。

我慢することが当たり前になっていたが、ふと思ってしまった。

『もう良いかな』って。

頑張っても頑張っても報われない日々。

むしろ頑張れば頑張るほど、もっと高いレベルを要求されて苦しくなった。

子どもは、ありのままの自分を愛してもらうという経験ができなくて苦しんだ。

私が褒めると、

「甘やかすな!コイツはどうしようもない人間なんだからな!」

と叱られ、常に否定されて育った。

悲しむ子どもを見るたびに『母親の私がしっかりしなければ』と思うのに何もできない。

そんな日々に疲弊し、追い詰められた。

ある時、いつものように夫から暴言を吐かれ子どもが虐待されて自分の中でプツンと何かが切れた。

ようやく決心することができた瞬間だ。

ただ、決心したと言っても簡単ではなかった。

夫は上手く立ち回り離婚を回避しようと試みるだろうし、口でも体力でも叶わない。

闘うためには周到に準備をして不測の事態にも備えなければと思った。

多分、仕事にも影響が出るだろう。

私の職場では仕事が被る人が居ないので、数日抜けただけでも迷惑をかけてしまう。

前もって相談しておかなければ業務に支障が出る可能性が大きい。

その日がいつ来るかはまだ分からなかったが、こちらも備えなければと動いた。

仕事に関しては、やはり上司への相談が必須となる。

どんな反応が返ってくるか怖かったけれど、まずは話を聞いてもらうことにした。


上司の驚き

朝一で、上司に

「ちょっとお時間頂けますか?」

と声をかけた。

一瞬ビクッとなり、それから

「じゃあ会議室を予約して時間教えてね」

と言われた。

後から知ったのだが、私が退職を申し出るのだと思ったらしい。

思い詰めた表情で『お話が・・・』と言われたら誰でもそう思うだろう。

それがまさか家庭内のトラブルの話だなんて想像できなかったと言われた。

だからなのか、話し合いが始まる前に

「何かとても重要な話なのかな」

とソワソワしていた。

そんな勘違いをされているとは露知らず、私は家庭内の問題を話し始めた。

夫が無職というのは上司も知っている。

私の扶養に入っていて、家族手当までもらっている状況だったのだから。

ポツリポツリと家でのことを話し始めると、上司は驚いた表情になった。

私は辛かったり悲しかったりといった気持ちが表情や態度に出ないタイプらしく、皆から

「いつものほほんと幸せそうだね~」

と言われていた。

だから、そんな問題を抱えていたなんて思いもしなかったようだ。

夫の問題を人に話すのは初めてのことなので、私の方はとても緊張していた。

まず、この話を信じてもらえるのか。

信じてもらえたとして、どれほど深刻にとらえてもらえるだろうか。

理解を得るためにはいくつものハードルがあった。

家庭内で起きていることなので目撃者はいない。

私や子どもの証言だけなのだから、話を作ろうとすればいくらでもできる。

また、上司は少し年配の方なのでモラハラに理解があるかも未知数だった。

だから、相談はいわば賭けだった。

話している間、上司は時々相槌を打ちながら聞いてくれた。

「家を出るかもしれない」

と言った時には、

「それが良いかもしれないね。弁護士さんに依頼した方が安心だよ」

と助言してくれた。

現状を話し終えた時点で、何となく『これなら大丈夫そうだ』という感じがした。

午後4時から話し始め、気づいたら既に1時間が経過していた。

定時で上がらないと子どものことが心配なので、その日はお開きに。

一回目の相談では状況説明だけして、肝心の話は翌日以降に持ち越しとなった。

2025年3月27日木曜日

元夫の友達からの連絡に警戒

電話をかけてきた夫の友人

元夫の友達の中には連絡先を交換した人もいる。

前は時々連絡を取り合っていた。

つながっておくと急な用事ができた時に便利だった。

ただ、今はもう離婚していて夫とは他人だ。

子どもの父親という事実に変わりはなくても、はっきり言って気持ち的には他人以下になっている。

そんな夫の友達とも当然連絡するような用は無いから、そろそろ消さなくちゃなーと思っていた時だった。

携帯に夫の友人の名前が表示され、着信のランプが点滅した。

誰からもかかってくるような時間帯では無かったので、ちょっとだけ驚いた。

うちの両親や姉は夜遅くにはかけてこない。

だから、夜間はいつも携帯を放置している

いつもなら気づかなかったかもしれないが、その時は偶然目の前に置いてあった。

反射的に慌てて出ようとして、ふと考えた。

一体何の用?

もし夫から頼まれごとをしてかけてきたのだとしたら面倒だな、と思って出るのを躊躇した。

警戒しているうちに一度切れたのだが、数分後に再び鳴った。

こうなってくると出ないのも気になるし、出るのも怖い。

この頃まだ離婚して数か月くらいの時だったので恐怖の方が大きかった。

もし夫が何かを要求してきているのなら、できるだけそれに応えなければならない。

恐怖で支配され続けた私は、離れても尚そんなことを考えていた。

だけど、心のどこかで『そんなのおかしい』とも思っていて。

相反する気持ちが自分の中でせめぎ合っているような状態だった。

少しでも接すれば心を乱されることは分っている。

だから普段はできるだけ夫関連のことを思い出さないようにしていたのだけれど・・・。

やはり長年しみついた思考はなかなか消えないみたいだ。

時期的にはまだ、声を聞けば怯えて悪夢を見ていた頃。

本人でなく友達からと言っても、十分に憂鬱の種だった。


夫の仲間内では話が逆に伝わっていた

「元気だった?」

思い切って電話に出た後の第一声がこれだった。

相手は以前やり取りした時と変わらずフレンドリーな感じだったんだけど。

夫が裏で何か画策しているのかもしれないと思うと身構えてしまった。

その友人自身が良い人だったとしても、夫が絡むと予期せぬ方向にいってしまう。

私は警戒しながら世間話をしつつ相手の出方をうかがった。

その中でしきりに聞かれたのが、

「最近どうしてるの?お子さんは元気?」

ということだった。

そりゃー元気に決まってる。

あんな父親と離れられたんだから。

それだけで幸せ度は1000倍、いや10000倍上がってるはずだ。

友人のところにもお子さんが居るからちょっと気にかけてくれたのかな?

そんな風に思ってしまった私は少しだけ気を許してしまい、子どもの近況なんかも話した。

なんだかんだと普通に会話できて、『警戒することも無かったかな』と思ったのだが・・・。

4~5分くらい話した後、唐突にその友人が、

「そろそろアイツとお子さんを会わせてあげられないかな」

と言った。

その瞬間、頭が真っ白になった。

実はそう言ってくるのではないかと予想はしていた。

だから、その言葉自体にショックを受けたわけではない。

ただ、過去の虐待シーンが鮮明に思い出されてしまった。

既に子どもと二人で穏やかに暮らしているのに、どうしてかな。

やっぱり嫌な思い出というのはなかなか消えないのかな。

動揺していることを悟られたくなくて、

「それは無理ですね・・・」

と答えるのが精一杯だった。

友人は納得している様子だったが、その後の言葉に更に衝撃を受けた。

「いやー、これ言っていいのか迷ったんだけど」

と言うので、そんな奥歯に物が挟まったような物言いは逆に気になると思って、

「何ですか?言ってくださいよ」

とお願いしたら、

「アイツ、お子さんが虐待されてるんじゃないかって心配してるんだよね・・・」

と教えてくれた。

何を言ってるんだろう???

それが最初の感想だった。

虐待していたのは自分なのに、何で私が疑われなきゃいけないの?

よくよく聞いてみたら、どうやら仲間内では逆の話になっていたらしく。

私が虐待していたのに親権を取られてしまった、ということになっていたようだ。

これには正直驚きすぎて言葉も出なかった。

ただ、そのままではマズいのですぐに訂正した。

訂正したところで、それほど親しくない私と長年の友人である夫のどちらを信じるだろうか。

こうやって事実でないことがあたかも真実のように広まっていくことが怖いと思った。

2025年3月26日水曜日

〇〇家の孫というけん制

孫に執着する義両親

産まれるまでは、それほど興味を持っている様子は無かった。

だけど、産まれた瞬間に物凄い孫フィーバーが起きた。

人間ここまで変わるのか、という位に孫命になった義両親。

最初は驚いたけど、これはわりとどこのご家庭でも起こることだと思う。

ただ、うちの場合にはその執着の仕方が結構凄かった。

夫の実家から見ても私の実家から見ても孫という点は変わらない。

だから、どちらの比重を重くしてもいけないと思って平等になるように心がけた。

お祝い事だって両家に声を掛けて皆で集まれるように段取りを整えたのに。

上手くいかなくなってしまった。

最初は良かったんだけど、段々とバランスが崩れた。

こういうのって、お互いへの気遣いにより絶妙なバランスで成り立っているのだと思う。

だから、どちらか一方がエゴを出し始めると途端におかしくなってしまう。

そのきっかけとなったのが、義両親の『この子は〇〇家の孫だから』という姿勢だった。

そう思っていたとしても心の中だけにしておいてくれたら良かったんだけど、黙っていられない人たちなのだ。

皆で集まる時もそれを前面に出すものだから不穏な空気が流れた。

うちの母も、実は結構気が強い。

顔では笑っていても言葉の端々から戦闘態勢が見て取れた。

『これはマズイ!』

焦った私はこの場を何とかしなければと余計なことをペラペラとしゃべりまくった。

だけど、そういう時って誰も聞いていない。

お互いの出方を探っているような状況なので、相槌を打つ人は居ても話の内容など全く耳に入っていなかったと思う。

これが1度や2度ならまだ良かった。

うちの場合には集まるたびにそうなるのだから嫌になってしまった。

せっかく良かれと思ってやっているのに裏目に出るなんて・・・。

母がもう少し気の弱い人だったら上手くいったのかもしれない。

でも、それだと言われっ放しでストレスが溜まったかな。

うちの父は穏やかな人だから、一人和やかな空気をまとっていた。

他の3人が父のような人なら良かったのにね。

集まるたびに不穏な空気に包まれていた我が家。

お祝いや行事のたびにそんな状態だったので、私の胃は毎回キリキリと痛んだ。

それで段々と集まることを止めた。

それと同時に両親を呼ぶ機会も失ってしまった。


可愛がりはするけど虐待からは守ってくれない

義両親の溺愛ぶりは凄かった。

うちの両親には嫉妬もしていて、

「そちらの家は良いわね~。お孫さんが他にも居て」

と事あるごとに言っていた。

姉の所にも子どもが居たので羨ましく思ったのだろう。

その次に続くのは、

「うちは一人だけだから」

という言葉だった。

最初はピンと来なかったんだけど、ある時母から耳打ちされた。

「あれって、そっちは他にも孫が居るから良いでしょって意味よ」

と言われとても驚いた。

そんなこと考える人居るんだ・・・。

いや、母がうがった見方をしているだけかもしれないけど。

世の中は言葉の表面だけを見ていても上手くいかないんだなと痛感した。

裏を読まない私は常に言われたままの意味で受け取った。

だから、時々お義母さんに『天然ね』と言われた。

もしかしたら、あれは嫌味だったのかもしれない。

そこまで溺愛しているのだから虐待からも守ってくれそうなものだが、それは期待できなかった。

孫が可愛いと言っても、しょせん息子には負けるのか。

目の前で夫から虐められていても、子どもに

「早く謝っちゃいなさい」

と言う始末。

何も悪いことをしていなくても、だ。

そんなことを言われたら、子どもだって納得できない。

だから、会っても嬉しそうにすることも無く真顔で接していた。

我が家にやってきて義実家に連れて帰ろうとした時などは泣いて嫌がった(笑)

目の前で叩かれていても助けず、

「そういうことするな」

と軽く注意するだけ。

裸足で外に出されそうになった時には、

「靴をはかないと汚れちゃうだろ」

という謎のフォロー。

その程度じゃ何の意味もないことを義両親が一番分かっていたはずだ。

少しでも守ってくれていたら、また違った見方ができていたのかもしれない。

結局面倒なことには目をつぶってスルーするだけだった。

2025年3月25日火曜日

友達が誘いに来ても出かけるのを許さない夫

小学校に入ってからできた友達

子どもが小学生になり、新しい友達ができた。

保育園から小学校に上がる頃って環境の変化に適応するだけでも大変だと思う。

だけど、我が子はどんどん自分の世界を広げていった。

引っ込み思案だと思っていたのに結構やるな、と頼もしく感じた。

放課後になると、仲良くなった子たちが『遊びに行こう』と誘いに来る。

うちの子はどちらかと言うと大らかで行動もゆっくり。

だから、迎えに来てもらうことが多かった。

のんびり帰っていたら既に一度家に帰った友だちが迎えに来ていて驚いたこともあったようだ。

「ちょっと待っててね~」

と家に入り、急いで遊びに行く準備をする子ども。

普通に考えたら微笑ましい光景だと思うのだが・・・。

夫は快く思っていなかったようだ。

わざと外で待っている友達に聞こえるような声で、

「お前、どこに行くつもりだよ!」

と怒鳴り、子どもが答えようとするのを遮って、

「遊びになんて行ってる暇あるのかよ!」

と言ったそうだ。

これが一度や二度ではない。

私が仕事から帰ると『今日ね・・・』といつも子どもが教えてくれた。

私の居ない間にこんなことが頻繁に起きていた。

時にはわざわざ外に出て、

「ごめんね。今日(子ども)は遊べないから」

と言ったそうだ。

時間はたっぷりあるはずなのに。

夫は子どもが楽しく過ごすのを許さなかった。

多分、そう言われた友達も驚いたと思う。

次の日に学校で、

「昨日何で遊べなかったの?約束したのに」

と言われたと、子どもはしょんぼりしていた。


子どもが外に出て遊ばなくなった

何度も友達との約束を反故にしているうちに、いつしか誘われなくなった。

子どもは外に出なくなり、放課後は家に引きこもるように・・・。

家に居たって虐待する父親が居るから地獄だ。

でも、外に行きたくても邪魔されてしまうから行けない。

こういうことを考えるたびに、結局夫は何をしたかったんだろうと思う。

その後も時々は誘われることがあったようだが、いつも自分から断っていた。

「どうせダメって言うもん」

とすっかり諦めてしまった子ども。

そう言いつつも表情は寂しそうだった。

家の外から楽しく遊んでいる声が聞こえてくるのもストレスになったようだ。

本当は遊びたいのに遊べない。

段々と塞ぎこむようになった。

なぜ自分だけがこんな目にあわなければならないのか。

きっとそう思ったに違いない。

「ママがおうちに居てくれたら遊びに行けるのに」

と言われたこともあったが、それは不可能だった。

私が働かなければ一家で無職になってしまう。

そういう時こそ義両親に活躍して欲しいのに、肝心な時に夫の言いなりだった。

これが目の前で起きている時でも意見することもなく、子どもの気持ちをくんで動くことも無い。

私が夫と話すのを見ても、よく分からない反応を示した。

『話し合うのは良いことだ』

『どちらの意見にも良い点、悪い点がある』

・・・いやいや、そういう話ではない。

こんな感じで全くあてにならなかったので、一人で闘った。

でも、私の言うことなんて聞き入れてはもらえなかった。

そういうのを見て、きっと失望したんだろうな。

元気がなくなっていった子どもに対し、夫は『勉強さえすれば上手くいく』と勉強させた。

『勉強しない奴はろくな大人にならない』と言うのが夫の持論。

まるでその他のことは疎かにしても良いような物言いだった。

義両親もそれに同調していた。

次第に孤立していった子ども。

学校の話もしなくなり、心配でよく先生に相談した。

相談しても良い解決法など浮かばないのだけれど相談せずに居られなかった。

きっと寂しかったと思う。

あの頃、子どもに何もしてあげられなかったことを今も悔やんでいる。

2025年3月24日月曜日

賃貸契約の重み・・・義両親の反対と夫の無関心

なぜ義両親は反対したのか

せっかく良さそうな物件が見つかったのに義両親からは反対された。

これまであげた条件はクリアしていたし、治安も問題無かった。

それなのに、何やかやと理由をつけてもう少し考えるように促された。

そう言われても期限というものがある。

それ以上の物件が出てくる気もしなかったので私は説得を試みた。

悠長に構えていたらそれこそリミットを迎えて行く所が無くなってしまう。

義実家での同居のことも脳裏をかすめ、内心焦っていた。

確かに100%合致している物件ではない。

でも許容範囲であることは確かだったし、予算にもギリギリ収まっていた。

これ以上何を求めるというのか・・・。

あまりにも頑固に反対してくるので途中から話をすることも億劫になった。

でも、何度か不動産屋巡りに付き合ってくれた義両親の意見を無視することもできなかった。

どうしたら良いのだろうか。

考えるのは、毎日毎日家のことばかり。

仕事にも集中できないくらい気になっていたが、義両親が折れる気配は無かった。

こんなことをしているうちに他の人が決めてしまうかもしれない。

そんな不安も日に日に大きくなり、焦れば焦るほど空回りした。

それで、会社帰りに不動産屋さんに立ち寄って事情を説明した。

私は契約をしたいのだけれど、家族から反対されていると。

その時に担当営業さんに言われたのが、

「旦那さんは何ておっしゃってるんですか?」

だった。

そう言えば夫自身は意見をほとんど言っていなかった。

その代わりに義両親のことを立ててあげて欲しいというニュアンスのことばかり言っていた。

それってつまり、気に入っても義両親のOKが出なければ契約できないということ?

客観的に見ても、非常に面倒な状況になっていたことは否めない。

それにも関わらず担当営業さんは色々と相談に乗ってくれた。

話しているうちに、私はふと思った。

契約をするのは私なんだから、このまま決めてしまっても良いのではないか、と。

一番最初に見せた時、夫はその部屋事体は気に入っていると言っていた。

そこに住む人が気に入っていると言うのなら、その気持ちを優先すべきでは。

そう考え、思い切って契約を進めることにした。

そうでもしなければ決められなかった。


部屋の契約を結ぶと報告

『見つけた部屋を契約する』と夫や義両親に告げた。

案の定、義両親は反対した。

そんな義両親を見た夫は

「もう少し話し合ってからにしろよ」

と私に再考を求めた。

そんなこと言ったって、話し合う意味なんて無いではないか。

きっといくら時間があってもOKを貰えることはない。

義両親はタイムリミットが来るのを待っていて、そのために反対しているのだと思った。

『これ以上待っていたら引っ越しの日が来てしまう』という言葉も通用しない。

だって、その方が好都合なんだから。

期限が迫ってきたらお義父さんは義実家への引っ越しを提案するに違いない。

その時に他の選択肢が無ければそうせざるを得ない。

私は何としてでも見つけてきた部屋を契約したかった。

それで、もう不動産屋さんとは話がついていると説明した。

これに怒った義両親はしばらく顔を見せなくなった。

ほとぼりが冷めたらまたせっせとやって来ていたが・・・。

夫は義両親を怒らせた私を許せず、当時は針の筵だった。

それでも、義実家に引っ越すよりはマシだと思ったので頑張れた。

ここを乗り切ることができればあとは上手く行く。

そう思って契約に臨んだ。

それにしても、自分の名義で部屋を借りるというのはとても緊張するものだ。

これまでに自分の名義で契約したのは一人暮らしの時の一度きり。

あの時とは状況が違う。

家族のことまで背負っているのだ。

両肩にずっしりと責任がのしかかっているような気がして、ちょっとだけ心が重くなった。

夫がそういう気持ちを理解してくれる人だったら良かったのだけれど。

私の不安な気持ちには全く興味が無いようだった。

肝心なところで無関心だった夫。

何かあっても寄り添ってくれることもない。

そんな人に対して日々気遣う自分がばからしく思えた。

2025年3月23日日曜日

ようやく引っ越し先が見つかったけど契約者が私に・・・

働いてた頃も夫はモラハラだった

当時住んでいた部屋を契約した時には夫はまだ働いていた。

専門職としてそれなりに忙しくしていて、当然収入もあった。

子どもを保育園に預けて二人とも仕事に行くという生活。

送り迎えは基本的に毎日私の仕事だった。

だけど、夫はその分仕事の拘束時間が長かったので不満は無かった。

今考えると、あの頃はまだお互い協力し合いながら生活できていたように思う。

それが段々とおかしくなったのは子どもが間もなく2歳になる頃だった。

日々の生活の中で怒られることが増えて細かいことにうるさくなった。

付き合っている時も色々と厳しかったんだけど怒り方のレベルが違っていた。

もしかしたら、ずっと我慢していたのかもしれない。

本当の自分を隠して生活していたけれど、徐々に地を出し始めたのではないだろうか。

それが何故そのタイミングだったのかは今も分からない。

もう私に逃げられることは無いと思ったのかもしれないし、隠しきれなくなったのかもしれない。

ただ一つ言えるのは、モラハラをしている時の夫が本当の姿だったということだ。

なぜそう思ったのかと言うと、義両親の前で暴れた時に

「まだそんなことやってるのか」

と言ったからだ。

後でお義母さんに詳しく聞いたら、急に怒って口をきかなくなったり家具を壊すことがあったそうだ。

「相手が誰であっても自分の意見を押し通すのよ」

と何故か誇らしげに言っていた。

その口ぶりは、まるで『誰にも忖度しない正義感の強い人』という感じだった。

私はその言葉に強烈な違和感をおぼえた。

どう考えてもただ単に自分の思い通りにしたくて暴れていただけなのに。

お義母さんにとっては『正しいことをした』という感じになっていることに驚いた。

そんな人だから、無職になっても家族を大事にしようなどという姿勢もなく・・・。

ひたすら虐げられてコントロールされた。


「大家からの退去願い」のその後

子どもが小さい頃は夫が契約した部屋に住んでいた。

でも突然、大家さんから退去願いの手紙が届いた。

期限も書いてあって、悠長に探している余裕もなく・・・。

慌てて探し始めたのだが予算的にそれほど多くは出せないのでかなり難航した。

希望のエリアではなかなか見つからなくて、エリアを広げることまで考えた。

そうすると治安の問題も出てくる。

子どもがいると、大人だけの時と違ってそういう面にもとても気を遣う。

保育園の頃は常に保護者と一緒だからまだ良い。

でも、学校に上がったらそういう訳にはいかない。

いつも一緒に居るわけじゃないから、やっぱり治安の良くない所は怖いな、と思った。

そんな風に子ども中心に考えてエリアを絞っていった。

ちょうど住んでいた地域はけっこう安心できる場所だったので、そこを中心に探すことに。

近隣の不動産屋を巡り、条件を少しだけ変えたりしながら探し続けた。

リミットが迫る中、焦って毎週のように不動産屋巡りをしていたあの頃。

夫はいつも文句ばかり言っていた。

自分は一切探さないくせに口だけ出してくるのだから嫌になる。

「こんなのどうかな?」

と聞いても、この部屋は気が滅入るとか前よりも狭いねとか。

そして二言目には、

「うちの実家に行けば楽に暮らせるのに。お前の我が儘で探してるんだからな」

と言った。

このまま決まらなければ本当に義実家に連れていかれてしまう。

そんな焦りもあって、より部屋探しに力を入れるようになった。

その甲斐あって期限ぎりぎりに何とか見つけることができたのだが、問題は契約のことだった。

引っ越しをする頃には夫は既に無職になっていた。

そうすると必然的に私が契約をしなければならない。

当時はあまり深く考えなかったが、これは結構面倒な問題をはらんでいた。

自分の契約した部屋がネックになり、離婚時の夫との交渉が難しくなってしまったのだ。

事の重大さに気づいたのは、家を出て離婚を要求する時だった。

2025年3月22日土曜日

日常が戻り、モラハラ再開

夫は変わらない、何があっても・・・

私たちがたった一日でも居なくなったことで何かが変わるのではないかと期待したが、結局何も変わらなかった。

夫はそれまで通り横柄に振舞っていたし、子どもは怯えていた。

私は普通に振舞うことが難しくて、そのたびにため息をつかれた。

だって、考えてしまうんだよ。

あのまま家に戻らずにいたらどれだけ自由に過ごせただろうか、とか。

子どもと二人なら笑って暮らせるのに、とか。

ありもしない世界を考えた。

だけど現実には目の前に夫が居て、いつも通り私たちの全てをコントロールしている。

それがどうしても受け入れられなくて、叫び出したい気持ちだった。

夫は私たちがあの日家に帰らなかったことを『裏切り』だと言った。

家族としてあり得ない裏切り行為だと。

でも、あの時『もう戻ってくるな』と言ったのは夫だ。

そう言われて家に入ることもできず、途方に暮れながら夜の街をさまよったのだ。

子どもも不安だったに違いない。

途中で私が泣いたり、泊まる所が見つからなくて夜遅くまでファミレスに居たりしたから。

疲れ果ててウトウトしている頃に姉が迎えに来てくれて、そのまま姉の家に連れて行ってくれた。

本当にありがたくて嬉しくて、『優しくされたのなんていつぶりだろう』と考えてしまった。

でも、夫からするとそれも気に入らなかったみたい。

姉夫婦が勝手に私たちを連れて帰ったと解釈した。

『そうじゃないよ。私からお願いしたんだよ』と言っても聞いてくれなかった。

こうなったらもう姉夫婦は夫の中で敵認定されてしまう。

それが嫌で直接会わせないようにしたのに・・・。

結局色んな理由をつけて私の周りから親しい人を排除したいのだな、と思った。


義両親が更に頻繁に来るようになった

あの一件依頼、義両親は更に頻繁に我が家に来るようになった。

せっせと通ってきては『何か困っていることはないか』と聞いてきた。

きっと息子夫婦の家庭が壊れるのではないかと心配したのだろう。

聞かれるたびに私は返事に困った。

決して大丈夫なんかじゃないけど、そんな風に言える訳がない。

多分、義両親はそれも分かっていて聞いていたのだと思う。

私からSOSが出ないことで安心していたのではないか、と。

右往左往する義両親を見るたびに、これって親不孝だよなーなんてことも考えた。

夫は既に30代のいい大人なのに未だに親に心配をかけている。

その上更に私が限界だと言ったら大きなショックを受けてしまうかもしれない。

余計なことまで考えてしまう私は、いつも義両親のメンタル面が気になって身動きが取れなくなった。

こうなると可哀そうなのは子どもだ。

不甲斐ない母親を持ち、父親は虐待することを愛情だと勘違いしている。

義両親の中ではもう一緒に住むことだけが解決策だと思い込んでいたようで、

「何か他に方法があるのなら言ってちょうだい!」

とも言われた。

自分たちが夫と私・子どもの間に立ってストッパーになると張り切っていたが。

普段の様子からして本当にストッパーになるのかという点で疑問が残った。

ある時、夫が近くの病院に行っている隙にお義母さんから聞かれたことがある。

「うちで皆で住む気にはなれないの?」

と。

その時お義父さんは夫に付き添っていたが、たぶん義両親の中ではそういう方向で進めようという話がついていたと思う。

いつもは夫の顔色をうかがってなかなか本音を言えないのだが、この時は居なかったので

「もう限界なんです。いつまで一緒に居られるか分からない状況で引っ越しなんて考えられません」

とハッキリ答えることができた。

私にとっては決死の意思表明だったわけだが、その言葉を聞いたお義母さんの顔色が変わった。

私なら何でも言うことを聞くと思っていたのに当てが外れたのかな。

だけど、あまりにも色んなことがあり過ぎて・・・。

もう夫との生活に何の希望も抱けず、1年後の未来も描けないところまで来ていた。

2025年3月21日金曜日

姉の連絡先が削除された

夫はやはり怒っていた

家出をしたことで、姉に現状を伝えることができた。

それが唯一の収穫だったかもしれない。

あの後、子どもと私は家に戻った。

姉夫婦に家の近くまで送ってもらった。

本当は一緒に中に入って話をしたいと言ってくれたのだが断ってしまった。

電話では泣き言を言ったりして弱気になっていたかもしれない。

でも、私たちが戻ると分かったらまた強気に出るのではないかと思った。

善意から話をしようとしてくれている姉たちに対しても何か失礼なことを言うだろう。

そうなったら、申し訳なくて顔向けできない。

一晩お世話になったのに、恩を仇で返すようなことはしたくなかった。

それで、私たちだけで大丈夫だと伝えた。

最後まで心配そうにしていた姉と旦那さん。

「落ち着いたら連絡してね」

という言葉をもらい、別れた。

家に入ると、夫と共にお義父さんも待っていた。

これは正直なところ想定内だった。

今回の件でお義父さんが黙っているはずがないだろうと予想していた。

だから、玄関のドアを開けて真っ先にお義父さんの姿を確認した時も驚かなかった。

「ただいま戻りました」

そう言いつつ靴を脱いでいると、まずは夫がごくごく普通の様子で

「おかえり」

と言った。

お義父さんには

「いやー大変だったんだよ。私も急にここに泊まることになっちゃって」

と言われ、暗に非難されているように感じた。

さあ、これからどうなるのか・・・。

戻った直後は夫もお義父さんも冷静な感じで、ひとまず安心した。

でも、怒っていないはずがないのでとにかく警戒した。

その一方で、夫が少しでも改心してくれていれば良いなと期待した。


姉の連絡先を消すように促され・・・

これまでの経験上、そのままで終わるはずがないというのは分っていた。

でも、また家出されるのを警戒するだろうから強い態度には出ないのではないかとも思った。

この考えが甘かったようだ。

上着を脱いで掛けようとしていたら、いきなり目の前に座るように促された。

何かを察知したお義父さんは子どもを連れてそそくさと外へ。

「おじいちゃんとお外に買い物に行こう」

と言い、こちらをチラッと見た後、

「夫婦なんだからお互い言いたいことを全部言った方が良い」

という言葉を残して出かけて行った。

そんなこと言っても、いつも話を聞かないのは夫の方だ。

私はいつも聞く側で、多くの不満を飲み込んできた。

そういう思いもあって納得できない気持ちで座ったのだが、そんな私を見た夫は

「不満があるなら言えよ!」

といきなりつっかかってきた。

こうなるんじゃないかな、とは思っていた。

でも、あまりにも早い豹変ぶりに何だかとても落胆した。

結局この人はどこまで行ってもモラハラを止められないんだ。

そう思ったら、家に戻ったことを早速後悔した。

だけど、とりあえず次の一手を繰り出すまでは何とか安全に暮らさなければ。

そう考えて、夫を落ち着かせるために謝った。

こういう時の夫はとてもしつこい。

謝っても謝ってもネチネチと色んなことを言ってくる。

それに対して謝っても、また新たな文句を言うという無限ループ。

とても面倒だし納得もできないが、とにかく下手に出るしかなかった。

いつもならその繰り返しで徐々に落ち着くはずが、この日は違った。

夫はどんどんヒートアップして、急に私に携帯を出すように言った。

戸惑っていると、

「俺だって不安なんだよ!一生懸命やってるのに急に出ていかれて!」

と叫んできて、

「少しは悪いことしたと思ってるのかよ!」

と詰め寄られた。

そして、とうとう携帯を取り上げられてしまった。

力づくで取り戻すこともできず、ただ茫然と夫のことを見ていたら、舌打ちしながら何やら操作していた。

携帯はすぐに戻されたが、

「何をしたの?」

と聞いても無言。

夫が席を立った時にこっそり確認したら、姉や実家の連絡先が消されていた。

実家の固定電話は暗記しているので問題ない。

でも、姉や両親の携帯までは覚えていないので途方に暮れた。

もう連絡できなくなっちゃったよ・・・。

『何かあったら絶対連絡してね』と言っていた姉の顔が浮かび、思わず涙がにじんだ。

2025年3月20日木曜日

姉に初めて打ち明けた夜

怒りに任せて子どもの傘を破壊した夫

家から追い出されて途方に暮れたあの日

夜の街を子どもと彷徨い、辿り着いた場所  の続き

何時間も姉と話した夜

電話を切ってから1時間くらいが経過した頃だっただろうか。

姉から『到着してすぐ傍に停車している』という連絡をもらった。

きっと物凄く急いだんだろうな、と思った。

本来ならもっと時間がかかるはずだ。

私たちの様子を気にかけてくれているのだと感じ、嬉しかった。

まだ自分たちにも味方が居る。

そう考えるだけで幸せで、夫の元に戻りたくないという気持ちがより強まった。

夫と一緒に居ると、まるで世間から取り残されたように感じるから。

誰にも頼れない、自分で何とかしなければとそればかり考えた。

迎えに来てくれた車に乗り、私たちは姉の家へと向かった。

着いた頃には既に日付が変わっていた。

「どうする?何か食べる?それともお風呂かな」

と聞かれて、シャワーだけ使わせてもらうことにした。

子どもは既に爆睡していたので、そのまま就寝。

道中、一度パチッと目を開けて姉と旦那さんを確認していた。

あれっ起きたのかな?と思ったら何やらモゴモゴ話しかけた後にまたすぐに寝てしまった。

シャワーを浴びた後、寝室として用意してくれた部屋に行くと姉が待っていた。

布団が二組敷かれていて、

「今日はとことん聞くよ」

と言い、私にも座るように促した。

いつも通りの感じだったけど表情は真剣で、何か考えているようでもあった。

私が本当のことを言わないのでは、と危惧したのかもしれない。

これまで肝心なことを言えずに、後になってから『実は~』と話すことがあった。

だけど、この時は全てを話した。

こんな話をして姉が引くのではないかと不安だったが、頷きながら最後まで聞いてくれた。

途中、涙ぐんで鼻をすすりなら

「(私)ちゃん、何で今まで言ってくれなかったの・・・」

と言われたが、

「こんな話誰にもできないよ」

と答えたら

「そりゃそうか」

と納得していた。

ただ、『両親にはまだ伝えないで欲しい』というお願いにはなかなか首を縦に振らなかった。

確かに私が姉の立場なら報告するべきだと諭すだろうけど、やはり心配を掛けたくなかった。

それで、時期が来たら自分で伝えると約束して、納得してもらった。


姉が様子を探るために夫に電話

翌日、姉がモラハラ夫に電話を掛けた。

それまでに直接電話したことなど数えるほどしかなかった。

これといた用事も無いのに『用事があって電話した』というのも使えない。

だから、単刀直入に今回のことを聞くつもりだと教えてくれた。

姉が携帯を手に持ち発信した瞬間、私は思わず息を止めた。

どうせここに居ることはバレるのに、気配を消さなければと思ってしまった。

そんな私を気にしつつ姉は話し始めたのだが、

「今回のこと、どう思ってるんですか?」

とか

「どういうつもりで、あんな酷い仕打ちを?」

という会話が聞こえた。

よく分からないが、姉が夫に詰め寄っていたらしい。

普段は私たちがやり込められる立場なので、逆に夫がやられていると思ったら何だか驚いてしまった。

あの強い夫が姉に叱咤されて言い訳しているというのが信じられなくて。

電話を切った後、姉が教えてくれた。

夫は泣いていて、

「自分のしてきたことは全て間違いだった」

「心から反省している。二人には帰ってきて欲しい」

「今からでも迎えに行きたいが、二人は許してくれるだろうか」

と言ったそうだ。

それに対して、

「本当に反省しているんですか?人がそんなに簡単に変われるとも思えないんですけど」

と言ったら、

「変わります。すぐに100%とは言えないけど精一杯努力します」

と答えたらしい。

私たちにキツく当たった理由は『仕事をしていないプレッシャーだった』とも話していたそうだ。

これが本当なのかどうかは分からない。

でも、帰ってきて欲しいと思っていることが分かり、少しホッとした。

そして私は、この時に大きな誤りを犯した。

大事な選択で正しい判断が出来なかったのだ。

冷静に見ることのできる今なら分かる。

爆発期で酷いことをされて心が傷ついているタイミングで優しい言葉をかけられたために、心が揺れ動いてしまったのだと。

それで、姉の反対を押し切って家に帰る選択をした。

2025年3月19日水曜日

夜の街を子どもと彷徨い、辿り着いた場所

怒りに任せて子どもの傘を破壊した夫

家から追い出されて途方に暮れたあの日  の続き

実家の両親には電話できなかった

どこにも行く当てはなかったが、とにかく歩いた。

少しでも歩いて、夫の居る場所から離れたかった。

途中で何度か後ろを振り返ったのは、ふいに怖くなったからだ。

夫が着いてきているのではないか、と。

でも、時計を見たら夫はもう寝る準備をしている頃だった。

実際の就寝は12時近くでも、1時間半以上前から寝る準備を始める。

あの夫が、わざわざいつものルーティンを崩してまで追いかけて来ることはないと思った。

所詮、私たちはその程度の扱いということだ。

普段ならそういう所に悲しくなったりするが、その時はかえって都合が良かった。

私たちは少しだけ安心し、歩く速度を落とした。

早く駅に着きたいような、着いてしまったらもう後戻りできないような・・・。

何だかとても複雑な心境だった。

そうこうしているうちに最寄りの駅に到着。

とりあえず駅の構内に入ったのだが、そこでもどうすべきか決めることができなかった。

地元の駅近くに宿泊できる所はない。

私一人ならファミレスでも良いが、まだ6歳の子どもが一緒なのだからそういうわけにもいかない。

普通ならそんな時間に連れまわすこと自体が非常識なんだけど。

その時は非常事態だったので申し訳なく思いながらも付き合わせてしまった。

早く休める場所を見つけなければ。

そう考えれば考えるほど焦り、ひしひしと自分の置かれた状況を実感した。

これまで夫の目が怖くてどんどん周りの人との関係を切っていった。

家族にさえほとんど連絡を取らなかった。

だから、頼る人が居なくて当然だ。

これも自分がしてきたことへの報いなのかな、と思ったら余計に悲しくなった。


電車に乗って大きな駅に

地元の駅に居ても打つ手が無いような気がした。

それで電車に乗って大きめの駅に移動した。

そこなら宿泊できるところもあるし、深夜でも空いているお店がある。

普段は人混みが苦手なのだが、その時は人が居ることでほっとした。

たくさんの人々に紛れていると、何となく迷いや不安が薄らいでいくような気がするから不思議だ。

駅前にはファミレスがあり、まだチラホラと人が座っているのが見えた。

まずは一休みしようかな?と思って入ったのだが、そこでお腹が空いていることに気づいた。

なーんだ。

こんな時でもお腹が空くなんて。

私、案外元気なんだ。

思っていたよりも逞しい自分にほっとして、子どももそんな私を見たら急に元気になった。

メニューを見ながら、あれも食べたいこれも食べたいと始まり、結局パンケーキやジュースを注文した。

本来はこんな時間に食べちゃダメなんだけど特別だよ。

そう言ったら、子どもは満面の笑みで

「とくべつだね!」

と嬉しそうに言った。

私たちにはこういう時間が無かった。

だから、夫から逃げてきているというのにふと幸せを感じてしまった。

食べ終えて少し休んでいたら、子どもはウトウトし始めた。

そりゃーそうだ。

疲れたよね。

私も横になりたかったけれど、まだ泊る場所を探せていなかった。

実は食べながら探してはいたのだが、どこも高くて・・・。

払えないわけではないのに躊躇してしまった。

だけど、ずっとそこに居るわけにもいかないし、と迷っていたら急に電話が鳴った。

夫かと思って身構えたら姉からだった。

こんな時間に?と驚きながら電話に出ると、心配そうな姉の声が聞こえてきた。

「良かった、出てくれて!ねぇ、今どこに居るの?」

唐突にそう聞かれても、何て説明したら良いのかが分からない。

それで言葉に詰まっていたら、

「さっき、うちの旦那が(私)ちゃんのこと見かけたって言うからさ」

と言われ、

「何かあったの?うちに来る?」

と言ってくれた。

気づかないうちに見られていたのか。

こんな偶然があるんだな、と驚きつつも即答できなかった。

夜遅くにお邪魔するなんて迷惑過ぎるし、姉だって家族の手前気を使うだろう。

そういうのを表に出さない人だから、余計に申し訳ないと思った。

でも姉は、

「今から旦那と一緒に迎えに行くから。場所教えて」

と言ってくれて、結局姉の家に行くことになった。

2025年3月18日火曜日

家から追い出されて途方に暮れたあの日

怒りに任せて子どもの傘を破壊した夫 の続き

暗闇が心細かった

戸惑っている間にも、容赦なく家のドアは閉められた。

どうしよう・・・。

ここで待っていれば開けてもらえるという保証もない。

だけど、どこかに行ってしまったら怒られるような気もする。

どうするのが正解なのかが分からず、しばらくその場に立ちすくんだ。

子どもはドアを見つめて、ただ呆然としていた。

最初の数分は何も考えられずじっとドアの前に立っていたのだが、そこで重大な問題に気づいた。

いきなり追い出されてしまったので、財布もPASMOも持っていなかったのだ。

それに、まだ肌寒い時期なのに上着も羽織っていなかった。

どちらにせよ、このままでは何もできない。

そう思って一度家の中に入ることにした。

と言っても、鍵を閉められていたらそれで終わりだ。

だからまずは家の中に入れるかどうかでかなり神経をすり減らした。

鍵がかかっていないとしても、いきなり開けるわけにもいかない。

それで、ドアの前で聞き耳を立てて夫がそこに居ないかを確認しようとした。

だけど、やっぱり音は聞こえてこない。

仕方がないので気配で感じ取ろうとしたが、よく分からなかった。

それでもう開けてみるしかないと思って、恐る恐るドアを握りしめた。

なるべく音を立てないように、ゆっくりゆっくり。

そっと引っ張ってみた。

そうしたら、ガチャリと鈍い音を立ててドアが開き、目の前に仁王立ちの夫が立っていた。

ゴクンとつばを飲み込み、思わず後ずさりした。

まさかまだ玄関に立っているとは思わなかった。

予想外のことだったので驚いてしまい、色々と考えていたことが一気に吹っ飛んでしまった。

怯える私たちを冷たい目で見つつ、

「なに?!」

と夫は詰め寄った。

この人は私たちのことが心底目障りなんだと思った。

もしかしたらそのまま家に入れるかもしれない、なんて淡い期待を抱いた私が馬鹿だった。

とにかく上着だけでも持ち出さなければと、

「肌寒いから上着がないと風邪を引いちゃうと思って」

と言いながらそそくさと家の中に入った。

それさえも許せなかったのか、夫は私の肩を掴んで、

「おい!勝手なことしてんじゃねーぞ!」

と言ってきたが、私はすばやく二人分の上着とショルダーバッグを持ち出した。

玄関の方に向かっている間も、夫はずっと文句を言っていた。

でも、私は反応しないようにして急いで靴をはいた。

子どもはずっと玄関で待っていて、その手を握りしめて行こうとした時に、

「もう戻ってくるなよ」

という捨て台詞が背後から聞こえた。


夜道に子どもと二人。どこに行こうか

「ママ、大丈夫だった?」

夫に肩を掴まれた私を、子どもは心配したようだった。

確かに結構な力で掴まれたのだが、それよりもあの場から逃げられたことにホッとした。

とにかく必死で、ただ逃げることだけを考えた。

夫が今頃どんな思いで居るだろうとか、なぜあんなに怒ったのか、とか。

考えても答えの出ないことばかりが頭の中にぐるぐると浮かんだ。

夜の道というのはどこか心細くて不安になる。

この時の私たちは、追い出されてしまったという状況も相まって非常に不安な気持ちになっていた。

時々すれ違う人たちも居たけれど、みんな家路を急いでいるようだった。

それを見て、私たちとは正反対だなーなんて思った。

帰りたいと思う家があるだけで幸せなんだ。

もう戻ってくるなと言われたのだから、家に帰ることはできない。

だけど、行くところもなくて。

今晩どうするのかさえ決められなかった。

私が泣きそうになっていると、子どもが私のポケットから携帯を取り出して

「ママ、お電話しよう。おじいちゃんにたすけてって言おうよ」

と言った。

私は困って『う~ん』と唸り、

「言えないんだよ。言ったら心配しちゃうから」

と言おうとしたのだが、言い終わらないうちに涙が出てきてしまった。

止めようとしてもどんどん溢れてきて言葉にならなかった。

そうしたら、

「ママ、大丈夫だよ」

と子どもが小さな手で私の背中をポンポンと優しく叩いた。

それって、いつもおばあちゃんがやってくれるやつだね。

思わずその小さな手を握り返したら、いつの間にか子どもも泣いていた。

2025年3月17日月曜日

怒りに任せて子どもの傘を破壊した夫

玄関に放置されていたのは壊れた子どもの傘だった

仕事から帰り、玄関のドアを開けると子どもの傘が放置されていた。

「こんなところに置きっ放しでしょうがないな~」

と持ち上げたのだが、何か違和感があった。

その違和感の正体はすぐに分かった。

一見すると何の問題もないように見えるのだが、骨の部分が曲がっていた。

もう差すことができない状態だった。

驚いて傘を握りしめていたら、夫がこちらをチラチラ見ていることに気づいた。

それでピンときた。

いつものように怒った夫が子どもの傘を破壊したのだ。

その日は雨が降っていて、朝学校に向かう時に傘を差していた。

家に着いてから何があったのかは分からない。

ただ、酷く怒られたであろう子どもはションボリしていた。

「何があったの・・・」

そう言うのがやっとだった。

聞こえているはずなのに、夫は私の問いかけを無視した。

都合の悪い時にはいつも無視をする。

そういうところが本当に卑怯だなと思っていた。

何かというと子どもに対して怒り狂っているけど、どうせ大したことではない。

夫が気に入らないというだけで暴力をふるった。

ただ、それだけ。

どんなに上手く立ち回ろうとしても、結局は夫の機嫌次第なんだから不可能なのに。

ついこの間まで保育園児だった子どもにも、夫は完璧な対応を求めた。

全てが理想通りにいくわけではないのに、何か一つでも思い通りにならなければキレた。

その日も酷く怒ったようだった。

可哀そうに。

私が帰ってくるまで狭い我が家に夫と二人。

どんな気持ちで過ごしていたのだろうかと想像したら涙が出てきた。


子どもと選んだ思い出の傘

その傘は、少し前に子どもと出かけた時に二人で選んだものだった。

外出を許されたのが久々だったので、本当に楽しくて幸せな時間を過ごした。

そんな思い出も一緒に壊されてしまったような気がして悲しかった。

ただ、悲しんでばかりもいられない。

怒りの矛先を子どもから変えなければ。

あるいは怒りが収まるような方法を考えなければ。

放っておいても自分で機嫌を直してくれる人ではない。

常に私たちが怒らせるから悪いというスタンスなので、機嫌を取るのも当然私たちの仕事だった。

ここは機嫌を直してもらうのが先だと考え、何とか雰囲気を変えようと奮闘した。

最初は返事もしなかった夫だが、次第に反応するようになった。

その間、ご飯を作りながら翌日の子どもの準備も手伝い、お風呂洗いもした。

努力の甲斐あって途中までは順調だったんだけど・・・。

その日、ショックを受けていたであろう子どもが私の後をついて回っていた。

それが気に入らなかったらしく、

「ママの邪魔してんじゃねーよ!」

といきなり怒鳴った。

その瞬間、子どもの体がビクンとなって私の服の端をギュッと握りしめた。

なんでいつも怒鳴るのだろうか。

怒鳴らなくたって聞こえる距離なのに。

この言葉にはさすがに沸々と怒りが沸いた。

それを表に出さないように必死だった。

きっとこの人は私たちを脅すためにわざわざ大声を張り上げているんだ。

怯えさせて従わせることで満足しているんだよね。

だけど、これはやっぱり許せない・・・。

本当は夫の機嫌を取り続けなければならなかったのに、とうとう黙って居られなくて

「もう止めてよ!何でこんな酷いことばっかりするの?」

と言ってしまった。

そうしたら夫が怒りで顔を真っ赤にしながら立ち上がり、こちらに向かってきた。

私は思わず身構えた。

一瞬最悪の事態を想像したのだが、目の前まで来た夫は手でシッシッと払うような仕草をした。

そして、

「もうお前ら出て行けよ」

と言った。

2025年3月16日日曜日

モラハラの証拠が欲しい

離婚を有利に進めるために

口の達者な夫との話し合いは非常に難しかった。

こちらが正論を言っても上手く交わされて、いつの間にか夫のペースに乗せられてしまう。

対等に話し合うためには何か証拠が欲しいと思った。

証拠さえあれば夫も耳を傾けないわけにはいかないだろうから。

一番良いのは普段の虐待やモラハラを記録すること。

例えば私が居ない間に子どもを怒鳴ったり叩いたりするところを撮れればこれ以上の証拠はないはずだと思った。

私へのモラハラも、記録できるタイミングはたくさんあった。

これらは家の中で行われることなので、外で誰かに気づいてもらうというのは非常に難しかった。

表面上はごく普通の家庭に見えていたのだろう。

周りからは平和に暮らしていると思われていた。

唯一気づいていたのが義両親だったが、こちらも全く期待できなかった。

息子可愛さに『悪気はないと思うんだよ』と繰り返した。

そうすると、他に気づいている人も居ないので私たちは孤立無援の状態になってしまう。

そんな環境だから夫だって暴走してしまったのかもしれない。

とにかく家庭内で行われていることを記録しなければ。

そう思って、夜な夜な小型カメラを検索した。

今は子どもやペットの見守りのためのカメラが色々と用意されている。

高性能なものも多数あり、普通に使う分には選り取り見取りだ。

ただ、ここで問題になるのが夫に気づかれてしまうのではということだった。

掃除もしない人だから隅っこの方に置いておけば気づかないかもしれない。

でも、万が一気づかれてしまったらきっと問い詰められるだろう。

何のために置いたのか。

何か企んでいるのではないか、と。

非常に小型のカメラもあったので、安全に事を運ぶならそちらの方が良いと思った。

ただ、超小型のものは高い、高すぎる・・・。

予算との兼ね合いもあってすぐには決められず、数か月の間毎晩カメラを検索した。


テレビで偶然、監視カメラを使った事件が放送されて・・・

ある日、家族でテレビを見ていた時のこと。

監視カメラを使った事件の再現ドラマが放送された。

私はドキンとして、思わず息をのんだ。

毎日毎日カメラの検索をしていたので、頭の中はそのことでいっぱいだった。

だから、反応してはいけないのに一瞬焦って夫の方をうかがった。

大丈夫。

気付いているはずがないんだから。

そう思いたいのに、安心できない気がして夫の言葉を待った。

こういうテレビを見ている時、夫はいつも黙っていない。

簡単な感想であることが多いんだけど何か言うはずだと思った。

それほど興味が無かったら反応も薄くなり、適当な感じの言葉になるはず。

そう期待したのだが、夫は私の予想を裏切り、かなり怒った口調で

「最低だよな!こっそりカメラをつけて見張ってるなんて!犯罪だよ!」

と言った。

私にも同意を求めてきたのだが、上手く答えられていたか分からない。

もうこの人は全て気づいているのではないか。

私の計画を知っていて、わざとこういう発言をしているのではないかと不安になった。

それでも平静を装い続けたけど、もう心臓はバクンバクンと鳴っていて内心とても慌てた。

何だか全てを見透かされているような気がする・・・。

そんな状態でカメラを購入して設置する度胸も無く、この計画は実行せずに終わった。

本当は、送り先を会社にして受け取って・・・という感じで綿密な計画を立てていたのだが。

やはり恐怖の方が勝ってしまい、できなかった。

2025年3月15日土曜日

とうとう家を出ることを決意

できない理由を探していた日々に別れを告げた

私たちはずっと我慢してきた。

子どものことが大事だと言いながらも、なかなか決断できなかった。

夫はそんな様子を見て高をくくっていたんだと思う。

どうせ妻は何もできない。

自分で決断することもできないんだから、このままの生活が続くはず。

そう思っていたから強気に出たんだと思う。

確かに私は決断するのが苦手で、いつも夫の答えを待っていた。

最初からそうだったわけではない。

結婚生活の中でいつの間にかそういう風になってしまった。

決めてもらうのは楽だったけど、そこには自由も無くて。

全て夫の言う通りにしなければならない生活は私から気力を奪っていった。

苦しくても苦しいと言えず、辛くても笑顔でいるように強要される毎日。

嘘ばっかりで本当のことなんて一つも無かったのに。

独りぼっちになるだろう夫を見捨てることができなかった。

だけど、このままではダメになるという危機感も常に持っていて状況が変わることを切望した。

少しずつでも変わればきっと未来は良くなるはずだ。

そう思っていたのに、子どもが小学生なっても良い変化は見られず虐待はエスカレートした。

二年生になり焦りは増すばかり。

身動きの取れない状態が続いた。

この地獄が永遠に続くのではないかと心もささくれ立っていた頃だ。

重苦しい閉塞感を打ち破るようなことが起きたのは三年生になってからだった。

予想もしない形で事態は大きく動いた。

やっと私たちに巡ってきたチャンスだった。


家を出るための資金を貯めた

いつチャンスが巡ってくるか分からないからと、少しずつお金を貯めた。

夫にバレないように新しい通帳も作り、会社で保管した。

実はその前にも用意していたのだが、夫に見つかって没収されてしまった。

その時の夫は本当に恐ろしかった。

もう終わりかもしれないと本気で思った。

決して同じ間違いを繰り返してはいけない。

今度は絶対に夫の手の届かない場所に保管しようと会社を選んだ。

この話をすると、知人などに

「ご両親とかお姉さんに借りたら良かったんじゃないの?」

と言われることもある。

でもそれは不可能だった。

夫を怒らせたら何をするか分からない。

家族や親せきを危険な目に遭わせてしまうかもしれない。

そうなったら、それこそ後悔するだろうと思った。

逆恨みされて危害を加えられるという想像は、決して【考えすぎ】などではない。

夫のことをよく知る人たちなら、それが現実に起こり得ることを想像できるはずだ。

それ以外にも理由があって、夫から連絡が来た時に上手く対応できないのではと考えた。

居場所を隠し通すことができないかもしれないし、誘導尋問に引っかかる可能性もある。

もし隠していたことがバレれば、その怒りの矛先は家族にも向くだろう。

そうなったら、よくテレビで見るような事件に発展することだって考えられる。

だから、周りには知られずに実行する必要があった。

姉は意外と強心臓なんだけど、嘘が下手だからやっぱり無理だと思った。

そんなことを考えたら、結局誰にも言えなかった。

安全に事を運ぶために私はこっそり準備を始め、会社にも手回しをすることにした。

2025年3月14日金曜日

「心を入れ替えた」と言ってくる元夫

モラハラの自覚も無かったくせに

元夫はいつも自分が正しいと思っていた。

自分は尊敬されるべき存在で他の人から一目置かれていると信じて疑わなかった。

ただ、これは本人談であって周りからの評ではない。

確かに友人内では結構人気があって、相談なんかもされているのを見聞きしたことがある。

その時の感想は、正直なところ『えっ、こんな人に相談するの?』という感じだったのだが・・・。

当の本人は物凄くご満悦だった。

『仲間内からも慕われる俺って凄い』みたいな感じで。

こんな調子なので、夫が自分を顧みるタイミングは無かった。

あったとしたら、私たちが家を出た時だと思う。

その時に初めて自分の言動を顧みて、

「俺にも悪いところがあったかもしれない」

と言ってきた。

これは大変な進歩だと感じた。

それまでなら、何が起きても絶対に自分の非を認めなかった。

だけど、家を出た妻や子どもを呼び戻すために『自分が悪い』と初めて口にした。

この発言には感動すら覚えたが、よくよく考えたら本心かも分からないのに喜んでいる場合ではないことにすぐに気づいた。

私たちが居無くなったばかりの頃は、

「いつ帰ってきてくれるの?」

とたびたび聞かれた。

あんな仕打ちをしていたくせに帰ってきて欲しかったのか・・・と驚いた。

私たちはもう戻らない覚悟で家を出たのだから変に期待を持たせてもいけない。

「もう戻るつもりはないんだよ」

と正直に答えると、しばしの沈黙の後に、

「騙された!」

と騒ぎ始めた。

何を騙されたのかと言うと、家出がバレた直後に私が

「もう少しだけ時間をください」

と発言したことだった。

少しだけ待てば帰ってくると思っていたのに。

それを信じて待っていたのに。

騙されて心を傷つけられたと夫は騒ぎ立てた。

それに便乗してきた義両親(特にお義父さん)から、一度家に帰るように促された。


離婚した後もやっぱり戻れると信じている夫

連れ戻されそうになったが、必死で抵抗した。

そもそも居場所を伝えて居なかったので、迎えに来られることは無かったのだが・・・。

それまでの支配による恐怖から、夫が私たちを探し当てて迎えに来るのではと怯えた。

親にも居場所を知らせず、ただひたすらじっと耐えた時間。

その間、子どもはいつもと違う環境で伸び伸び過ごしていた。

私はと言うと、解放感を感じつつも自由って怖いななどと考えていた。

これまで長い間自由を満喫できなかった。

だけど急に全て自分で決められるようになったら決断するのが難しくなっていた。

そんな状態が長く続いていたら、きっと夫の同情心を引き出すような交渉に負けていただろう。

本位でなくても家に戻ることを選択し、また期待したに違いない。

夫は変わってくれる。

今度こそ良い家族になれる、と。

でも、そうならなかった。

結局家に戻ることはなく、離婚の話し合いを行うことになった。

元夫は今でも家族としてやり直せると信じている。

事あるごとに

「俺はもう心を入れ替えたんだよ。前とは違う」

と言ってくる。

だけど、そんな言葉を誰が信じられるというのだろうか。

何度も何度も騙された私たちには、懇願するような夫の言葉ももう響かない。

今はただ、虚しさを感じるだけだ。

2025年3月13日木曜日

月のものが来ない - 焦りと絶望

不本意な行為による妊娠への不安

今日はちょっと真面目なお話になるのかな。

これはモラハラ夫との生活に疲れ、もう離れたいと考え始めていた頃のお話だ。

夫婦生活だってもちろん拒絶したかったけど、逆らうことができなかった。

夫の方はと言うと、これまでと全く変わらない様子だった。

私が嫌がっていることに気づいているのかいないのかも分からず。

とにかく自分の欲求だけ満たせれば良いという感じで飄々としていた。

その一方で私は夫から誘われないようにと常に警戒していた。

最初は機嫌の良い日がソノ日だったんだけど・・・。

段々と機嫌の良い日も悪い日も誘われるようになった。

そうすると、いったいいつがタイミングなのか予測できない。

それで一緒に居る間中警戒するようになり、できるだけ距離を取ろうとした。

ただ、狭い我が家の中で避け続けることも難しい。

時々は嫌々応じなければならないこともあり、心が死んでいくような感覚だった。

気持ち悪くて気持ち悪くて。

ただ心を空っぽにしてじっと耐えるだけ。

そんな日々を送っていたある日、月のものが遅れていることに気づいた。

普段はきっちり来る方だったので気にはなった。

でも、最初の頃は『まあこんなこともあるかな』という感じだった。

でも、一週間が過ぎてもまだ来ない。

あれ?おかしいな。

段々と不安になり始めた。

二週間が過ぎる頃にはかなり焦っていて、毎日そのことばかり考えていた。

ちょっとお腹が痛くなったら『もうすぐくる』と思うのだが、やっぱり来ない。

そうこうしているうちに三週間が経過した。


嫌な想像が頭を離れず絶望

『断ると怖いから』などと言っていないではっきりと拒絶すれば良かった。

もし本当に二人目ができていたらどうしよう・・・。

私は不安になり、仕事中もずっとモヤモヤした気持ちで過ごした。

こうなったら調べるしかない。

そう思うのだが、怖くて勇気も出ない。

悶々と過ごす時間もまるで地獄のようで途方に暮れた。

家に帰ってからも頭の中はそのことでいっぱい。

きっと夫への対応も雑になっていたと思う。

そうしたら、

「なんか最近冷たいよね」

と言ってきて、そんな状況じゃないのににじり寄ってきた。

「ちょっと具合が悪くて。悪いけど」

と断ったのだが、いつも通り圧をかけてきた。

今回のことも私の弱さが招いたことだ。

だから怖くても断らなければ。

そう思って、

「もう薬を飲んで寝るから」

と伝えて早々に横になってしまった。

いつもなら猛烈に怒るところだ。

でも、この時の夫は何も言わずに大人しく横になった。

ただ、翌日から子どもに対してとても厳しくなり、『お前のせいだぞ』と言われているような気がした。

こんなことはもう、お終いにしよう。

段々とそう思えるようになり、ちょっと精神的に落ち着いてきた頃に月のものが再開した。

もし子どもができてしまったら今後の自分を縛り付ける。

そんな風にしか考えられなかった私のところに来てしまったら、それこそ不幸にしてしまうところだった。

だから、本当に良かったと安堵した。

あの頃の私は今いる子どもを守るだけで精一杯で、それ以外のことを考える余裕が無かった。

2025年3月12日水曜日

私の仕事をバカにする無職の夫

一生懸命働いても認められない

夫は常々私を見下していた。

仕事に関してもそう。

別に夫に認めて欲しかった訳ではない。

生活するためには働かなければならないんだし。

自分たちが生きていく分の最低限の収入を確保するのは当然だと思っていた。

だからいつも必死で気にする余裕も無かったんだけど。

そんな私を見て夫はいつも

「誰にでもできる仕事なのに楽しいの?」

と言った。

本来ならここは怒るべきところなんだろうな、と思う。

でも私は『まあ、うちの夫なら言うだろうな』と考えていた。

専門職から一般職に移った時も、

「あ~あ、誰にでもできる仕事じゃ潰しがきかないのに」

とか、

「これでお前の価値が更に下がったな」

という感じだった。

直接的な言葉は使わないのだが、間接的に嫌味を言っていた。

今考えると専門職で続けていた方が良かったのかもしれないと思うこともある。

だけど、当時は仕方が無かった。

夫はまだ働いていてワンオペだったし、何かあっても全く頼れなかった。

ただ、辞めた後も結局ワンオペに変わりは無かったので、夫のことは関係なかったということになる。

そんな状況なのに、自分の気が向いた時だけお迎えに行ったりして・・・。

私が行ける時でも一緒について来ることもあり。

これまた非常に迷惑だった。

誰にでもできる仕事と言うけれど『絶対に辞めてはいけない』というプレッシャーがある。

夫はそのプレッシャーに耐えられないと言った。

自分は耐えられないのに私には耐えろと言うんだから、都合の良い話だ。


仕事探しにも様々な要求を突き付けられた

一度職を失った時、夫は私に様々な要求を突き付けた。

それは次の仕事の条件に関してだったのだが・・・。

夫の挙げる条件をクリアしていなければならないと言われても、実際にはとても厳しかった。

例えば収入は今まで以上に上がることが大前提。

家事も疎かにしないようにと念を押された。

更に福利厚生がしっかりしていて子育てにも寛容な会社が良い。

昇給もあって倒産するリスクが少ないところでないと安心できないと言われた。

挙げればキリがないのだが、私が応募をするたびに

「条件的にはクリアしてるのか」

と聞かれるのが憂鬱だった。

そんなに条件の良い会社だったらたくさんの人が集まってしまう。

その中から選んで欲しいなんて言えない。

夫は自分の安心のために私の応募先まで管理しようとしたが、私はそれを拒んだ。

いくつも応募したって返事が来るのはごく僅かだ。

だから、選り好みしていたらそれこそ無職期間が長引いてしまう。

そう説得して条件的に合わないところにもどんどん応募した。

そのたびにため息をついて、

「これからどうするんだか」

と嫌味を言った。

体が本調子ではないと言うから支えていこうと思っていたのに、嫌味を言う元気はある。

こんなことが続くと結構限界だった。

仕事をしていない夫にここまでコントロールされるなんて。

私の言うことなんてちっとも聞いてくれないし、子どもへの扱いも信じられないほどに酷かった。

こんな生活のどこに未練を感じていたのだろうか、と今なら思う。

この支配は転職後も続いた。

入ったばかりの頃は残ってでも覚えなければならないことがあるのに、それを許してもらえなかった。

定時後すぐに会社を出て電車に乗らなければならない。

乗る時には連絡を入れなければならない。

買い物は手早く済ませ、遅れそうな時には連絡を入れなければならない。

それらのルールは私を縛り付け、少しの自由も許されない生活は苦しかった。

2025年3月11日火曜日

胃痛で苦しむ私にイライラする夫

夕食時に異変は起きた

平日だったかな。

それとも休日のことだったのかな。

とにかくあまりにも痛みが強くて、その印象しか残っていない。

ある日、夕飯を食べていたら胃の辺りに強烈な痛みを感じた。

その前から少しおかしかったんだけど、そのうち治ると思って気にしていなかった。

でも、ご飯を食べ始めたらどんどん痛みが増していった。

しまいには脂汗まで出る始末。

呼吸をするのもしんどくなって、箸を置いた。

「ちょっとゴメン、胃の辺りが痛くて」

とことわり、うずくまった私。

夫はその時点でとてもイライラしていた。

そのイライラを感じ取ってしまい焦ったけど一向に良くならない。

それどころか痛みはどんどん増していき、何回か意識が飛びそうになった。

多分、その間に夫から何か言われたと思うのだが答えられなかった。

それで更に怒った夫が、

「飯食ってんだろーが!」

と訳の分からないキレ方をした。

せめて無視して勝手に食べてくれていたら良いのに。

その場に居るのもダメなのだろうか。

悲しくなったけど他に居る場所も無くて、うずくまったまま

「ごめん。もうちょっと待って」

と再度謝った。

我が家にはもう一つ部屋があるが、そこは夫がいつでも横になれるように布団を敷いたままだった。

子どもや私が使わせてもらうことはできないし、物を置くことも嫌がられた。

ただでさえ狭い我が家で実質的に使えるスペースは一部屋だけという状況。

だから、あの時も隣で横になるということができなかった。

残るはキッチンだが、キッチンは人一人が立つのがやっとのスペース。

うずくまる位ならできるだろうが。

それはそれで、夫が冷蔵庫に何か取りに来た時などに邪魔にされそうだった。


体調を崩すことも許されない

結局、その日はご飯を食べられなかった。

少し経ったら胃痛自体は良くなった。

でも、夕食に並んだものたちはほぼ完食されていたのでご飯しか食べる物が無かった。

まあ、あれだけの痛みがあったんだから食べない方が良いか・・・。

少しだけご飯を口に運び、お終いにしようとしたら夫から

「いつまでそうしているつもり?」

と言われ、ギロリと睨まれた。

それで慌てて立ち上がり、食器をシンクに運んだ。

鬱陶しいと思われていたことは間違いない。

調子が悪そうにしているのが目障りだったのだろう。

子どもが残りの食器を運んできてくれて、

「ママ、大丈夫?」

と夫に聞こえないくらいの声で聞いてきたが、それにも聞き耳を立てていた夫。

『大げさだ』と馬鹿にしたように言って、早くいつも通りに振舞うように要求してきた。

体調が悪くても休むこともできない。

辛そうにしているだけでイライラされる。

それが当たり前だったので、私はとても我慢強くなった。

それと同時に周りにSOSを出すことができなくなった。

胃痛は何度も私を苦しめたが、夫からの影響が大きかったようだ。

離れたら嘘のようにスーッと無くなり、それ以来一度も起きていない。

2025年3月10日月曜日

二人目の子どもを欲しがり始めた夫

恐怖!夜な夜なにじり寄る夫

子どもが寝た後、電気を消してテレビを見ていたら夫がにじり寄ってきた。

『嫌だなぁ』と思いつつも、あからさまに拒絶することもできなかった。

少しでも離れようと体を浮かせたら、夫が耳元で

「そろそろ二人目欲しいね」

と言った。

ゾワッと全身の毛が逆立つような感覚。

あの恐怖を表すとしたら、そんな言葉になるだろうか。

その頃にはもう、うっすらと離婚を考え始めていたから余計に驚いた。

今後を不安に思っているのは私だけなんだな・・・。

夫が『二人目が欲しい』と言い始めたら、それは絶対だ。

私の気持ちなんてどうでも良いのだろうし、興味も無かったと思う。

だけど、私の心情とはあまりにもかけ離れた提案だったので、非常に驚いてしまった。

取り繕おうにも、気持ちが追いつかない。

それでドン引きしてしまい、反射的に体を反らした。

だが、そんなことはお構いなしに夫は既にその気になっていた。

耳元に息を吹きかけてきて、更ににじり寄る夫。

このままではまずい!

焦って、とりあえずこの場を逃げ切らなくちゃと思った。

だけど、夫の力が強くて抵抗することもままならなかった。

子どもが起きれば中断せざるを得ないだろうから大声を出そうか?とも考えた。

でも、何となく子どもを利用することに抵抗感があった。

「ダメだよ、今はダメ」

それだけ言うのが精いっぱい。

懸命に両手で夫の体を遠ざけようとしているのに、薄ら笑いを浮かべる夫。

嫌だと言っているのに笑うなんて。

本当に何を考えているのかが分からなくて不気味だった。

「とにかく無理!」

そう言いながら必死に抵抗し続けた。

結局その日は事なきを得た。

私の粘り勝ちだったが、あまりにも嫌がる私に夫は気分を害したようだ。

小さな声で嫌味を言い、ため息をつきながら離れて行った。

『あ~助かった・・・』という安堵と共にわき上がる不安。

これからのことを考えると暗澹たる気持ちになった。

夫は言い出したら諦めることはしないだろう。

うかうかしていたら本当に二人目を妊娠して身動きが取れなくなってしまう。

そうなる前に策を講じなければと思った。


周りから固め始めた夫

嫌がられていることは分かっていたのだと思う。

だけど、言いくるめれば何とかなると考えていたようだ。

義両親が来た時に

「うちもそろそろ二人目を考えてるんだ」

と言っていて、周りから固めようとしているんだなとピンときた。

二人は大喜びでテンションも爆上がり。

「それじゃあ、お前ももっとしっかりしないとな」

などと上機嫌になり、

「この部屋じゃ手狭になるな」

とわざわざ私に言ってきた。

いや、そういう問題じゃない。

まず、夫がコンスタントにきちんと働いてくれないと家計もままならない状態なんだよ。

だけど仕事のことを言うと夫が不機嫌になるから、ずっと言えなかった。

それを義両親も分かっていたはずなのに・・・。

どうせ何を言っても否定されるだろうと思って『今はまだそういうタイミングじゃない』とだけ繰り返した。

それで分かってもらえるような相手ではないんだけど。

そう言うしかなかった。

案の定、理解してもらえなくて

「そんなこと言ったら、いつが良いタイミングなの?」

と責められた。

仕事のことは、時々義両親から『負担をかけて悪いね』と言われていた。

でも、それってただのポーズだ。

その後ろには、『だけど許してやってね』という言葉がついて回る。

それに、口では気遣うようなことを言っていても、こういう時に夫の援護に回ってしまうから当てにならない。

私が渋っているのが分かると、お義父さんは

「私たちのことをもっと頼って良いんだよ」

と言った。

もう何から突っ込みを入れたら良いのか分からなかった。

そもそも夫は常に不機嫌で、私たちは顔色を伺いながら過ごしていた。

自分の意にそわないと私たちに罰を与えるから、いつも怖かった。

虐待をされている子どもは日々怯えていた。

義両親はそれを目の当たりにしても何もできなかった。

その状況でもなお子どもを欲しがるという神経が分からなくて。

この人たちは自分たちの欲求を満たすことしか考えてないんだな、と改めて思った。

それから私はピルを服用することを考え始めた。

緊急避妊薬のことなんかも調べ始め、何とか身を守ろうと必死だった。

2025年3月9日日曜日

我慢も限界に達し、離婚の相談を開始

モラハラにもずっと耐えてきたが・・・

何をされても耐えてきた。

来週までは頑張ろう。

明日までは頑張ろう。

そう自分に言い聞かせてきたが、もう限界だった。

だけど、気づいたら周りは誰も居なくて相談できる人ももちろん居なかった。

それで困って会社の同僚に話を聞いてもらうことにした。

ただし、この時は自分のことではなく友人の話としてなんだけど・・・。

こういう場合の友人の話って、十中八九自分の話だ(笑)。

だけど内容的に自分の事だとは言えなくて、『友人の話なんだけどね~』と言った。

同僚は親身になって聞いてくれた。

家でされていることとか子どもへの虐待とか。

今になって考えると当事者しか知り得ないのではないかと思う情報も出してしまった。

だから同僚は気づいていたかもしれない。

それでも気づかないフリをして相談に乗ってくれた。

途中、聞きながら涙ぐんだりして。

本当に良い人なんだなぁと思った。

話をして、やはり私たちの受けている仕打ちは普通じゃないということが分かった。

この頃の私はもう自分に自信が持てなくて。

私に悪い所があるから夫を怒らせるんだと思っていた。

でも、同僚は『違うよ。悪い所なんて無いんだよ』と言ってくれた。

この言葉を私は待っていたのかもしれない。

夫のモラハラや虐待に『どうして?』とばかり考えていたけれど。

きっと誰かにそう言ってもらいたかったんだ。

その言葉が嬉しくて涙が出そうになり、慌てて横を向いた。

「そうだよね~。何でそう思っちゃうんだろうね」

と合わせたつもりだが、全部分かっていたのかも。

あの時、同僚はこうも言ってくれた。

『離れることは見捨てることじゃないんだよ』と。

この言葉は、後に私を何度も助けてくれた。


ネットでも相談したが・・・

ほんの少し前向きになった私はネットでも相談することにした。

最後の後押しをして欲しいというか、この決断が間違いではないことを確信したかった。

だけど、この方法は明らかに失敗だった。

あんな風に攻撃されるなんて想像もしていなかった。

でも、今考えると仕方がないことなのかもしれないと思う。

だって、相手はネット上の知らない人たちなんだから。

いくら現状を事細かに伝えたところで共感など得られないのかもしれない。

あの日、同僚に話したのと同じような内容で現状を書き込んで返信を待った。

何か有益な情報なども得られれば良いなと思っていた。

すぐに返信が来たのだが、その内容は目を伏せたくなるようなものばかりだった。

もちろんエールを送ってくれるものもあったのだが。

厳しい意見というのは、たとえ少数であっても強く印象に残る。

私は心が凍るような思いでその書き込みを読んだ。

その人たちは、きっとそれが正しいと思って書きこんだに違いない。

だけど、元々追い込まれているところにあのような厳しい言葉はとても堪えた。

『旦那さんがそれほどまでにコントロールしたがるのは愛情が深いから』

『日頃から旦那さんを大切にしてあげてないのでは』

『あなたに原因があるのを隠してませんか?』

こんなメッセージたちが並んでいた。

一番ショックを受けたのは『旦那さんを大事にしていないご家庭では虐待が起こりやすい』という言葉だった。

まさか虐待が私のせいだなんて・・・。

そんな風に言われるとは想像もしておらず大きな衝撃を受けたのだが、その後のメッセージで私の心は完全に折れた。

『旦那さんと別れるのではなく、最後まで責任を持つべき』

やっぱり離れるのは無責任なのかな。

自分の決断に自信が持てなくなり、何が本当なのか分からなくなった。

混乱して一歩踏み出す勇気も失った。

そして、また我慢の日々を過ごすことになった。

2025年3月8日土曜日

耐えられなくなって母に電話した日

モラハラに耐える日々

夫から日々嫌がらせをされても我慢し続けた。

結婚したからには相手の人生にも責任があると思っていた。

それに一度は添い遂げることを誓ったのに、そう簡単に放り出すことはできなかった。

これは責任感のような物なのだろうか。

その時はまだ夫に愛情が残っているから放り出せないのだと考えていたのだけれど。

もしかしたら違ったのかもしれない。

夫がショックを受けるであろうことを想像すると罪悪感に耐えられるかも自信が無かった。

だけど、毎日のように小さな諍いはあって。

諍いと言うよりも一方的に怒鳴られて傷つけられるだけなんだけど。

夫は『これは夫婦のコミュニケーションの一つだ』と言った。

私の中にはそういうコミュニケーションの取り方は存在していなかったから、いつも戸惑った。

本当は止めて欲しいのに言えなかった。

言ったら『じゃあどうやって解決するの?』と詰め寄られてしまう。

解決といっても向き合わなければならない問題が起きていたわけでもない。

ただ単に夫が色んなことをわざわざ問題にして難癖をつけてきただけだ。

それで『お前はどうするんだ』と結論を迫られるのだが、いつも夫の中で答えは既に決まっていた。

話し合ったところで、その答えに誘導されるだけ。

何があっても私の意見や気持ちが反映されることは無い。

人間我慢し続けていると段々と感覚がマヒしてくるみたい。

そのうち自分が悲しいのか辛いのかさえ分からなくなってしまった。

その状態がデフォルトになり、心は痛みに鈍感になった。


心配はかけたくないけど・・・

耐え続けたけれど、『もう限界だ』と感じる瞬間があった。

咄嗟に携帯を手に取り、家の外に出て母に電話した。

ただ、そんな時でも夫には

「買い忘れた物があるから行ってくる」

と伝えてしまう自分がとても悲しかった。

コール音が何度か鳴り、電話に出た母。

その声はいつも通りだった。

しばらくかけてなかったから、出る前は少し緊張していたのだけれど。

話し始めたら何だかほっとしてしまった。

「どうしたの?珍しいじゃない」

と言う母に対し、

「今ちょっと時間が空いたからさ。元気?」

と取り繕う私。

本当はこんなことを言いたいわけじゃないのに、普段通りの私を演じてしまった。

多分、いつものように振舞えていたと思う。

精一杯元気なふりをしたつもりだ。

だが、突然母が

「どうしたの?何かあった?」

と言った。

涙が出そうになった。

優しい言葉なんてかけてもらったのはいつぶりだっただろうか。

嬉しくて、だけど辛くて。

よく分からないぐちゃぐちゃの気持ちで母の言葉をかみしめた。

大丈夫だよ、と言いたいのに声が出なかった。

声を発したら泣き出してしまいそうで。

だからひたすら咳をして誤魔化した。

でも耐えきれなくなって、その場に座り込んだ。

嗚咽が聞こえないように電話を離し、過呼吸気味になりながらも何とか整えようとしたけど上手くいかない。

どうしよう。

このままでは母に気づかれてしまう。

焦って電話を持ち直した時、

「何でも聞くから」

と言う母の声が聞こえた。

もしかしたら、もうとっくに気づいていたのかもしれない。

だけど、私がいつも『大丈夫、何もないよ』と言うから。

きっと私から話すのを待っていたんだろうな。

結局そのまましばらく話すことができなかったのだが、深呼吸をして何とか整えた後、

「大丈夫だよ。もう少しがんばる」

と伝えた。

2025年3月7日金曜日

ちょっと具合が悪くなると大げさにアピールする夫

夫は自分の体調に対して敏感だった

少しでも体調を崩すと夫は大げさに騒いだ。

そのアピールが凄くて、げんなりすることもあった。

朝から何度も熱を計り、

「あー、やっぱりちょっと熱出てきたわ」

と言うので見てみたら37度。

普段体温の低い人だったら確かに微熱かもしれない。

でも、あなたは普段から36度台後半ではないか。

ほんの2~3分なんて状況次第でいつでも変わるだろうに。

そう思ったけど、夫にとっては一大事だったようで大げさに騒いでいた。

何度も同じことが起きると私だって親身にはなれなくなる。

半ば呆れた気持ちで聞いてしまうようになる。

それで、ついつい反応も薄くなった。

そうすると、夫は『心配もしてくれないなんて冷たすぎる!』と不満を爆発させた。

そもそも、いつも騒ぐ割にはどうってことなくてすぐに治る。

気のせいだったということも多々ある。

そんな状況なので真面目に対応するのが馬鹿らしいと思ってしまった。

大抵は具合が悪いと言いつつもお昼ごろになると全快して元気に動き回るんだよね。

何ていうか・・・。

自分の体調に敏感過ぎるのよ。

それだけ気を付けてる証拠なのかもしれないけれど。

私からしたら非常に迷惑な話だった。

これが何か体に不安なことがあって、というのならまだ分かる。

そうすると他のことにまで目が行ってしまうから。

でも、夫の場合は多少の自律神経の不調は抱えていても家では元気だった。

少なくとも私たちに怒鳴り散らすくらいの元気はあった。

だから、心の中では『あー、はいはい。いつものね』と聞いていた。

ただ、それを本人に悟られると面倒なので口では

「大丈夫?ゆっくりしてた方が良いよ」

と声を掛けた。


家族の体調不良には不機嫌に

自分の体調が悪くなると騒ぐくせに、家族が風邪を引いたりすると途端に不機嫌になった。

子どもが熱を出した時などは、

「いつまでグズグズしてるつもりだ!」

と信じられないような暴言を吐いた。

まだ熱もあったのに信じられない。

自分なんてほんの少し熱が出ても大騒ぎするくせに。

私が高熱を出した時もとても大変だった。

病院に行ってインフルエンザではないことは確認されていた。

ただ、そうは言っても39度を超えるほどの高熱。

歩くのもしんどかったので、

「保育園のお迎えをお願いできないかな」

と言ってみたら、物凄く面倒くさそうにされて、

「えー、行けないの?」

と言われ、

「いつも結構な熱が出ても動けてるじゃん」

と良い返事は貰えなかった。

これは何としてでも自分で行けということだ。

仕方がないので、マスクをして完全防備でお迎えに向かった。

道中足元はフラつくし、熱が更に上がっているのか寒気はするしで散々だった。

やっとの思いでお迎えを済ませ、帰宅した後。

もう体がしんどくてすぐに横になりたかった。

「申し訳ないんだけど、ご飯作って子どもにも食べさせてもらえる?」

とお願いしたのだが、この時も却下された。

お迎えに行けたんだからご飯くらい作れるだろう、と。

こんな風に優しさの欠片も持ち合わせていない夫なのに、私は見捨てることができなかった。

見捨ててしまったら生きていけないのではないかと思ったからだ。

だけど一方で、私たちにも優しくしてくれるようになれば良いなと願った。

その願いは結局叶わなかったのだけれど。

2025年3月6日木曜日

酷い虐待の後には決まっておもちゃを買い与えた夫

罪悪感から?それとも子どもをコントロールするため?

普段からちょっとしたことで怒られていた子ども。

その怒鳴り声は異様に大きくて、大人の私でも縮み上がるほどだった。

子どもの小さな体にはさぞかし堪えただろうと思う。

それでも怒鳴られるだけならまだマシだ。

叩かれたり首ねっこを掴んで持ち上げられたり、蹴られることもあった。

「そんなことをしたら怪我しちゃうよ!」

何度そう伝えたか分からない。

もう後のことなんて考えられなくて必死で止めようとした。

それくらい切羽詰まった状況だった。

けれど夫にそんな訴えが届くことは無く、

「大げさなことばっかり言いやがって」

と余計に怒らせてしまうことがほとんどだった。

こういう場面でもっとも恐れたのは、私が口を出すことで更に状況を悪化させることだ。

人から指図されることを極端に嫌う夫が私の言うことなど聞くはずがない。

それが分かっていても言わずにはいられなかった。

そして案の定、夫を怒らせてしまい二人まとめて罰を受けることに・・・。

モラハラや虐待というものが日常生活の中で当たり前のこととして存在していた我が家。

夫の機嫌を意識しながら生活することに疑問も抱かなかった。

酷い虐待の後、夫は決まって子どもに優しくなった。

普段はかけないような優しい言葉をかけ、おもちゃを買い与えた。

そういう時はまるで子どもを溺愛しているかのように振舞い、

「どんなおもちゃが欲しいんだ?」

などと聞いていた。

こういうのが飴と鞭って言うのかな。

さっきまで意味不明なことで怒られていた子どもの目には薄っすらと涙が浮かんでいて。

でも、にじり寄ってくる父親を無視もできないので、

「えっとね~、今欲しいのはね~」

と一生懸命答えようとしていた。

こんなのって絶対におかしい。

いつもそう思っていたのに強く言えなかった私も同罪だ。


積み上げられていくおもちゃ

我が家は狭かった。

だから収納場所も少なくて、狭い部屋におもちゃがどんどん積み上げられていった。

そんなにたくさんのおもちゃがあるということは、それだけ虐待されたということ。

本当はおもちゃなんて要らないから子どもを虐めないで欲しかった。

その一つ一つを見ると蘇ってくる嫌な思い出の数々。

私はあまり見たくなかったのだが、子どもも多分同じ。

自分から率先して遊ぶことは少なかったように思う。

ハッキリ言って、あんなのは夫の自己満足以外の何物でも無い。

「あのおもちゃで遊ばないのか?」

と言われても困ってしまうよね。

それなのに、おもちゃさえ与えていれば自分は良い父親なのだと勘違いしているふしがあった。

義両親が我が家に来た時、子どもに向かって

「パパに買ってもらったのか。良かったな~」

と言った。

何とも複雑な気持ちでそのやり取りを眺めていたのだが、次に出てきた

「パパは(子ども)のことが大好きなんだな」

という発言はどうしても納得できなかった。

本当は義両親だって知っているはずなのに。

二人の目の前で子どもが虐待されることもあるのに。

そして、そのおもちゃたちがどういう風に与えられたのかも知っているのに。

それなのに、なぜ『おもちゃを買ってあげる息子はエライ』と思えるの?

ここには私たちの味方は居なくて、一人で子どもを守るしかなかった。

だけど私はあまりにも無力で。

どうやって自分たちの身を守れば良いのかが分からなかった。

2025年3月5日水曜日

パパをやっつける!

幼い頃の子どもの口癖

子どもが幼児期~小学校低学年の頃、よく『パパをやっつける!』と言っていた。

もちろん私がそう言うように仕向けたわけではない。

物心つくかつかないかのうちから自然と言い始めた。

最初耳にした時には驚いた。

こんな小さな子の言うような言葉ではないと思ったからだ。

でも、よくよく考えてみたらテレビの影響なのかな?とも思った。

ヒーローものなどを見て真似する子が居るが、恐らくその類だろうと。

実際にはそんな微笑ましいものとは違っていた。

それは父親へのネガティブな感情から出た言葉だった。

私が気づいた時には子どもは既に夫のことを強く拒絶していて、その感情を消し去るのは難しい感じだった。

この子の中で夫は敵になっているのだ、と悟った瞬間がある。

ある朝、保育園の準備をしていたら前日にお箸を洗っていなかったことに気づいた。

「しまった!昨日出してなかったんだ!」

と言いながらいそいそと洗い始めた私。

それを見た夫が、子どもに

「お前は何で出さねーんだよ!!!」

と怒鳴り、お箸とかコップを入れておく小さな巾着袋を投げつけた。

まさかそんなことをするとは思わなくて一瞬動きが遅れてしまった。

すぐに洗っていた箸を放り出すように置き、慌てて夫の元に駆け寄って

「私が忘れたのに何で子どもに怒るの?しかも投げつけるなんて酷い」

と訴えたら、夫は

「コイツのものは全部コイツにやらせろ」

と言った。

そして、威嚇しながらジェスチャーで子どもに『洗ってこい』と命令した。

例えばこれが6歳の子なら『なるべく自分のことは自分でやろうね』っていうのもあるかもしれない。

でも、まだ2歳だった。

2歳って家の中でもいたずらをしたり予期せぬ行動をしたりして大変な時期だ。

外に出たら無鉄砲に走って行ってしまうこともあり気が抜けない。

そんな年頃の子に保育園から持ち帰った箸は忘れずに出して洗えって???

もう話にならないと思って、それ以上何も言わずただ黙って箸を洗って保育園の準備をした。

別に洗い忘れに気づいたからといって、夫が何か大変になるわけじゃない。

出勤前の慌ただしい時間に私が洗うことになるだけ。

夫からしたらどっちでも良いだろうに、なぜそんなことで怒るのかが分からなかった。

その後、保育園へと向かいながら子どもと話をしていた時に子どもが

「早く大きくなりたいな。そしたらパパをやっつけられるのに」

と言った。

この言葉は、もうすぐ3歳という年齢よりだいぶ大人びていると感じた。

その後も何度も

「パパをやっつける!」

と繰り返した。

きっと子どもの目から見ても理不尽に映ったのだろう。

まだたどたどしい口調の我が子からそんな言葉を聞いた時の衝撃は今でも忘れられない。


早く大きくなりたいな

子どもが『パパをやっつける!』と言うたびに私は戸惑った。

情けないことに、本当に何て返したら良いのかが分からなかった。

本来なら『そんなことを言うもんじゃない』と窘めるところだろう。

でも、子どもの気持ちが良く分かるし、窘めるどころか共感してしまった。

もしかしたら、私のそういう気持ちを感じ取って出た発言かもしれない。

そうすると私のせいだよなぁと思って何も言えなかった。

元はと言えば夫がモラハラや虐待を繰り返すのが悪い。

2歳といえども自我が芽生え始めているのだから色んなことを感じ取っていたはずだ。

それなのに、まるで自分の言うことを聞かなければうちから追い出すようなことばかり言って。

子どもに嫌がられるのも当然だ。

ただ、威勢の良いこと言っていてもまだ小さな小さな2歳児。

たとえ直接夫に『パパをやっつける!』と言ったとしても鼻で笑われたと思う。

それを子ども自身が分かっていたかどうかは定かではないが、よく

「早く大きくなりたいな」

と言っていた。

うちの子は小柄で周りから『ちっちゃくて可愛い』と言われることが多かった。

これは子どもからしたら誉め言葉ではなかったようで、

「早く大きくなりたいのにっ」

と怒っていた(笑)

こんなエピソード一つ取っても、夫が子どもから嫌われていたことは明らかだ。

それに気づいてないのは本人だけ。

未だにその事実に気づいていなくて、将来面倒を見てもらおうとしているのも図々しい。

2025年3月4日火曜日

保育園の行事で感じた寂しさ

周りの家庭が羨ましくて仕方がなかった

私は保育園の行事が苦手だった。

いつもよりも子どもたちも張り切っていて賑やかな雰囲気なのに。

ポツンと取り残されているような気持ちなることが多かった。

そう感じてしまう理由は明確だ。

周りのお家ではパパとママが仲良く参加していて、どうしてもそれを目の当たりにしてしまうからだ。

仲睦まじい姿を見たりすると、やはり思うところがある。

お子さんも心の底から楽しんでいるように見えて、つい自分たちと比べてしまった。

ああ、良いなぁ。

あんな風に何の心配もせず楽しみたかったな。

そんなことを考えながら参加していた。

周りのママ友たちはとても良い人ばかりで、何か嫌味を言われるようなことも無かった。

だから環境的には恵まれていたのだけど、ついつい感じてしまう寂しさ・・・。

夫も、いつも不参加だったわけではない。

ごく稀に『今回は行こうかな』と言うことがあり、一緒に参加したこともある。

ただ、これはこれで問題だった。

夫が参加するからと言って『今日はパパ来れるんだって。良かったね!』という感じにはならない。

来たら来たで面倒なことがあり、例えば周りに人が居ようが些細なことで容赦なく子どもを怒鳴りつけた。

だけど、要所要所で使い分けるというか狡さもある人だった。

怒っていたかと思えば急に物凄く可愛がるような時もあり、周りはすっかり騙されていた。

「きちんと躾までできるなんて良いパパだね」

なんて言われたりして。

本当は違うんだよ、と言いたいけど言えなかった。

この人たちが本当の夫を知ったらどんな反応をするだろうか。

私は一緒に居る時でもそんなことばかり考えていた。


保育園では他の子の面倒まで見る夫

たまにお迎えに行ってくれることもあった。

私のことを労わって代わってくれたというわけではない。

その時々の気分で気まぐれに提案された。

仕事が忙しい時などは確かに助かる。

だから、夫から『迎えに行くよ』と言われた時にはほぼお願いしていた。

園に着くとその日の汚れ物などを集めて帰り支度をする。

帰る用意をしているといつの間にか子どもたちが集まってくることもあるのだが、夫は率先して子どもたちの面倒を見ていた。

みんなが集まって来ても、笑顔で相手をして優しく話しかける。

いつもそんな感じだったので、他のお家の子やそのママたちからは割と人気があった。

優しそうな笑顔を見せながら大勢の子と接する夫。

ただそれだけなんだけど、私の心はどうしようもないくらいに虚しさを感じた。

どうして我が子にも同じようにできないの?

あなたの愛情を一番に欲してるのは我が子なんだよ。

怒りを通り越して悲しさがこみ上げ、子どもが不憫になった。

お友達たちがキャーキャー言いながら夫と遊ぶ間、子どもはポツンと遠くから見つめていた。

まだ幼児なのだから深いことを考えていたわけではないのかもしれない。

でも、私にはとても寂しそうに見えた。

みんなに懐かれて終始ご満悦だった夫。

帰り道もご機嫌で、いつもは一人でスタスタ行ってしまうのに子どもと手をつなごうとした。

少し後ろに居る子どもの方に手を伸ばしたのだが、その瞬間子どもはパッと手を引っ込めた。

更に後ろに居た私は『あっ・・・』と思ったのだけれど、気づかないフリをしてやり過ごした。

あれは子どもなりの意思表示だったに違いない。

我が子を大切にできない人が周りには『優しいパパ』を演じていることに吐き気がした。

2025年3月3日月曜日

子どもの頬に叩かれた跡

夫はなぜ子供を愛せないのか

仕事から帰り、『ただいま~』と家のドアを開けると子どもが端の方でうずくまっているのが目に入ってきた。

夫を見るととても不機嫌で、表情は険しかった。

『これは何かあったな』とすぐに分かった。

一気に緊張感が高まったが、下手に動いたら余計に状況を悪化させてしまう。

だから、鈍い頭を懸命に働かせてどうすべきかを考えていた。

その間、子どもは微動だにせずうつむいたまま息を殺しているのが分かった。

その頬は、遠くから見ても分かるくらいに赤くなっていた。

普段でも私たちは気を使いながら生活していた。

それがデフォルトになっていたのだが、気を遣うくらいならお安い御用だった。

酷い時には暴れて物を壊したり子どもが叩かれたりするから。

その日はそんな我が家でも非常事態と言えるようなことが起きているのだと感じた。

とりあえず事情を聞かなければならないと思い、

「あれっ?どうしたの?」

と聞いてみたのだが二人からは何の返事もかえってこなかった。

子どもはこういう時発言することを許されていなので、黙っているしかなかったのだと思う。

そうすると答えられるのは夫だけということになるが、機嫌が悪すぎて返事をしたくないようだった。

どうしよう。

事情が分からないことにはどう動けば良いのかも見当がつかない。

夫の機嫌も簡単には治らなそうで、打つ手が無いように見えた。

こういう日は長い長い夜が待っている。

何をしていてもきっと夫が難癖をつけてきて空気を悪くするし、下手したら夜中まで説教されるかもしれない。

そんな想像をしたら思わずため息が出てしまった。

夫はそれを見逃さなかった。

「何だよ!言いたいことがあるなら言えよ!」

と突然怒鳴り、大きな足音を立てながらこちらに向かってきた。

私は思わず顔の前で手を交差させて、

「ごめんなさい」

と謝った。


夜中まで続く説教に絶望

叩かれる!と思って身構えたのだが、夫はポーズを取っただけで殴ることは無かった。

その代わりに【早く入れ】と促されて夫の目の前に座らされた。

小さなテーブルを挟んで向き合いながら座る私たち。

目の前に居ると、夫の目が血走っているのがよく分かった。

きっと相当怒ったんだろうなという感じで、子どもはまだ同じ姿勢を崩さずにいた。

こんな状態では何を言っても怒りが収まることは無いだろう。

それでも、事情だけは知りたいと思って

「何かあったの?」

と聞いてみた。

極力いつも通りのトーンで落ち着いて話したつもりだ。

怖がっていることを悟られると余計に面倒なことになるから。

そうしたら、夫が乱暴な口調で

「こいつ、マジで最低なんだよ!っとにクソがっ!」

と話し始めた。

よくよく聞いてみると、その日に持って行くべき宿題を家に忘れたようだった。

それで連絡帳に書かれていたのだが、子どもに確認したら

「だいじょうぶ、忘れてないよ」

と言ってしまった。

たぶん怖かったのだと思う。

本当のことを言ったらどれだけ怒られるのか分かっているから。

それで慌てて嘘をついてしまったんだろうけど、夫は

「こんな嘘つきな奴、家に置いておけねーよ!」

と怒って、じっとしていた子どもの襟首あたりを掴んで体を持ち上げた。

まだ軽かった子どもの体は宙に浮き、玄関まで乱暴に押しやられた。

「ごめんなさい」

と何度も言いながら許しを請う子ども。

私も子どもがケガをしないように必死に体を割り込ませた。

もう揉みくちゃになって、どんな風になったのか覚えていない。

気付いたら子どもも私も玄関に手と膝をついていて、咄嗟に目の前の子どもを抱きしめた。

それを仁王立ちで見下ろす夫。

怖くて声が出なかった。

その日、私たちは夜中まで説教された。

いかにクズでどうしようもない人間なのかという話を延々とされた。

至近距離から怒鳴られてもただじっと耐えたのだが、それだけでは済まされなかった。

無視をされ、存在がまるで無かったかのように扱われ。

私たちが何かすると聞こえるように舌打ちされた。

それがまた怖くて、息を殺して生活した。

恐ろしいことに、そんな生活が2週間も続いた。

2025年3月2日日曜日

家出-目的地に到着して今後のことを考えた

シーズンオフの観光地に到着

目指していた観光地に到着した。

着くまで気づかなかったんだけど、ちょうどシーズンオフで人もまばらだった。

人が多ければその分賑やかになって気持ちも華やぐが、人の少ない観光地もそれはそれで趣がある。

本当に来ることになった時もシーズンオフなら良いな。

そうしたら宿泊費も安く済むんだけどな、などと考えていた。

本当は前もって予約を入れた方が安くなるのだが。

いつ【その日】がやってくるか分からない。

だから、全て家を出てから動かなければならないというのがまず一つ目の問題だと分かった。

電車を降りて少し歩いてみると、気持ちの良い景色が広がっていた。

私はそれを見ただけでとても癒されて、やや興奮気味に子どもに声をかけた。

「見て!すごいね~。綺麗だね~」

と言いながら遠くを指さすと、子どももその方向を見て

「きれいね~」

と目を輝かせた。

この時どこまで理解していたのかは分からないが、私の言ったことに共感してくれる存在がただただ嬉しかった。

小さな子どもでも、こんな風に共感してくれるのだ。

夫なんて常に上から目線で否定してきて、私の意見はほぼ無視。

肯定的にとらえられることはなく、自分の言うことを聞いていれば良いんだという考えだった。

いつも寂しかった。

怖いだけでなく寂しいなんて、一緒に居る意味なんて全く無いよね。

時折すれ違う人たちはパートナーや家族ととても仲良く見えて、そんな場面にも心が痛んだ。


お昼を食べて、宿の下見

しばらく歩いて、近辺を散歩した。

幼い子どもを連れているからそう遠くへは行けないのだが、それでもかなり楽しめた。

歩いているうちにお腹が空き、子どもと一緒に

「何を食べようか」

と言いながらまたウロウロ。

偶然見つけたお店が値段も手ごろで子どもが食べられそうなメニューもあったので、休憩がてら入ることにした。

こういうのも本当に久しぶりで【生きてる】という実感がわいてきた。

普段も時々は出かけるけど、夫がすぐ傍にいるような錯覚をしてしまい息苦しかった。

でも、遠く離れたその場所ならそういう気持ちにならなかった。

お昼を食べた後は宿の下見へ。

徒歩圏内に数軒の宿があり、お値段が分からないのでネットでポチポチ検索をした。

あー、ここは評判が良いとか、ちょっと高めだから連泊が難しいとか。

色んなことを考えながら実際に利用することになった時のことを想像した。

その日が一日でも早くくれば良いな。

そう思いつつ、時間も迫ってきたので引き上げることにした。

帰りの電車の中で、手持ちのお金で何泊できるだろうと考えたら意外と泊まれることも分かった。

交通費だって各駅を使えば節約できるし、探せばもっと安く泊まれる方法があるかもしれない。

そんな希望を見出しつつ、実は後回しにしていた問題に頭を悩ませていた。

それは、家を出てからしばらくの間の仕事はどうするのかということ。

私は日頃から会社を休むことがほとんどない。

だから有給は余っているけど、一気に使っても大丈夫なのかという不安もあった。

それで、会社の人に一度相談した方が良いのだろうか、と考え始めていた。

2025年3月1日土曜日

家を出る予行演習をした私たち

その時が来たら迷わず動けるように

日ごろ夫から酷いモラハラにあっていた。

だから、通常よりも思考能力が低下しているという自覚があった。

もし家を出るチャンスが訪れても自分の頭で考えて動けるだろうか?

そんな不安があった。

それで予行演習をすることにした(笑)

実は家出は初めてではない。

ただ、いつもとは違って計画を立てるためのお試しみたいなものだった。

その日は夫が朝から病院で、実行するにはもってこいの日。

「有給を消化しなくちゃならないんだ~」

と休みを取ることを伝えた。

そうしたら病院に着いてきて欲しそうにしていたんだけど。

気づかないフリをしてスルー。

そんな目的のためにわざわざ休んだわけではない。

夫は不満そうにブツブツ言いながら出かけて行った。

その後の予定もだいたい分かっていた。

病院の後は二駅先まで足を伸ばして買い物して、そのままお昼だろうな。

お昼を食べたら駅をブラブラして、義両親と落ち合うかもしれない。

いつも義両親と出かけることが多かったので、この日もそうだろうと思っていた。

そうしたら案の定、出かける直前に

「今日は親父と会うんだわ」

と言っていた。

やっぱりね。

ここまでは読み通り。

夫を見送るまでは内心ドキドキ。

そして見送った後、急いで出かける用意をした。

保育園をお休みした子どもはお出かけだと思い込んでいて、嬉しそうに靴を履いた。


家を出た瞬間から感じた開放感

一歩外に踏み出した途端、体中を縛り付けていた鎖から解放されたような気持ちになった。

あー、自由ってこんな感じだっけ。

いやいや、これはまだ予行演習なんだから。

久々に感じた解放感に浸りつつも、こんなんで喜んでてはいけないと自分を戒めた。

まずは今日どんな風にすべきかを考えながら行動してみよう。

それで当日パニックになっても落ち着いて動けるはず。

家を出て最初に向かったのは駅だった。

どこに行くにしても電車を使わなければ遠くには行けない。

子どもを抱っこしたまま、PASMOを通してホームに向かった。

その間、

「ねえ、どこ行くの?」

と何度も聞かれたんだけど、まだ行き先は決まっていなかったので

「良いところだよ」

とだけ答えた。

ホームで電車を待つ間、私は考えていた。

家を出る日、夫がそのことに気づいたらどんな行動に出るだろうか、と。

追いかけてくるだろうか。

でも、どこに行ったかも分からないのに、闇雲に動くようなことはしないかもしれない。

安全策として私ができるのは、予想もできない場所に移動することだった。

実家はすぐに足がつく。

同じ県内にある姉の家も同じだ。

親兄弟や親せき関連は簡単に予想できてしまうから、全く関係のない場所が良いだろうと考えた。

それで思いついたのが、なぜか観光地の旅館に泊まる方法だった。

ちょっと驚くよね。

自分でも驚いた。

電車に乗れば以外と早く着く観光地があり、そこなら泊まれるのではないかと思った。

夫から逃げているのに観光???

いやいや、決して遊びに行きたいわけではない。

そんな所にいるなんて想像もつかないだろうから安心して過ごせると思って選んだ。

他にも理由があり、やはり当日は解放感たっぷりでも落ち込むと思うので少しでも気持ちが浮上する場所に居たかった。

ただそれだけなんだけど、ビジネスホテルと比べたら高いんだよね。

金銭的に余裕は無かったので、各駅の電車で向かうことにした。

万が一、私たちが戻るまでに見つかってしまったらそれまでだ。

計画を立てていることを勘づかれてしまい、更に自由に動けなくなる。

そんなこと、絶対にあってはならない。

想像するだけで恐ろしくて体が震えた。

当時は気づけなかった夫の策略

貯蓄用口座を作ろう!という提案 結婚が決まり、新生活の準備に追われていた頃。 夫から、 「貯蓄用口座を作って、そこに入れるようにしよう」 という提案があった。 当時は特に怪しむことも無かった。 賢い夫の言うことだから従っていれば間違いないだろう、と思ったのだ。 いつもはなかなか動...