情に訴えてくる夫
「なあ、もう一度やり直さないか?」と夫が言った。
まるで懇願するような言い方だったので、出かかった拒絶の言葉を飲み込んだ。
これじゃあ、まるで私が責めているみたい。
これまでずっと酷いことをしてきたのは夫なのに。
弱々しい声で『やり直したい』と頭を下げるから、Nも同情したようだった。
「少しだけでも考えてやってくれないかな」
と言われて、強い言葉で拒絶することができなかった。
だけど、気持ち的には夫を受け入れることなどできないのだから離婚という結論は変わらない。
私の返事を待つ夫を、ただただ冷めた目で見つめた。
本当にやり直したいと思っているのなら、もっと早く改心して欲しかった。
限界が来る前にきちんと話し合いたかった。
でも、私たち夫婦には明確な上下関係があり、私が意見を言うことは許されなかったから。
ただじっと我慢するしかなかった。
それなのに、こうやって問題が表面化したところで『これからは変わるから』と言われたって遅すぎるのだ。
何も言わず頭を下げる夫をじっと見つめていたら、Nが
「案外頑固なんだね」
と苦笑した。
この時、あー他人なんてそんなもんなんだなと思った。
私たちにとってこれはとても大きな問題で、本当に心が殺されるような日々だった。
明日への希望も無く、ただその日を無事に過ごすことだけを考えた。
それが、こんな風に言われてしまうと私が大げさに騒いでいるだけと言われているような気がして辛かった。
違うんだよ。
本当に限界だったんだよ。
こんな思いを誰かに分かってもらうのはきっと不可能なのに、心の中でいつも叫んでいた。
私が頑固だというのなら、夫だって決して離婚を受け入れない雰囲気だったのだからお互い様だ。
急に態度を変えた夫を前に、内心は戸惑っていた。
次にどのように動くのが正解なのか分からなくて。
いたずらにただ時間だけが過ぎていくことに不安を覚えていた。
こうやって何やかやと理由をつけて承諾してもらえないのなら、この話し合いの時間も無駄なのではないか。
本当に夫と離れられる日はやってくるのだろうか、と考えたら絶望にも似た気持ちに襲われた。
考えれば考えるほど不安が大きくなり、
「気持ちは変わらないから」
という言葉が自然と口から出ていた。
少し強い口調になったのは、それだけ夫のことを受け入れられない気持ちが強かったからだ。
「俺は譲歩した」と言うけれど
この時の話し合いはかなり長引いた。
あー言えばこう言うで一向に前進する気配は無かったのだけれど。
話しているうちに、段々と考えが定まらなくなってしまった。
夫と話す時はいつもそう。
恐怖から思考が停止してしまう。
段々と口の重くなってきた私を見て夫はチャンスだと感じたのか、
「俺はずい分譲歩したよ!(子ども)のことだって。引っ越せというお前の要望だって前向きに検討してる。それなのにお前は要求ばかりで何も受け入れてくれないじゃないか!」
と言った。
子どものことは虐待の証拠があったのと夫の財産を調べないという条件で納得してくれたんじゃなかった?
引っ越しだって、普通に考えたら自分が住んでも居ない所の家賃を払い続けるのは不可能なのに。
言いたいことは色々あったけれど、夫の低い声に圧を感じて何も言えなかった。
本当に情けないと思う。
今までのことがフラッシュバックして呼吸が乱れてしまい、慌ててジュースを口に含んだ私を、夫はあざ笑うように見ていた。
逃げ出したい。
本能的に私のつま先が通路の方に向き、立ち上がろうと腰を浮かせたその瞬間、夫から
「お前、離婚したいんだろ。逃げるなよ」
と言われ、体が硬直した。
「こいつ、いつもそうなんだよ~。大事な話し合いの時にいつも逃げるんだよ~」
なんてNに笑いながら言っていたけれど、その目は笑っていなかった。
逃げたくても逃げられない。
話も聞いてもらえない。
どうしたら良いんだろう・・・。
頭の中でグルグル考えて、咄嗟に出たのは
「どうしたら離婚を承諾してくれるの?」
だった。