2025年9月30日火曜日

自暴自棄になった夫

何をしでかすか分からなくて怖い

夫は明らかに自暴自棄になっていた。

自分を大事にするところが唯一の取り柄なのに。

まるで、『どうでも良い』と言わんばかりの生活を送っていた。

お義父さんやお義母さんが家に戻るのは仕方の無いことだ。

息子たちが二人揃って働けないんだから。

もしそれが気に入らないのなら夫が率先して働くべきで。

できないのなら、せめてサポートくらいして欲しかった。

でも、自分のことばっかりの人だからそれができない。

いつも中心に居ないと駄目なんだよね。

皆が気にかけてくれないと不貞腐れてしまう人なのだ。

部屋に一人取り残された夫は、ご飯もろくに食べなくなった。

本来なら妻である私が動くべき所だけど。

離婚に向けて動き始めている時だったから、『それは私の役割ではない』と見て見ぬふりをした。

巻き込まれたくないという気持ちもあった。

傍観を貫いていたら、夫は短期間のうちにガリガリに痩せた。

見た目にも『どうかしちゃってる』ことは明らかだった。

それが周りへのアピールだったのか、それとも本気でおかしくなっていたのか。

今でも分からないが、友人たちが放っておけなくなるくらいに弱っていた。

そんな状態の夫が会社で待ち伏せをしていて、急に目の前に現れたんだから。

驚かないはずがない。

ギョッとして言葉も出ない私に笑顔で声をかけてきて、だけどその表情はどこか虚ろだった

狂気をはらんだ目を見た途端、私は身の危険を感じた。


失う物がない人間ほど怖いものはない

あの時の夫を一言で表すなら、『失う物が何もない状態』だ。

いわゆる無敵の人なのかな。

実際にはそうではないんだけど、本人的にはそう思っているようだった。

私は我関せずを貫き通そうとした。

友人たちはせっせとお世話を焼いてくれていたし、義両親も一人残してきてしまったからと気に掛けていたんだから。

それで十分だと思った。

お義父さんなんて、せっかく定年を迎えて悠々自適な生活を送るはずが再び働く羽目になった。

そんな状況でも息子のことを常に気に掛けていた。

こういう所は本当に頭の下がる思いだ。

友人たちが入れ代わり立ち代わり我が家にやってきたのも、そういう事情があったからだろう。

一人にしては危険だと見守ってくれていたのかも。

最初は、そんな彼らのことを非常識だと思ってしまった。

私が居ないから好き勝手に出入りしているのだと。

自分もまだまだ人間が出来ていないなーと反省。

結局、夫は彼らや義両親に見守られながら少しずつ本来の姿を取り戻していった。

本来の姿と言うのは、つまり『モラハラをする夫』だ。

後になって考えると、あの弱っていた時にもっと動けば良かった。

でも、後悔しても後の祭り。

弱っている人間相手に畳みかけるなんて人としてどうなんだ、という葛藤もあった。

だけど、あれが夫に対して怯まずに反撃できる最後のチャンスだったように思う。

そこから私は防戦一方で離婚協議を闘っていくことになる。

復活した夫は相変わらず頭が回り冷酷だった。

2025年9月29日月曜日

夫の友人Nに探りを入れ、新たな事実が判明

不安定な夫が気になり、Nに相談

意味不明な提案をしてきたり待ち伏せされたり。

かと思えば、涙ながらに

「(子ども)に会えなくなって、もう生きる希望がない」

と言ってきたり。

言動があまりにも不安定で、『ちょっとおかしいな』と思うことが増えた。

でも、気になっても本人には聞けないので、こっそりNに聞くことにした。

もちろん『夫には内緒で』という前置き付きだが。

万が一Nが約束を守らずに伝えてしまったら、その時は

「あなたのことを心配したのよ」

とでも言おうと思っていた。

でもNは最後まで言わないでいてくれた。

夫と友人たちは非常に密な付き合いをしている。

家を行き来するなんていうことはしょっちゅうだ。

それで彼らの家族まで親しくなるのがお決まりのパターンであり、うちにも友人たちが来ていた。

泊まったこともある。

といっても雑魚寝だけど。

あんな狭い部屋によく泊まれたものだと感心した。

だから私も彼らと親しくなりそうなものだが、実際にはそうでは無かった。

夫はフレンドリーに接することを求め、一方では必要以上に親しくすることを禁じた。

そんなことを言われたらどうすれば良いの?という感じだが・・・。

与えられた条件の中で役割をこなさなければならなかったので、当たり障りの無い対応に徹した。

そんな感じで表面上は親しくても、実際には電話をかけて相談をするほどでもない。

だから、直接電話をかけるのは気が引けてメッセージを送った。


弁護士に相談していた夫

自分から『弁護士を通さずに直接話し合おう』と言ったくせに、実は相談していた。

この話を聞いた瞬間、『ズルい!』と思ってしまった。

でも、よく考えたら私も相談していたんだから夫を責めることなんてできないんだよね。

それよりも、相談相手の弁護士さんのことがとても気になった。

相手は元々知り合いで、以前から何度か遊びに行ったり飲んだりしている人。

学生時代の仲間内ほどではなくても、ある程度は親しい間柄だ。

以前聞いた話によると、かなり優秀で離婚案件にも強いとか。

そんな人とタッグを組まれたらどうしよう、と一気に不安になった。

それでも、私は私でできることをやっていくしかない。

ため息をつきながら返事をポチポチと打っていたら、Nから『電話にしても良い?』と送られてきた。

それで通話に切り替えた。

どうやらメッセージを打つのが面倒になったらしい。

この時の会話で、いくつか新たに判明したことがあった。

夫は『離婚に強い弁護士』に相談することで勝った気でいたようだ。

何でも自分の思い通りにしなければ気が済まず、私が幸せになるのも許せない人。

だから、やり手と噂される弁護士に相談したのだろうけど。

結果は期待通りでは無かったようだ。

夫の相談相手である弁護士さんは、はっきりと夫に言ったそうだ。

虐待をしていたという事実があるのなら、かなり厳しくなる。

親権を取るのは難しいだろうし、面会も希望通りにはいかない。

義両親との面会も拒絶されれば実現できない。

何より子どもが明確に『No』という意思を示せば無理強いできない。

しかも相手はきちんと働いていて継続した収入がある。

夫が働いて収入を得られるようになったら養育費を支払わなければならない。

財産分与を求めないという時点で大分譲歩してくれているのではないか。

そんなことを言われたそうだ。

痛いところを突かれた夫は意気消沈した。

そして、自暴自棄に陥った。

相変わらず、【先生】と呼ばれる人たちに弱いんだね・・・。

このことは私にとって大きなプラスになった。

今目指している方向が、客観的に見ても間違っていなかったのだと証明されたようなものだ。

『そのまま進んで良いんだ』と思えて嬉しくなった。

2025年9月27日土曜日

仕事帰りの待ち伏せ

時短勤務を把握していた夫

当時、勤務時間を短縮してもらっていた。

子どもを迎えに行くには、少し早く出なければならなかったから。

会社とも何度か話し合い、業務に支障のない範囲で認められた。

皆さんが忙しく働く中、自分だけ早く帰るのは非常に心苦しい。

でも、同僚たちは

「今まで散々頑張ってくれたんだから。こういう時くらい頼ってよ」

と言ってくれた。

嬉しくて涙が出た。

何をしても自信の持てなかった私は、こんな社員は要らないだろうなと勝手に思い込んだ。

申し訳なさ過ぎて『もう退職するしかない』と覚悟を決めたのだが。

周囲の反応は予想とは違っていた。

優しい言葉をかけてくれて、快く早上がりのフォローをしてくれた。

今でも同じ会社に勤めていて、時々ふと『この人たちに何か恩返しをしなければ』と思うことがある。


あの日も、いつも通り早上がりだった。

でも、直前に仕事が入ってしまい、いつもよりも出るのが遅れていた。

焦った私は足早に建物から出て駅へと向かおうとしていたのだが・・・。

一歩踏み出したところでハッと息をのんだ。

すぐ傍のビルの前に見覚えのある人物が居たからだ。

急いでいるのに足が止まり、思わず後ずさりした。

このまま進んでしまったら、間違いなくその人に声を掛けられてしまう。

迷っていたら、その人がこちらを向いて軽く手を挙げた。

その瞬間体中から汗が噴き出して、震えが止まらなくなった。

どうしよう。

早く逃げなくちゃ。

気持ちは焦っているのに、一歩も動けなかった。


終わらない恐怖心との闘い

夫は恐怖の対象だ。

心の準備をしてから会う時でさえ、心臓がバクバクして平常心では居られない。

ましてや、その時は不意打ちで待ち伏せをされたのだから。

動揺しないはずが無かった。

ゆっくりとこちらに向かって歩いてくる夫。

それを目の端でとらえながらも、真っすぐ前を見ることさえできなかった。

怖すぎて見れなかったのだが、何故か夫は笑顔だった。

目の前まで来た時には過呼吸気味で苦しくて、思わず小声で叫ぶように

「何しにきたの?!」

と言ってしまった。

そんな言い方をすれば夫が怒るかもしれないのに。

『それ以上近づかないで!』と心が叫んでいた。

夫はそんなこと意にも介さない様子で、

「近くまで来たから、ちょっとご飯でも食べて行かないか」

などと言ってきた。

これから子どもを迎えに行かなきゃならないのに。

断るのも怖いけど、はっきりと拒絶の意思を示さなければと思い、

「無理だよ。急に来られても困るよ」

とだけ言って、立ち去ろうとした。

そうしたら、急に夫から肩を掴まれてしまった。

物凄い力で身動きが取れなかった。

この時の恐怖は今でも鮮明に思い出すことができる。

心臓がギュッとなって、最悪の想像をした。

何とかしなければと焦っていたら、偶然社用で出かける同僚がビルから出てきて、

「あれ、どうしたの?」

と声を掛けてくれた。

思考が停止してしまった私は、咄嗟に同僚の方に駆け寄った。

多分、ブルブル震えていたから何かを察したのだと思う。

夫の方に向き直した同僚は、

「すいません。急な仕事が入っちゃって、今からやってもらわないとならないんですよ」

と言い、夫も外面は良いので、

「そうですか~。こっちのことは気にしないでください」

とか何とか言いながら去って行った。

あの時、同僚が来なかったらどうなっていたか分からない。

家を出たばかりの頃は会社から出る時も注意深くあたりを見回したりしていたのに。

時間の経過と共にすっかり気を抜いてしまっていた。

呆然としながらも一度会社のロビーへと戻った私。

何事も無く終わりホッとしていたのだが・・・。

夫の待ち伏せは一度では終わらなかった。

2025年9月26日金曜日

たまり場になっていた我が家に荷物を取りに

新しい服を買うお金が惜しい

離婚に備え、できるだけ節約していた。

時々は外食したりお出かけもしたが、普段はとても質素な生活だった。

仕事中に喉が渇いても決して自販機で飲み物を買わなかったし、総菜も使わなかった。

スーパーで安い食材を購入し、それを利用したメニューを考えるというのが習慣になっていた。

毎日の努力で少しずつ貯まっていく貯金。

このお金が私たちの将来につながっているんだ、という思いがあったから頑張れた。

ただ、子どものことに関しては別だ。

あまり節約節約と言い過ぎて窮屈な思いをさせたくなくて、そういう雰囲気を作らないようにした。

ある時、自分の手持ちの服がだいぶ寂しいことに気づいた。

買えば済む話だけど、数枚まとめて購入したら結構お金がかかる。

そのお金があればアレもできる、コレもできると考え始めたら買うのが惜しくなった。

そして、最終的に買うのが馬鹿らしくなった。

そこでふと思い出したのが、家に置いてきた服の存在だ。

元々ほとんど買い物をしなかったので手持ちのものは多くはない。

それでも家に戻れば季節的にちょうど良いものもあった。

取りに行けば交通費だけの出費で済むではないか。

そう考えたら、どうしても取りに行きたくなった。

夫のことは怖いけど、数分我慢すれば良いだけの話。

たったの数分で何千円も浮くんだもの。

気づいた瞬間、取りに行く以外の選択肢が消えた。

早速夫に連絡を入れ、

「服を取りに行きたいのですが、いつなら都合が良いですか?」

とお伺いを立ててみた。

すぐに反応があり、

「いつでも良いけど」

という返信。

この時、夫は再び無職になっていたのでかなり暇そうだった。


夫の友人が頻繁に出入りしていた我が家

仕事を終えた後、その足で夫の居る家に向かった。

既に夕暮れ時。

少し薄暗かった。

子どもを迎えに行った後だから一緒だったのだが。

夫に会わせたくなくて近くのお店で待っててもらった。

一人で部屋の前まで行き、インターホンを鳴らす。

そんな些細な行動にも緊張していた私に聞こえてきたのは夫の友人の声だった。

この時、私は『助かった!』と思った。

二人きりにならずに済む、という安堵。

やはり密室で二人きりは怖い。

これが義両親だけだと心許ないが、友人なら体裁を取り繕うはずだと思った。

案の定、その日の夫は身内だけの時よりも静かで穏やかに対応してくれた。

ただ・・・。

私が驚いたのは友人たちが頻繁に出入りしているであろう痕跡の数々だった。

日用品なんかも数名分が置かれていて、共同生活のような雰囲気すらあった。

話し合いに参加したNも来ているのだろうか。

この状況にはさすがにゾッとした。

いつの間にかたまり場になっていて、家の中の物も自由に見られる状態で。

私物は全部引き取るべきなんじゃないかと思った。

だけど、一度に全部は無理だったから(物理的にも夫の心情的にも)、

「また取りに来るから」

とだけ伝えてその日は部屋を後にした。

2025年9月25日木曜日

夫に内緒の心療内科通い

絶対に知られてはいけない

心身に不調をきたし、心療内科に通い始めた頃。

もっとも恐れていたのは夫に知られることだった。

離婚の交渉で突っ込まれたら反論できない。

「そんな状態の奴が子どもの面倒なんて見れるの?」

と言われそうで、ひた隠しにした。

ただでさえ立場の弱かった私。

条件的にこちらが有利な時でさえ、なぜか交渉では防戦一方だった。

相手が強すぎるというのもあると思う。

これまでの力関係があまりにもアンバランスだったから、それに慣れてしまっていた。

それに加え、どんな状況に陥ろうとも自分に自信を持っている夫に対し、私は常に自信が無かった。

こんなんで勝てるわけがない。

それでも交渉はしなければならないので、必死で闘った。

自分との闘いでもあったのだが、どれだけ経験してもちっとも強くなんてなれなかった。

よく『お母さんになると強くなる』というけど、あれは嘘だ。

私はずっとヘタレのままだったし、色んなものに怯えていた。

その中でも特に怖いのが夫であり、それは最後まで変わらなかった。

何なら離婚した後も怖い。

ただ、一緒に過ごす時間が無いから耐えられるだけ。

そんな私が誰にも頼らずに離婚の決着をつけようとしていた。

内心はストレス満載で、何かにすがりたくなる時も・・・。

それでも耐えて耐えて耐えた結果がアレだ。

心療内科に通っている間、つくづく自分が情けなくなった。

そうやって自己嫌悪に陥ることで心は更にズーンと沈んでいった。


子どもの前では空元気

ただでさえ色々背負わせてしまっている子どもに心配をかけたく無かった。

気付かれないようにあえてハイテンションに振る舞い、先輩さえも欺いた。

「なんかめっちゃ元気だけど、どうした?!」

と言われても、

「いつも通りですよ~」

なんて答えていた。

そしてその反動で一人になった時に落ち込み、また無理をしてテンションを上げる。

そんなことを繰り返してたら、とうとう本格的に調子を崩してしまった。

今考えたら当たり前の話だが、当時は必死だった。

その異変に真っ先に気づいた先輩は、ストレートには言わないけれど、やんわりと『病院に行ったら?』と促してきた。

でも、その提案をスルーした私。

自分でも分かっていたけど認めなくなかったのだ。

普通ならそこで、『じゃあ好きにすれば』となると思うのだが。

情の厚い先輩は放っておくことができなかったのだろう。

毎日ちょっとずつ、

「一緒に行こうか?」

とか、

「評判の良いところを探してあげるよ?」

とか声を掛けてくれた。

本当にありがたい。

それで段々と自分でも行ってみようかという気になったが、そういう気持ちの変化は悟られないようにした。

結局、先輩にも何も言わずに心療内科に通いはじめ、打ち明けたのは終わりが見えてきた頃だった。

こんなにお世話になっているのに言えなかったのは、診断名でもついてしまったら、それこそ先輩の負担になってしまうと思ったから。

この時、先輩にまで嫌われたくないという心理が働いていたのかもしれない。

2025年9月24日水曜日

モラハラで心が壊れかけた話

初めての心療内科

この事は書くべきか迷ったのだが・・・。

私が闘った記録でもあるので、このブログにも残しておこうと思う。

不調を意識し始めたのは別居から数か月が経過する頃だった。

ただそれもスイッチのオンとオフが切り替わるような明確なものではなくて・・・。

何となくおかしいな。

あれっ?眠れないな、何でかな。

という感じだった。

だけど段々と朝起きるのが辛くなって、気分も優れない時間が増えた。

私は元々朝が弱い。

目覚ましをかけてもなかなか起きることができない。

普段からそんな感じだったので、最初は起きれないこともそれほど気にしていなかった。

もっと早寝しなくちゃなーくらいに考えていた。

それが次第に日中にも異変が現れるようになり・・・。

ふいに涙が出てくることも。

何か特別なことがあったわけではない。

本当に突発的に涙が出てしまい、仕事中などはとても困っていた。

どうにかしなければ。

焦った私は、とりあえず民間療法を試してみることにした。

サプリなんかはお世話になったし、多少は効いていたように思う。

でも、気を抜いたらもっと悪くなってしまいそうな気もして、いつもよりも神経質になった。

そして段々と体調の波に振り回されるようになり、生活にも支障が出始めた。

毎日毎日自分の調子がどうとか考えるのは非常に疲れる。

ただでさえ離婚問題で頭を悩ませているのに。

こんな状態が続いて気持ちの方が参りそうになり、そこで初めて『心療内科の受診』を考え始めた。

この時真っ先に考えたのは、当時お世話になっていた先輩の家や自宅からは遠い場所が良い、ということだった。

切羽詰まっているのに何故そんなことを考えたのかというと、先輩に対しては心配をかけたくなかったからだ。

子どもに見られるリスクも減らしたかった。

自宅近くは、夫や義両親に見られて離婚関連で不利になることを恐れた。

特に親権には非常にナーバスになっており、絶対に隙を見せてはいけないと思っていた。

だから縁もゆかりもない場所にあるクリニックを選び、予約を取った。


優しい言葉に涙

当日は仕事を休んで向かった。

受付を済ませ、待合室で待っている間もソワソワ。

落ち着かなくて変な緊張感もあり、何故かドキドキして逃げたくなった。

だけど、じっと耐えて自分の順番が来るのを待った。

待合室に居る人自体は少ないのだが、一度診察室に入るとなかなか出てこない。

予約時間を過ぎても呼ばれなくて、一度外の空気を吸いに行こうかと立ち上がった瞬間に順番がまわってきた。

話を聞いてくれた医師は、私の想像とは違っていた。

もっと冷たい感じのする医師がビシビシと原因を追究するための質問なんかをしてくるんだと思ってた。

でも、とても優しい雰囲気の医師だった。

だから話しやすいはずなのに、その日の私はなかなか言葉が出なくて固まってしまった。

次の人も居るし、早く何か言わなきゃと焦れば焦るほど言葉が出ない。

医師も困っていたと思うのだが、

「ゆっくりで良いですよ」

と声をかけてくれた。

その声を聞いて少し安心した私は、何度か深呼吸。

その後、ようやく今困っていることを伝えることができた。

ここまでで、実は予約時間のかなりの部分を費やしてしまっている。

それなのに急かすことなく、じっくりと聞いてくれた医師には感謝しかない。

その日は、離婚問題に苦労していることまで話した。

受診を終えて再び待合室に戻り、お会計&次回の予約を済ませて終了。

結局お薬は処方されなかった。

「もう少しお話をしてみて、お薬が必要かを判断しましょう」

と言われた。

2025年9月23日火曜日

進級時にはお金が飛ぶように消えていく・・・

同情するくらいなら出て行ってくれ

季節はゆっくりと春へと移り変わり、私たちは進級の準備に追われていた。

入学時には驚くほどのお金がかかるが、進級時も侮れない。

地味にダメージを与える出費が続き、お財布の中身を心配しながら過ごした。

私にとって、こんな風にお金がかかることも実は幸せだったりする。

それって子どもと一緒に過ごせているということだから。

以前、夫に子どもを連れて行かれた時には絶望した。

『もう自分の人生には何も残って居ない』と全身から力が抜け、何をする気力も起きなかった。

あの時、気持ちが回復する前に本能から子どもを取り戻そうと動き始めた。

頭を使って理性的に、というよりは本能だった。

こんなことで諦められない。

何も無くても良いから子どもと一緒に居たい。

ただ、それだけだった。

その時を思えば、少々お金がかかることくらいわけない。

と言っても、子どもが望むものを全て揃えてあげられなかったのだけれど。

とにかく、私にとってかけがえのない時間だった。

毎年そのタイミングになると、『やりくりどうしよう』という感じだったから。

夫も気づいていたようだ。

春だから出費がかさんで懐具合が厳しいんだな、と。

それで、わざわざ

「お金大変でしょ」

と言ってきた。

しかも、

「家出なんてしなければ良かったんだよ」

と意味不明な説教をされた。

離れて暮らす子どもが新しい学年になるのだから、普通は子どもの様子を気にかけたりするんじゃないの?

それが、また『お前の自業自得でお金が無いんでしょ。反省した?』という話になるなんて。

いつもはスルーできるのに。

この時は何故がとてもショックを受けた。


また洋服が小さくなったね

子どもは着実に成長していた。

また洋服が小さくなったね。

そんな会話が増えた。

一緒に買いに行って、楽しくショッピングして、時々は外食も。

傍から見たら十分幸せそうに見えたと思う。

だけど、外に出ると家族連れが羨ましくて眩しくて仕方がなかった。

無性に悲しくなり、涙ぐむことも・・・。

それを子どもに悟られたくなくて、わざと明るく振舞った。

そしてどっと疲れるという無限ループ。

実はこの頃、こっそり心療内科を初めて受診した。

ふいに涙が出てくることがあったり、将来を考えると不安で眠れない日が続いたから。

誰にも見られたくなくて、縁もゆかりもない場所のクリニックを選んだ。

仕事の昼休みに予約を取り、平日仕事に行くフリをして受診。

待っている間も、色んなことを考えて頭の中がグルグルしてしまったが、いざ診察室に呼ばれたら貝になった(笑)

医師も困っただろうな。

話を聞こうとしたらダンマリなんだもの。

私も色々話したいことがあったのに、言葉が出て来なかった。

焦れば焦るほど言葉が出なくなり、そんな私を医師が優しく見守ってくれた。

2025年9月22日月曜日

お義父さんが就職し、独りで暮らすことになった夫

独り暮らしの不安

元々は、私たちが家を出た後一人で暮らすのが不安だからとお義父さんに来てもらった。

お義父さんの都合の悪い時には代わりにお義母さんが来ていた。

だけど、お義父さんの就職によってそれができなくなった。

家計を考えるとそれ以外の選択肢は無い。

お義兄さんや夫が働けるのなら話は別だが、二人とも動く様子は無かった。

夫は一度再就職できていたし、やる気になれば働ける状態だったはず。

でも、一人になった途端、

「体調が悪くて独りで居るのがシンドイ」

とアピールしてきた。

こういうところが信用ならない。

本当に具合が悪いというのなら仕方がないが、きっとそうでは無かった。

だって、友だちと飲みに行っていたし遠出もしていたのだから。

それならば義実家に帰れば良いと思って、

「実家に戻れば?」

と言ってみたら即却下された。

お義兄さんが居るから自分の部屋が無いのだそうだ。

辛い辛いと言うけれど、生活費なんて負担してもらっていなかった。

『お前らが出て行ったのが悪い』と言われても、こっちが文句を言いたいくらいだった。

だけど一言でも何か言えば何十倍にもなって返ってくるから黙っていた。

その代わり、

「申し訳ないけど何もしてあげられない」

と伝えた。

期待されても困るから、けん制したつもりだ。

どこからか話を聞きつけた子どもが、

「パパ、一人なの?」

と質問してきた。

「そうだよ」

と答えたら複雑な表情になったので、

「もしかして可哀そうだと思ってる?」

と聞いたら首を横に振り、

「こっちに色々言ってきたらヤダなぁと思って」

と言った。

これが子どもの本心だ。

夫の元に戻る可能性なんて1mmも無いのだ。


いつの間にか友だちが集まるように・・・

心配した夫の友人たちが頻繁に集まるようになった。

一応私の借りている部屋なので、その動向は常に気にしていた。

たまり場になって夫が居心地の良さを感じてしまうと家を出ていく日も遠くなるかもしれない。

そんな不安を抱きつつも、表立った行動はできずにいた。

もし指摘したら、

「お前が何もしてくれないからだろ?」

と正当化してくるに決まっている。

非難されることが分かっているのに口を出すことなどできなかった。

お義父さんの方は仕事を始めてから少し生き生きしてきたように感じ、ホッとしていた。

やっぱり家にこもって考えるよりも外に出て気が紛らわせた方が良いのだと思う。

お給料が入り、義両親二人分の年金もある。

何とか義実家の生活は立て直されているように感じた。

夫は私のお給料も当てにしていたのだが、それは気づかないフリをした。

気付いている素振りを見せてしまったら、それこそ無視できなくなる。

だから鈍感なフリをしてやり過ごした。

それにしても、30代の息子が二人も居るのに未だに稼ぎ頭が定年後のお義父さんだなんて・・・。

正直言って大変な事態だ。

夫やお義兄さんが危機感を感じなければいけない状況で、何故か私が一番ヤキモキしていた。

自分でも損な性格だと思うのだが、そういうのを見ると放っておけない気持ちになる。

ただ、状況が状況なだけに私が動くのは得策ではないから、じっとその動向を窺がった。

結局大きな動きもないまま、春を迎えようとしていた。

2025年9月20日土曜日

定年後の義父が義家族を支える形に・・・

再就職したお義父さんの収入だけが頼り

義両親にとっては想定外だったに違いない。

もうずい分前に手を離れたと思っていた子どもたちの面倒を見るなんて。

30を超えてから色んなことがあり、無視できない状況になった。

収入だって兄弟のどちらも安定しないから稼ぐしか無かった。

65歳を過ぎたら年金があるんじゃないの?と思ったが、どうやら足りなかったようだ。

それに、老後の資金も貯め直す必要があった。

普通なら文句の一つも言いたくなるような状況だ。

でも、お義父さんはそのことについて一切文句も言わず働き始めた。

現役の頃のように朝出勤して夕方に帰る生活。

帰りは多少早いと言っても、若い頃より疲れていたと思う。

そうやって頑張って何とか立て直そうとしていたのに、息子二人はのらりくらりと過ごしていた。

父親が何とかしてくれるから大丈夫とでも思っていたのだろうか。

エリートだったはずのお義兄さんまでなかなか職に就けず。

夫は夫で再就職できても文句ばかり。

やっと就職できたと思ったら、あっという間に辞めた。

そうなるともう、お義父さんの収入だけが頼りだった。

それとお義母さんの年金かな。

それを合算して家計を回していた。

大変な素振りも見せなかったのは素直に凄いと思う。

息子たちの再就職を急かすことも無く、何なら仕事の話もしなかった。

あれだけ親がしっかりしていると逆に子どもがダメになるのかも。

とにかく二人は親に頼り切りで、いつまで経っても子どもだった。


私も働き手として期待されていた

あんな状態だから、私も実際には働き手として期待されていた節がある。

そりゃー私だって夫があんな人でなかったら協力したかった。

大学卒業後、産休と数か月の育休以外はずっと働いてきたんだから。

働くこと自体にも抵抗が無かった。

だけど、夫とは離婚の話し合いの真っ最中で別居もしていて、もう私にできることは無かった。

せめて子どもに会える環境なら良かったのに、それも無理そうだった。

お義父さんからすれば、頑張って働いて家族を養っても、そこに喜びや楽しみが無かった。

ただ『今月も無事に過ごせた』とホッとするだけ。

それが可哀そうで、夫が改心してくれることを願ったが叶わなかった。

兄弟の仲だってお世辞にも良いとは言えず、お義父さんが体調不良の時でも気遣う様子もない。

口では『大丈夫?』とか言うんだけど、それだけなのだ。

そんな殺伐とした環境を夫が報告してくることが多かったのだが、私は内心呆れていた。

いつもお義兄さんのことを言うけれど、自分だって同じだ。

むしろ機嫌が悪い時の夫の方が態度が酷いかもしれない。

それを、あの兄弟はお互いに『アイツが悪い』と言い合ってるんだから話にならない。

お義母さんはと言うと、お義父さんを支えようと必死だった。

働いているということは、家に居る人もそれに合わせて生活するということだ。

職場に迷惑をかけないように体調にも気を配り、早寝になった。

はっきり言って老後の生活とは程遠いのだから、『大丈夫かな』と気遣うのが普通だろう。

だが、夫やお義兄さんは、

「うちの親、年齢の割に丈夫だから」

と自慢していた・・・。

その様子はまるで『丈夫だから働くのも苦にならない』とでも言いたげで。

義両親の気持ちを考えると心が重くなった。

2025年9月19日金曜日

再就職先を探し始めたお義父さん

退職後は悠々自適な生活のはずが・・・

長く勤めた会社を退職したお義父さん。

大手だったし退職金も入ったから、その後は悠々自適な生活を送れるはずだった。

でも、息子二人が働いたり働かなかったりして。

予定通りにはいかなくなった。

特にお義兄さん関連では家の売却後もローンが残り、かなりの負担を強いられた。

しかも、退職金が入るのに合わせて義実家のリフォームまでしてしまった。

それもちょっとしたものだったら問題無かったんだけど。

義両親が選んだのは大々的なリフォーム。

大金が飛んで行った。

少し世間知らずな所のある二人。

営業さんの言いなりで、気づいたら1階から2階までほぼすべての箇所をいじるような内容になっていた。

決まってから二人はお互いに責任を擦り付け合っていた。

お義父さんは、

「お前が勝手にどんどん決めちゃうから」

と言い、お義母さんは、

「ああいう時に限ってお父さん何も言わないんだから」

と文句を言った。

どっちもどっちだと思うけど、確かに普段からは考えられないくらいお義父さんは意見しなかった。

だから渋々お義母さんが前面に出て話し合いをしたのに。

後出しじゃんけんのように文句を言うのは違うんじゃないかと思った。

こんな話をすると、お義父さんて案外気が弱い?と思われるかもしれないが、そうではない。

買い物に行った時が良い例だ。

目に付いた商品を手に取り、粗探しをして、

「ちょっとまけてよ」

と言うことも少なくない。

一度言って断られたら引き下がれば良いのに、諦めずに何度も値引きを打診する。

ああいうのを見てると本当にメンタルが強いなぁと思う。

しかも、交渉の仕方もしつこくて強引だ。

相手が断っても『何とかならないの?!』って詰め寄るんだから。

私が店員さんだったら圧に押されて何も言えなくなっていただろう。

普段のそんな姿を知っているから、お義母さんに丸投げのような形になっていると知った時には驚いた。

あの退職金が残っていれば・・・と後悔しても後の祭りだ。


老後資金も使い果たし、仕事探しを始めたお義父さん

大手の社員だったお義父さん。

退職後も少し勤めていたが、金銭的に余裕があったようで1年くらいで辞めた。

辞めた後はのんびり。

孫を見に来たり、買い物に出かけたり。

旅行にも何度か行っていた。

お土産を手に我が家にやってきて、子どもの喜びそうなお菓子も持ってきてくれた。

だけど、その後色んな問題が出てきて、あっという間に貯金や退職金を使い果たした。

全部すっからかんという訳ではないと思うが、ほとんど残っていないだろう。

当てにしていた老後資金も使い果たし、将来への不安を感じ始めたお義父さん。

『このままでは大変だ』と職探しを始めた。

定年後だからあまり多くは無いが、それでも60代可って結構ある。

多分、選り好みしなければすぐにでも決まったのだと思う。

でも大手勤めだったプライドもあるのか納得のいく職場がなかなか見つからなかった。

その間、息子が再び無職になったり、もう一人も相変わらずの体調だったりで。

「何でこの年でこんな苦労をしなくちゃならないんだ」

とよくぼやいていた。

お義兄さんなんか、

「俺はもう仕事できる気がしない。ずっとこんな感じで行く」

なんて弱気になっていて、気力も無いようだった。

そうすると、もう皆の面倒をまとめて見られるのはお義父さんだけになる。

結局、最後は自宅に近い職場を見つけて働きに出ていた。

条件を妥協してでも働き始めなければならなかった、という状況がもう・・・。

そんな中で夫があっさりと長いブランクの後でも雇ってくれた会社を辞めた時、何を思ったかな。

心の中は嵐が吹き荒れていたかもしれない。

でも、表面上は全くそんな素振りも見せず、淡々と対応していた。

2025年9月18日木曜日

別居に大反対の義両親

夫の引き取りを拒否

一緒に居る頃、私や子どもへの嫌がらせは日常茶飯事だった。

それに耐えかねて義両親に相談したことも。

だけど我慢するように説得された。

他に相談する相手も居ない。

何とか騙し騙しやっていくしかないか・・・。

そう思い直したが限界を感じるような出来事が何度も起こり、とうとう義両親に

「しばらく(夫)さんを実家の方に住まわせていただくことはできませんか」

とお願いした。

その時だって当然の権利のように伝えたわけではない。

義両親も困るだろうと思いつつ『何とかならないだろうか』と懇願するような感じだった。

申し訳ない気持ちで伝えたその言葉は、あっけなく却下された。

「一緒に居なければダメになってしまうと思うんだよなあ・・・」

というのが二人の言い分だった。

そんなこと言ったって、こちらはもう限界なのに。

『夫婦は一緒に居るべき』という意見を最後まで曲げなかった。

そこからはもう、どうしたら納得してもらえるかという事ばかり考えた。

義両親、特にお義父さんは夫と私が一緒に居なければならないという思いが強くて。

離れることは関係破綻への第一歩と捉えていたようだ。

既に関係なんて破綻していたと思うのだが。

お義父さんからすれば一緒に居る間はまだセーフだったのだろう。

はっきり言って、あの頃の私たちが一緒に居る意味なんて無かった。

むしろ新たな被害を生み出さないためにも早く離れるべきだった。

ただし、それも協力者が居ないとなかなか難しくて。

賭けのような気持ちで相談したら頑なに拒否された。

「離れたら駄目になる」

と繰り返し言われ、結局なあなあで終わった。


「許してやって」という言葉はずるい

夫関連の話をする時、二人はよく

「許してやって」

と言った。

その言葉は寛容になれない私を責めているようで何だか居心地が悪かった。

『息子を見放さないで』という気持ちも見え隠れしていて、

「分かりました」

と言ってあげられないこともストレスになった。

だけど、よく考えたら『許してやって』と言うのはずるいと思う。

私たちは被害を受けた側だ。

何をされても許せるわけではない。

加害者本人が言うのももちろん論外だが、その親が許しを請うのもおかしな話だと思う。

ずるいとは思っていても義両親の気持ちだって少しは分かるから、強く拒絶することができなかった。

別居もできない。

逃げる方法も無い

無い無い尽くしで途方に暮れた。

それならば、これからどうやって夫のモラハラ虐待から逃れれば良いのか。

悶々と悩んでいたら、義両親はそれ見たことかと言わんばかりに

「だから同居すればある程度は収まるって言ったんだよ」

と言い放った。

あの後、私たちが本当に家を出ることになって少しは後悔したかな。

本気で聞こうとしなかったのは、結局二人とも重く受け止めていなかったからだ。

2025年9月17日水曜日

家を出る前、義両親に別居の相談

一緒に暮らすのは限界だった

私たちは突発的な出来事により家を出た。

夫との生活は非常に苦しく辛いものだったので、心の中ではある程度の準備はできていた。

ただそれは漠然とした思いであり、具体的なことなど何一つ決まっていなかった。

毎日夫の機嫌を窺がいながらの生活。

心休まる時間も無い。

何度も限界を感じて義両親にも相談したけれど、

「夫婦の問題は夫婦で解決して」

と突き放された。

こんなこと他の人には話せない。

唯一話せるのは現状を知っている義両親だけなのに。

その義両親にも突き放されたら一体誰に相談すれば良いのだろうかと悩んだ。

不満を抱えながらもギリギリのところで踏ん張っていたある日、心がポキンと折れるような出来事が起きた。

そう。

あの家を出た日のことだ。

多分、あの事が無かったとしても夫とは別れていたと思う。

どんなに強い意思を持っていても気力というのは永遠には続かない。

愛情や思いやりという補充もなく、ひたすら削り取られるだけの生活。

救いが無かった。

段々と追い詰められた私は、夫と離れて生活することを夢見るようになった。

ここに夫が居なかったら・・・。

一瞬そんな生活を想像して幸せを感じられても、目を開けば夫はいつもそこに居る。

家という閉鎖的な空間で傍若無人に振舞っている。

現実をそのまま受け入れるにはあまりにも辛くて、想像の中に逃避した。

そして、『早く今日が終われば良いのに』と思いながら布団に入った。


ネットで相談の書き込み

現実的に相談できる相手が居なかった。

だけど自分の中だけで消化できなくて。

思い切ってネット上の顔も知らない人々の意見を聞くことにした。

ああいう類の物は無責任なことを言う人も大勢いる。

それを差し引いても誰かに聞いて欲しかった。

最初にレスがついたのは、書き込んでから数時間が経過した頃だった。

当たり障りのない内容ではあったが、私のために助言をしてくれているということが嬉しかった。

気を良くした私は新しい書き込みがないかを頻繁にチェックするようになった。

次々と書き込まれるレス。

その内容に喜んだり落ち込んだり。

中には親身になって考えてくれる人も居て、一人感激して涙ぐんだりもした。

モラハラを私のせいだと言い切る意見にはショックを受けた。

あれが全て私のせいだなんて、そんなバカな話ある?と思ったけど。

書き込みは自由だからね。

よほど酷い内容でなければ、それも含めて覚悟した上で相談しなければならない。

結局、それらのレスの中から『別居』のアドバイスに心動かされ、義両親に相談することにした。

と言っても、まさか『ネット上で相談したらこんな助言があったよ』とは言えないので。

「精神的に参ってしまって、しばらく離れたいんです」

とだけ伝えた。

少し離れたら、また違った見方ができるのではないかと期待した。

夫にしても、私たちへの酷い仕打ちを反省する良いきっかけになるのではないかと思った。

2025年9月16日火曜日

夫の執着心と仕事との相関関係

しつこいメッセージは無職になったことが関係?

厄介な夫の執着心だが、常に一定というわけではない。

『薄れているな』と感じることもあれば、『かなり執着されている』と感じることもある。

こちらへの興味が薄れている時、私はいつも安堵した。

このままどんどん薄れて行ってキレイサッパリ忘れてくれるかもしれない。

どうでも良くなって、むこうから関係を絶つかもしれない。

そんな希望を抱いた。

だけど、そう思っていても急にしつこい連絡が復活してガッカリしてしまう。

多分色んな要因があるんだろうけど。

後になって気づいたのは、仕事をしていると通常モードより薄れるということだった。

それまで長らく仕事をしていなかったので分からなかった。

実際に仕事に入ってみると他に気になることが多かったのか、こちらへの連絡は減った。

執念を感じるようなメッセージも減った。

だから仕事はずっとしていて欲しかったのに。

夫は復帰後最初の仕事をあっさりと辞めた。

それもたったの数か月で。

真夜中のポエム調メッセージはそれと関連しているのかもしれないと思った。

仕事を辞めて他に気になることが無くなったから意識が私たちに集中してしまっているんじゃないかと・・・。

でも、それってお互いに不幸だと思う。

夫がしつこく連絡をしてくるたびに、どんどん嫌いになる。

もうこれ以上無いという位に嫌いだと思っていたけど、まだ底があることに驚かされた。

地に落ちた愛情はもう復活することは無い。

ああいった言動により夫自身が自分の立場を悪くしているというのに。

そんなことにも気づけないなんて、つくづく自分の気持ちにしか興味のない人なんだなと感じた。

もしかしたら力づくで自分の元に連れ戻せるという自信が未だにあるのかもしれない。

無職になってから徐々にエスカレートしていったメッセージには、正直恐ろしさしか感じなかった。

それまで少しだけあった『可哀そう』という同情心や応援する気持ちもゼロになった。

脅されて好意を持つ人なんて居ないんだから当たり前だ。


離れてもなおコントロールしたい夫

いつまでコントロールし続けられると思っているのか。

これは、ずっと疑問に感じてきたことだ。

家を出て数か月はそんなことを考える余裕も無かった。

でも、段々と落ち着いてきたら自分の置かれた状況を理解できるようになり、夫がしようとしていることも手に取るように分かった。

いつまでも自分の支配下で思いのままに操りたい。

そういうことだと思う。

それまでは人からその歪さを指摘されてもピンと来なかった。

というよりも、『この人は一体何を言ってるんだろう』と逆に不審に思ったりもした。

既に洗脳状態だったのかもしれない。

洗脳されると、周りがいくら助言してくれても耳に入らない。

無意識のうちに相容れない意見は排除しようとしてしまうから、その支配下から抜け出せなくなる。

あの日家を出ることができたのは、ある意味奇跡だったのかも。

私の中でほんの少し残っていた夫への不信感が背中を押してくれた。

子どもの手を引いて走った時、もう二度と捕まりたくないと思った。

結婚してから初めて『夫から逃れたい』という思いを本気で実感した瞬間だった。

同じような環境で我慢している人も大勢いるだろう。

逃げられた人とそうでない人の違いって実はそれほど多くは無くて。

何かきっかけがあれば運命は大きく変わるのだと思う。

ただ、実際に逃げ出そうとする時には一生分の勇気を振り絞らなければならないし、後先のことを考えていたら身動きが取れない。

私たちも決死の脱出だった。

2025年9月14日日曜日

警戒しながら子どものお迎えに

学校が終わった後の約束事

朝は校門まで送っていたので心配は無かった。

問題は帰りだ。

私が着く前に子どもが外に出てしまい、夫に連れ去られたことがあった。

あの時はもう子どもに会えないんじゃないかと絶望した。

何とか取り戻すことができたけど、同じ失敗は二度としたくないと思った。

夫からのメッセージを見て再び警戒心を強めた私は、子どもに

「ママが迎えに来るまで校門の外に出ちゃだめだよ」

と伝えた。

夫がいつ来るか分からないのだから、用心するに越したことは無い。

子どもは、

「うん、分かった」

と言ってから少し不安そうな表情になり、

「またパパが来るの?」

と聞いてきた。

本当は安心させてあげたいが、子ども自身も警戒しないと身を守れないかもしれない。

あまり深刻な感じにならないように気を付けながら、

「もしかしたら来るかもしれないけど、中に居たら大丈夫だよ」

と答えた。

あの人は、校門の中にまでは入れない。

多分自分のやっていたことを分かっているのだ。

あれは虐待だったという認識があり、後ろめたい気持ちがあるのを感じていた。

でも、私たちの手前それを表に出すことはできないから、

「虐待なんかじゃない。お前は大げさだ」

と言っているのだと思った。

それからしばらくは、毎日同じ時間にお迎えに行けるように仕事を調整してもらった。

毎日不安になりながら小学校に向かい、子どもの顔を見るとホッとした。


帰り道も周りを警戒しながら歩いた

迎えに行って子どもと合流した後は二人で駅まで歩いた。

いつもなら一緒に歩く時にはたくさん話をして楽しい時間だ。

でも、この時は警戒して夫が居ないことを確認しながらだった。

人通りの少ない道はできるだけ避け、普段通らない道をあえて歩いたりもした。

それでも100%安全ということはない。

人が背後から近づく気配を感じるとビクッとして振り向いたり、道の向こう側によく似た人を見つけて咄嗟に隠れようとしたこともあった。

そんな風にビクビクしながらの生活だったわけだが。

隣を歩く子どもの笑顔を見るたびに、『あ~幸せだな~』なんて思ったりもした。

かなり追いつめられた状況であるにもかかわらず『幸せ』だなんて。

ずい分呑気な人だと思われるかもしれない。

でも、厳しい状況だからこそ日常の些細なことで幸せを実感できた。

ただ、不安で気が張っていたことも確かで、やがてそれは子どもにも伝染して段々と不安がるようになった。

外に出たら周りをキョロキョロと見回し、パパが居ないことを確認してホッとする。

そんな毎日だった。

ところで、この頃子どもたちのやり取りを聞いていて驚いたことがあった。

まだまだ幼いと思っていたのに、一緒に校門から出てきたお友だちが子どもに向かって

「先に周りを見てから出た方が良いよ。ヤバくなったら交番に行きな」

と言っていた。

その口調があまりにも大人っぽくて、思わず感心して

「すごいね!」

と言ってしまった。

そうしたら、その子は少しはにかんだ笑顔になり、軽く会釈した後小走りで去って行った。

2025年9月13日土曜日

真夜中に届いた長文のメッセージ

執着心を消し去る方法を教えて

いつも通り日付が変わる前に眠りについた。

普段はすぐに寝入ることが多い。

多分疲れもあるとは思うんだけど。

夫が一緒に居ないということも大きい気がする。

一緒に居た頃は横になってもなかなか寝付けなかった。

せっかく寝入ることができても夜中に目を覚ましてしまったりして。

ストレスは睡眠にも影響を及ぼすようだ。

別居後はそんな生活ともオサラバして快適だったので、すっかり忘れていた。

眠り始めてからどれくらいの時間が経過した頃だろうか。

急に枕元に置いていた携帯が鳴り、私は目を覚ました。

半分寝ぼけながら音の鳴る方へと手を伸ばし、眩しさに目がくらみながら確認すると夫からだった。

私は開いたことを後悔した。

長文のメッセージで埋め尽くた画面。

ぎっしりと並んだ言葉。

それらの衝撃は、寝ぼけた私の目を覚まさせるのに十分だった。

メッセージを見た途端、手が震えて心臓がバクバクと音を立てた。

怖い・・・一体何なの?

この時、それ以上見ずに画面を閉じてしまえば良かったのだ。

でも、まだ頭が覚醒して居なかったので反射的にその長々としたメッセージを読んでしまった。

読んだらもっと眠れなくなった。

ポエムみたいな文章なのもゾッとした。

多分あれを見たら誰もが同じ印象を抱くと思う。

夫は完全に自分の世界に入り込んでいて、私が夫に会いたがっていることになっていた。

どういう脳内変換が行われてそんな考えに至ったのかは分からない。

ただ、相手も同じ気持ちだろうという思い込みが強過ぎて、かなり引いた。

決めつけはいつものことだけど。

その時の文章はそれだけでは無かった。

会えない状況に君も苦しんでいるだろうから何とかしてあげたい。

そんなメッセージを送ってきた夫のことを心の底から怖いと思った。


早朝まで続いたメッセージ

夫からのメッセージですっかり目が覚めてしまった。

しかも、一通では終わらず連続で送りつけてきた。

夫のおかしな行動はいつものことだから慣れているつもりだったけど。

この時は何とも言えない暗い気持ちになった。

翌朝になり、寝不足なのに目が変に冴えていて。

仕事に行く時間になっても眠気を感じることは無かった。

『またメッセージが来たらどうしよう』

ただただ、そればかり考えていた。

最初に既読を付けてしまったのがそもそもの失敗だ。

アワアワしていたら次から次へと送られてきた。

呆然としていると、今度は

「すぐに読んでくれて嬉しい」

というメッセージが届き、そこからスルーするのが怖くなった。

もう既に見てしまったことがバレているのにスルーしても大丈夫なのだろうか。

逆切れされないかな。

迷っているうちにもどんどん送られてきて、物凄いスピードで打っていることが分かった。

その内容もこちらが思考停止してしまうようなものばかりで・・・。

夫が二重人格なのではないかと思ったほどだ。

私から離婚を突き付けられている夫とは別にもう一人居るんじゃないか。

あるいは夫の中に別人格が?

そんな風に考え始めたら何が何だか分からなくなった。

暗闇の中で携帯を見つめていると悪い想像ばかりが浮かんでくる。

それで恐怖心から呼吸が乱れてしまい、私は慌てて電気を点けた。

テレビの電源を入れると、そこにはいつも通りの日常が流れていた。

それを呆然としながら眺めているうちに現実へと引き戻された。

2025年9月12日金曜日

何とか2か月勤務した後に退職した夫

義両親さえも呆れていた

会社から言われたことを渋々了承した夫。

指示通り、抱えていた案件を終わらせてから辞めた。

と言っても、丸々2か月かかったわけではない。

1か月が経過する頃にはだいぶ先が見えてきたようで、

「余裕だわ」

と言っていた。

それならば、なぜあんなにも頑なに拒んだのか。

その程度で終わるのなら、もっと快く引き受けることはできなかったのか。

普段から人のために動くことがほとんど無い。

損をするのが大嫌いだ。

だけど、相手には自分を犠牲にしてでも尽くすことを求める。

それが当たり前だと思っているから余計に質が悪い。

結局、退職する日だって1か月延びただけだった。

次の仕事が決まっていたわけでもない。

この件では私も話を聞かされて嫌な思いをしたが、一番振り回されたのは義両親だった。

ずっと愚痴を聞かされ続け、『そうだよね~』と理解している素振りを見せないと途端に不穏な空気に。

機嫌が悪くなると厄介だから反論もせずに肯定し続けたようだ。

内心は呆れているのを悟られないようにするのって本当に大変。

そのはけ口が以前は私だったんだけど。

別居してからは意識的に連絡を絶った。

癒しだった孫とも会えず、ただひたすら息子の聞き役に徹した義両親。

ある時お義母さんから、

「(夫)の話を聞いてやって欲しい」

という連絡が来た。

愚痴というのは人を不快にさせるから、聞き続けるのもとても大変だ。

自分には関係のないことであっても、ずっと聞いていると心が疲れてしまう。

お義母さんはよほど疲れたのか、いつもは言わないのに、

「もうウンザリ・・・」

と言っていた。


働いたことで更に自信を深めた夫

お義父さんやお義母さんが夫を甘やかしすぎな気もした。

いつでも味方で居てくれるというのは子どもにとって心強いけど・・・。

正しくない時にはきちんと教えなければならない。

それをしないから自分勝手な行動ばかりするのではないかと思うことがあった。

まぁそれも大人になってからやるべき事では無いけど。

就職の件は、どんなにブランクがあっても職に就けるという証明になってしまった。

元々高い鼻が更に高くなり、周りを見下すように。

誰にでもできる仕事に固執する奴はバカだ、とか。

長時間拘束されるような仕事を選ぶのは能力が低いからだ、とか。

私への当てつけのような発言も増えた。

長い間夫に虐げられてきたので、この程度のことを言われても凹まない。

『そうだよね~』という程度にしか思わないので、それも面白くなかったみたい。

もっと凹ませたい。

言葉の端々からそんな気持ちがにじみ出ていた。

人を傷つけたいというのも、ある意味病気だと思う。

常に誰かを傷つけたり貶めることで自分の存在価値を高めるというのが、そもそも理解できない。

理解はできないけど、長年接していたら私にもある変化が起きた。

元々超がつくくらいのんびりした性格だったのが、ややせっかちになった。

夫に急かされるからだと思うんだけど、何かやる時に『急がなきゃ』と思うことが増えた。

それで必要以上に疲れてしまう。

2025年9月11日木曜日

夫、退職のタイミングで揉める

会社からの要求

退職願を出した後、夫は会社からいくつかのことを要求された。

一つは、現在抱えている案件に関し、責任を持って最後までやり遂げること。

もう一つは、引継ぎをしっかりやること。

どちらも当たり前と言えば当たり前の話だ。

引継ぎに関しては、

「引き受ける人が決まるまで少し待って欲しい」

と言われ、待ちの状態になった。

夫は『案件を終了させてから辞めて』と言われたことに腹を立てていて、

「どれくらいの期間があれば終わりそうなの?」

と聞いてみたら、

「2か月くらいかな。まだまだかかるよ」

と言っていた。

その時は体調だって悪くなかったし、やる気になればできる環境だった。

それなのに、たった2か月を渋るなんてどういうこと?と思い、

「2か月くらいの仕事なら引き継ぐよりも終わらせた方が効率良いね」

と言ったら、

「こっちの2か月は凄く大変なんだよ!お前みたいな楽な仕事じゃないからな!」

と逆切れされた。

大変だろうが何だろうが、この場合は責任を持ってやるべきだと思う。

会社への要求はするくせに、何か求められても得にならなければやらないんだから。

別居という大きな経験を経ても何も変わってないんだなぁと落胆した。


大幅な譲歩を引き出した後も不満を持ち続ける夫

元々ほぼテレワークだった。

朝、始業直前に起きれば業務に間に合う。

終業時間になり、PCの電源を切ったらすぐにプライベート時間だ。

毎日出勤している私からすると非常に恵まれているように見えた。

それでも、始業から終業までの拘束時間が長いという不満を漏らしていて、

「1日5時間くらいなら楽なんだけどな」

なんて言っていた。

会社側は夫から丁寧に聞き取りを行い、出来うる限りの譲歩をしてくれた。

例えば業務の時間が長すぎるという不満に対しては、就業時間は問わないと言った。

つまり、自分の好きなタイミングで仕事をして良いということだ。

乗っている時にはたくさんやれば良いし、今日はイマイチだなと思ったら働かない日があっても良い。

成果物さえきちんと出してくれるのならOKという条件が提示された。

それなら夫も快諾するだろうと思っていたのだが、

「1か月前ルールに則って退職を伝えたのに。なぜ希望通りにしてくれないのか」

とゴネた。

その会社に入る時には、

「残業も全然やります!」

なんて言っていたのに詐欺だよね。

後から聞いたのだが、仕事に対してというより待遇に不満があったらしい。

給与とかポジションとか。

そういうのに非常に拘るタイプなのだ。

色んな譲歩をしているのに文句ばかり言うものだから。

会社は困って、どうしたものかと頭を抱えた。

社内に余っている人はおらず、引継ぎをする相手の確保も難しい状況で。

夫は自分が割り振られた仕事さえも途中で投げ出そうとしていた。

困っている会社の人たちを見ても何も感じないのか終始他人事。

人への共感性が乏しいという所も夫の特徴だが、その様子を見ているとまるで宇宙人みたいだなと感じた。

2025年9月10日水曜日

夫、辞表を出す

たった数か月で辞めた

ずっと辞めたいとは言っていたが・・・。

ただ単に愚痴を吐きたいだけなんだと思っていた。

いつかは辞めるとしても、それはもっとずっと先の話。

流石にたった数か月では無いだろうと踏んでいたのに。

夫はあっさりと辞表を提出した。

あんなにブランクのある人を雇ってくれる所なんて滅多に無い。

スキルだって中途半端だし、意欲もあるとは言えない。

しかも、ちょっとしたことで周りに敵対心を抱くから使いにくかったに違いない。

正直もう正社員の仕事は無理かもしれないな、と思っていたところに舞い込んだ内定の知らせだった。

あの時は私の方が感激してしまった。

もっとも本人は就職活動をし始めた頃から自信満々で、自分が選ぶ側だといわんばかりの態度。

そんなに自信があるのならスキルも凄いに違いないと思われた可能性もある。

とにかく、私なら恩義を感じてしまいそうなその会社に対し、夫は不満しかなかった。

俺はもっと評価されるべき。

周りが駄目だ。

あんな会社なら俺がトップに立った方が上手くまわる。

聞いているこちらが恥ずかしくなるくらいの発言だった。

『どこの中二病よ』と内心思っていた。

常に周りを下に見ているから、特別扱いされなければ気が済まないのだろう。

それで思い通りにならないから辞めることにした、というところか。

威張っている割には行動が浅はかで、しかも独りよがりなのだ。

結局、復帰後最初の仕事は数か月で終わりを迎えた。


ジェンダー平等に目覚めた夫

なぜ男ばかり働かなければならないのか。

夫はそんな疑問を持ったようだった。

男だからとか女だからとか関係なく、働ける人が働けば良いんじゃないの?みたいな。

確かにそうだとは思う。

でも、そもそもあなたは働いていないではないか。

そんな大きなことを目指す前に、まず家庭内の不平等を是正して欲しかった。

この時、夫が何を言いたかったのかと言うと・・・。

恐らくだが『これからもお前が働いて支えてくれ』ということだと思う。

少しの間働いて、きっと嫌になったんだろう。

離婚に向けて話し合っている最中なのにね。

こんな茶番に付き合っている余裕は無かったので、

「もっと良い所が見つかるよ」

と言っておいた。

素っ気ない態度を貫いたので私に寄りかかれなそうだと感じたのか、夫は途端に機嫌が悪くなった。

当たられるかな?と身構えたら、すぐに元気が無くなり、

「俺はもう駄目だ」

と弱気なフリをした。

なぜフリだと思ったのかというと・・・。

夫はどんな時でもめげたりしないからだ。

自分は特別な存在だと思い込み、上手くいかないことは全部周りのせい。

何があっても自分は悪くないというスタンスを貫いた。

これが通常運転の夫であり、私が日ごろからサイコパス味を感じる部分でもある。

実は私がこの事に気づいたのは離婚した後だ。

話し合いを続け、あーだこーだしているうちには何も気づかなかった。

2025年9月9日火曜日

籍を抜いてなかったお義兄さん

離婚報告は受けていたが・・・

私たちの離婚協議が思うように進まない中、お義兄さんたちの離婚が決まった。

既に『別れた』と聞いていたので、届も提出したのだとばかり思っていた。

だが、その後の夫の話からまだ出していないことが判明した。

ああいうのって、出さなくても良いものなのだろうか。

奥さんは途中で仕事を辞めたりしていて、確か定職には就いていない。

一人で生活していくには心許ない状況だった。

それでも『一緒に居るよりはマシ』と言っていたから。

綺麗サッパリ別れたのだと思っていた。

お義兄さんに慰謝料を請求したり、家を売ったお金を全部寄こせと言ってみたり。

奥さん自身も荒れているなぁと感じる部分もあった。

結局は似た者同士なのかもしれない。

モラハラもお互いにし合っていたしね。

家を売れば大金が手に入ると考えたのだろうけど、それも期待通りにはいかなかった。

お義兄さんたちは支払いが滞ったために手放すことになった。

売却してもローンが残るという大惨事で、その残金をどうするかで揉めた。

もちろん奥さんに支払う意思はない。

というか支払い能力も無いんだとは思うけど。

もらうどころか『ローンの残金を助けてくれないか』と打診され、彼女は怒った。

当てにしていたお金が手に入らない。

その上、借金まで残る始末。

こういった事実が判明した後は更に揉めて、結局奥さんは再び姿を消した。

何かあると姿をくらますのはいつものことだ。

いきなり居なくなって、お義兄さんがやつれるほど心配していたこともある。

気が済んだらフラッと帰ってきて、何事も無かったかのように生活する。

そしてまた何かあれば居なくなる。

こうやって書くと奥さんの方に非があるように受け取られてしまうかもしれないが・・・。

実際のところ、どっちもどっちだと思う。

お義兄さんにだって自分本位なところがあったし、モラハラも酷かった。

あの二人の件で分かったことがある。

モラハラをする人って相手を選ぶと言うけど、相手もモラハラをする人ならどうなんだろうと気になっていたが。

主張の強いタイプ同士だと激しくぶつかり合って衝突するみたい。

実際に喧嘩も凄かった。


「離婚届は後でも良いのよ」

お義兄さんたちのケースを見ていたら、ああいった届を出さずになあなあで済ませようとする人たちも居るのだと学習した。

私は一刻も早く籍を抜きたかったから、了承を得られたらすぐに出そうと決めていた。

ただ、彼らのケースを見てお義母さんは『出さない選択肢』に気づいてしまったようで・・・。

「万が一離婚ということになっても、すぐに離婚届を提出する必要は無いのよ」

と言った。

そんなバカな、と思い

「こういうことはケジメが大事なので」

と反論したら気分を害したようで、

「離婚届なんて後でも良いのよ」

とやや強い口調で言ってきた。

あの時は私もムキになってしまったけど。

後から考えると実に馬鹿々々しい。

まだ夫が了承してくれてもいない状況でそんなことを言い合うなんて。

でも、届を出せない状況になるかもしれないと思ったら焦ってしまった。

そんなゾッとするような未来が一瞬でも見えてしまって。

一緒には暮らしていなくても籍が入ったままでは見えない鎖で縛られているよう。

その鎖を辿っていくと夫につながっていて簡単に引き戻されてしまう。

そんな不安が常にあった。

2025年9月8日月曜日

もう少し高い家賃を払えれば・・・方法を考えてみた

快適な住居を手に入れたい

不動産屋さんと話してみて自分の置かれた状況をよく理解できた。

部屋を借りるのに理想があっても、それを叶えるための財力が無い。

数か月のうちに驚くほどの昇給も見込めない。

物価が下がる気配もない。

まとまったお金が入る予定もない。

こんなにナイナイ尽くしの状況では、理想なんて語っている場合ではないのだと感じた。

ただ、妥協はするとしても譲れない条件がある。

正直、何でも良いと考えているのならすぐにでも引っ越し先を確保できそうだった。

そうじゃないから難しいわけで・・・。

こんな時、夫が相談できる相手なら良かったのにと思ってしまった。

あの人はいつも自分のことばっかり。

現に私が部屋探しを本格化させようとした頃も全く期待できなかった。

おばあちゃんのこともあったから、心ここにあらずの状態でも仕方ないんだけど。

こういう話をすると、よく

「相談できるような人だったら離婚なんて話になってないんじゃない?」

と言われる。

本当にその通りだ。

私は一体夫に何を求めているのだろう。

せっかく離れられても私の心が自立しなければ、きっとまた別の要因でつまづいてしまう。

そうならないためにも、もっと強い覚悟が必要だと思った。


家賃のためのお金を捻出するには

もう少し快適な部屋に住みたいのなら、やはり家賃設定を上げるのは必須だ。

その上で、お手頃な物件を見つけるのが良さそう。

同じ家賃でも設備や環境に大きな違いがあることも分かった。

だから、できるだけたくさんの物件に足を運び、実際に見て勉強してから判断することにした。

それに加え、家賃を上げるためにどうすべきかも考えた。

すぐに思いついたのは他の固定費を削減する方法だ。

例えば携帯。

安いプランではあるが、もっとお得なプランは無いか探すことにした。

ネットも同じで、節約できそうな部分はそのあたりしか無さそうだった。

食費も普通は削れるんだろうけど、我が家は元々カツカツだ。

これ以上削ったら育ち盛りの子どもに影響が出てしまう。

光熱費は、普段からエアコンを極力使わず扇風機や炬燵でしのいでいたので大きな節約はできそうになかった。

我が家の家計を見直してみると削れるところがほとんどない。

だから、節約して捻出できる金額も限られていた。

それならば・・・と次は収入を増やす方を考えてみた。

正社員の仕事だけで足りないのならアルバイトを始めるという手もある。

幸いうちの会社は副業OKだった。

本業に支障をきたさなければ問題ないらしい。

ただ、子どもが居る時間は家に居てあげたいというのもあり・・・。

パソコンでできる仕事はないか探してみた。

そうしたら怪しいのばっかりで(汗)

やっぱり家に居ながらプラスアルファの収入を確保するのって難しいんだなと実感した。

まあ、世の中そんなにおいしい話は無いか。

あの頃の私は子どもに少しでも良い環境を作ってあげたくて、何かできることはないかともがいていた。

2025年9月7日日曜日

義両親のこと

今日は義両親のことを少しだけ・・・

夫のような人間を生み出してしまった義両親だが、実はごく普通の人たちだ。

どこにでも居るような感じで、夫と切り離して見たらそれほど害も無い

一つだけ大変だったことと言えば同居関連だけど・・・。

それでも子どもの祖父母として愛情を持って接してくれた。

そんな二人のことを、今日は少しだけ書こうと思う。

お義父さんは、若い頃はいくつか職を変えて転々としていた。

でも、お義母さんと出会った頃にはきちんと定職に就き、20代のうちに結婚した。

その会社で定年まで勤めあげ、定年後も1~2年は働いた。

大きな会社だったので福利厚生も良かったようだ。

家を買い、息子二人を大学まで出した。

それほどの経済力があったということだが、肝心の息子二人が感謝しているかどうかは分からない。

普段の言動を見ると何だか当たり前のことと思っているようで、腹立たしく感じることもあった。

会社では元々親分肌なこともあり同僚や部下から慕われていたらしい。

相談ごとなんかもされていたと聞いた。

頼られたら何とかしてあげたくなるタイプだ。

親戚にちょっと厄介な人たちがいて、お金をだまし取られそうになったこともあった。

普通なら怒り心頭で大騒ぎだと思うのだが、お義父さんは、

「ほっとけ。相手にするな」

と言った。

そういう器の大きい所もあり、尊敬できる部分も結構あった。

お義母さんは涙もろい。

ちょっとのことで涙ぐみ、見ているこちらが貰い泣きをしてしまうことも。

情に厚く、人に気を遣うため、自分が疲れてしまうことも多いようだ。

また、お義父さんのことを慕っていて、何でもお義父さんの言う通りだと考えている節があった。

そこは面倒に感じたが、私たちにも基本的には良くしてくれた。

ただ、客観的に見るとお義父さんにはややモラハラ気質があった。

お義母さんはそれを分かっていても従っている感じで。

それが夫のような人を作り出してしまったのではないかと思うこともあった。

何度かこのブログでも書いたが、お義兄さんもモラハラタイプだ。

息子二人共がああいう感じだと、何かしら育った環境も関係しているのかもしれない。

義家族を見ていたら、子育てって本当に難しいと思った。

定年後、仕事を辞めてから家で過ごす時間が増えたお義父さん。

よく世間では定年後に邪魔にされるという話を聞くが、そんなことも無かった。

二人は案外仲良くやっていて、しかも経済的にも安定していた。

幸せそうに見えた。

でも、それからすぐ私たちの離婚問題が浮上し、お義兄さんたちのトラブルが発生した。

穏やかな生活は一変した。


息子を突き放すことができない義両親

夫が家族を虐げるのを見ても、強く言うことは無かった。

虐待を目撃した時も同じ。

お義兄さんが奥さんと揉めている時も傍観者を貫いた。

明らかにお義兄さんに悪い所があると分かっているのに、それでもかばう義両親。

やはり実の息子のことが大事だったのだと思う。

それが分かっているから息子たちも何かあると頼るようになった。

頼られれば突き放すこともしない。

ただ受け入れて、庇ったり慰めたりするだけ。

それが全て義家族内で完結しているのなら文句は無かった。

でも、お義兄さんの奥さんや私、子どもが被害を受けていたから。

事実から目を背けずに正して欲しかった。

途中からは私たちも悟ったので、自分たちで何とかしようともがいた。

義両親は彼らの親だから、やっぱり最後は実の息子を守ろうとしてしまうのだ。

私も子どもがいるから、その気持ちは痛いほど分かる。

最後の最後まで自分だけは味方で居てあげたいと思う。

ただ、離婚問題が浮上した時には夫だけでなく義両親までが敵になってしまったことが辛かった。

お世話になったこともあったのに、そんな終わり方をしたくなかった。

義両親だって円満に離婚できれば孫に会い続けることができただろうに。

それができなかったのは、夫があんな人だったからだ。

今でも子どもに会いたいと思ってくれていることを知っている。

元気なうちに、いつか会わせてあげられたら良いな、とも思う。

夫が傍に居る間は実現できないのだけれど。

2025年9月6日土曜日

世間は案外優しかった・・・

不動産屋さんの親切な対応に感激

不動産屋さんとコンタクトを取った。

最初はどんなことを言われるか戦々恐々としていたんだけど。

意外と優しく対応してくれた。

こんな条件の悪いお客さんでも丁寧に接客してくれるものなのね。

私のようなケースはあまりウェルカムではないはずなのに。

そういうのをおくびにも出さずに説明してくれるところに好感が持てた。

さて、私が懸念していたことを伝えた時の反応だが、

「全然大丈夫ですよ~。今はシングルマザーの方も珍しくありません」

と言ってくれた。

これが最大の懸念事項と言っても過言では無かったのでホッとした。

聞く話によると、もっと幼子を連れて部屋探しをしている方も居るという。

中には出産直後に離婚というケースもあるそうだ。

我が家の場合はまだ籍を抜いていないのでそれも心配だったが、

「全く問題ありません」

と断言してくれた。

もし良さそうな物件が見つかったら、オーナーに事情を伝えて確認してくれるそうだ。

多分、昔よりも母子家庭に対する偏見は無くなってきているのだと思う。

数十年前だったら、きっとこんな風に堂々と部屋探しなんてできなかった。

世間の風当たりも厳しかっただろうし、子どもだって嫌な思いをしたかもしれない。

それを考えたら、今のような環境でまだ良かった。

不動産屋さんと電話で話していてふと『誰かに似てるな』と思った。

口調とか声のトーンとか。

電話を切ってから思い返してみると、会社の先輩に似ているのだと分かった。

そう言えば会社でもみんなが親切で、安心して働ける環境を作ってくれている。

部屋を間借りさせてもらっている先輩だって、ただ単に以前の後輩というだけなのに優しい。

そうやって色んな人に支えられて前を向くことができた。

それなのに夫が一番つらく当たるなんて皮肉だね。


予算オーバーしそうな予感

不動産屋さんと話してみて現実を知った。

私のあげた条件だと予算内に収めるのがかなり厳しいらしい。

それほど多くの条件をあげたつもりは無いのだが。

最低限、これだけは外せないというものがいくつかあった。

子どものことを考えると、ある程度は環境の良いところにしたいという思いもあり、そのあたりのことはこだわった。

だけど、希望に見合う物件は考えていたよりも家賃が高くなることが分かり・・・。

私は考え込んでしまった。

予算をもう少し上げようか。

でも毎月のことだしなぁ、なんて迷っていたら不動産屋さんにも、

「もう少し家賃の上限を上げられませんか?」

と言われ、計算してみた。

既に手取りの3分の1をちょこっとオーバーしているような状況。

それ以上は現実的ではない気がした。

結局、

「もう一度条件を考えてみます」

と伝えて電話を切った。

夫が居座り続けるあの部屋は、借りてから数年が経過していた。

借りた当初は家賃も希望範囲内に収まっていたが、その間に物価が上がったのかもしれない。

一瞬ダブルワークすることも頭をよぎったが、躊躇してしまった。

決して働きたくないわけではない。

ただ、子どもを一人にする時間が長くなってしまう。

ずい分しっかりしてきたとは言ってもまだ小学生。

夜間に一人で居させるのも怖い。

それに、できるだけ一緒に居てあげたいと思っていたので、ダブルワークは断念した。

2025年9月5日金曜日

心穏やかに過ごした2週間

先輩に報告して指摘されたこと

ちょっと気が早いかもしれないが、部屋探しを始めた。

義両親が帰ってくるまでの2週間。

時間を無駄にしてはいけないと思った。

夫の気持ちを考えると自重した方が良いのかもしれないが、限られた時間の中で今後の準備をする必要があった。

先輩にもざっくりと事情を説明。

今後の展望も語った。

地に足がつかないとはまさにこのこと。

そう、私は浮かれていたのだ。

浮かれすぎて何でも上手くいくような気になっていた。

でも、『全て思い通りになる』というのは錯覚だ。

現にまだ離婚届に判を押して貰えていなかったし。

離婚宣言の後、夫とは連絡も途絶えがちだった。

根が楽天的な私は、連絡が来ないのも良い兆候ととらえていた。

執着が薄れているのね、と。

それを聞いた先輩は、

「ちょっと楽観視し過ぎてるね」

と言った。

そう言われてギクリとなる私。

これまでにも同じ失敗を繰り返してきたのに、何にも学習できていなかった。

先輩に指摘され、初めて今後のことを落ち着いて考えるように・・・。

この時、ふと思った。

先輩は夫なんかよりもはるかに私のコントロール方法を分かっている。

夫の中身が先輩だったら上手くいくのに、って。

力でねじ伏せて圧力をかけてくるような夫のやり方では、遅かれ早かれダメになっていたと思う。

それがあのタイミングだっただけ。

あれでは一緒に居ても心が通じ合っている気がしなかった。

むしろ、どんどん遠くなっていっているような気持ちになった。


部屋探しも楽しい♪

部屋探しでもっとも重視したのは学区と環境だ。

もちろん家賃も。

それだと全部じゃないの?と思われるかもしれないが。

駅からの距離は妥協した。

築年数も。

水回りがキレイで室内もそこそこなら許容範囲だ。

子どもが快適に暮らせればそれで良い。

早速いくつかの候補が見つかり、ネットから問い合わせをすることにした。

まだ離婚が決定したわけではないのに早すぎるのかもしれない。

でも、こういうのはタイミングが大事だ。

以前、部屋探しをしていた時、理想に近い物件があったのに動きが遅すぎて他の人に決まってしまった。

そのような失敗を避けたかったので、まずはコンタクトを取ろうと思った。

私たちの未来のために動いている感じがして、部屋探しはすこぶる楽しかった。

楽し過ぎて時間が経つのも忘れて検索した。

ただ、コンタクトを取る時に母子家庭として伝えた方が良いのかで悩んだ。

そこに暮らすのは私と子どもであり、夫は居ない。

だからシングルマザーと言えばそうなんだけど・・・。

その時点で離婚届を出せているかも読めなかった。

そもそもシングルマザーに部屋って貸してくれるのかな。

そんな不安も出てきた。

世の中には母子家庭というだけで快く思わない人たちが居ることも知っている。

そんな世間と闘う未来が見えた気がして、ちょっとだけ怖くなった。

2025年9月4日木曜日

夫のおばあちゃんが亡くなった

突然の知らせ

夫の母方のおばあちゃんが亡くなった。

遠方に住んでいて、大人になってからはほとんど会うことは無かった。

それでも、やはり堪えたようで。

いつもは絶対にしないのに珍しくお義兄さんに連絡したり、過去のエピソードを話してくれた。

寂しそうに、

「もう一度会いたかった」

と言った。

ショックを受けているのは傍目から見ても明らかだった。

あの頃、夫は私生活や体調面に問題を抱えていたから。

そこに折り重なるようにおばあちゃんの死という現実が重くのしかかり、状況が更に悪化するのではないかと思った。

お通夜や告別式の日程も早々に決まり、

「一緒に行こうか」

とお義母さんから声を掛けられた夫。

仕事も自由に休めそうな環境だったし、行くのかな?と思っていたら断った。

本当は行きたかったのかもしれない。

幼い頃、毎年帰省して夏休みを過ごした場所だもの。

そこには色んな思い出がある。

でも、飛行機に乗っていくことが難しいと判断したようだ。

他の移動手段もあるにはあるけど、お通夜や告別式に間に合わない。

それに、飛行機以外では更に時間がかかり現実的ではない。

結局行けないと思ったようで、それを伝えるとお義兄さんが

「俺が行くよ」

と言ってくれた。

あの兄弟が助け合うことって本当に珍しい。

それがこんな時だなんて、という思いは正直ある。

でも、最後はやっぱり家族なんだなぁとしみじみ感じた。


義両親もお義兄さんも居ない間

夫のおばあちゃんの葬儀に出席するため、義両親とお義兄さんは飛行機で旅立った。

その間夫は一人。

独身時代に少しだけ一人暮らしをしていたが、それ以来だ。

こういう時に人は色々考えるのだと思う。

夫の場合は自分の身の振り方を顧みる良い機会になったようだった。

しばらく大人しかった。

いつものようにやりたい放題していたら、おばあちゃんに叱られちゃうもんね。

49日はこちらの世界に留まるという。

だから、夫なりにそんなことも意識していたのかも。

無理難題を言ってくることも無く、平和な時間が続いたある日。

急に、

「俺、離婚するわ」

と言った。

待ちに待った言葉だった。

私は嬉し過ぎて、言葉が出ないほどだった。

この瞬間をどれほど待ち望んだことか。

にわかには信じられないような気持ちだったが、その後にもう一度同じことを言われたので夢ではないのだと実感した。

義両親は葬儀の後に色々やることがあり、帰ってくるのは2週間後。

帰ってきたら自分で伝えると言うので、私はそれを待つことにした。

おばあちゃんが夫の背中を押してくれたのかな。

決心させてくれたのかな。

そんなことを思いながら、やっと良い方向に動きそうなことに安堵した。

2025年9月3日水曜日

ゲーミング女子から「家に遊びに行きたい」と言われた夫

夫の恋愛に新たな動きが

ずっと怪しんでいたに違いない。

夫が『子ども』というワードを出した時から。

否定しても否定しても、毎回のように探るようなことを言われていたらしい。

それで夫は少し疲れていた。

まあ、自業自得と言えばそうなんだけど。

上手くいって欲しい私としては、こんなことで終わられたら困ると思った。

「いっそのこと本当に独身になったら?」

とでも言おうとしたが、止めた。

だって機嫌が悪かったんだもの。

順調な時には分かりやすく機嫌も上々で、雲行きが怪しくなってきたら途端に態度が悪くなった。

大人なら、自分の機嫌くらい自分で取って欲しい。

でも、夫にはそれができない。

周りが気を使ってくれるのが当たり前で、自分は整えられた環境で過ごすだけ。

そういう人が誰かに好かれようと思ったら相当無理をするしかない。

もっとも、夫は外面を取り繕うのが上手かったので、周りからの評判はすこぶる良かった。

万が一怒っている場面を見られたとしても、

「あの人が怒るくらいだから、相手がよほど悪いことをしたのだろう」

という感じになった。

あの時も、ゲーミング女子の前ではにこやかに対応し、通話を切った後にイライラしていたようだ。

それが分かっていたので、私も極力接触を避けた。

どうせ八つ当たりされるに決まってる。

私には何をしても良いと思ってるんだから。

イライラのはけ口にされないように気を付けていたら、その役目はお義母さんになっていた。

お義父さんの方が夫と居る時間は長かったんだけど。

同じように気の強いところがあるので反論されるのを嫌ったのかもしれない。

お義母さんの場合、言われっ放しで打たれ弱いという私との共通点があった。

そうやってイライラを解消しながらもゲーミング女子とのやり取りを続けた夫。

相手は繰り返し『独り身だよ』という夫の話を確かめたくて、ある行動に出た。

それは、

「一度家に行ってみたい」

という提案だった。


ゲーミング女子とも疎遠に・・・

ゲーミング女子からの提案に悩んだ夫。

最終的にどうしたのかと言うと、友だちの家を借りた(笑)

一人暮らしの友人の家で待ち合わせをして話をして。

その間、家主である友人は外に出ていてくれたらしい。

夫が住んでいる場所ということにしたのかどうか。

そのあたりのことは確認できなかった。

その後も押しかけてきたらどうするのかと思ったが、どうやら会ってみたら急速に興味が失われたようだ。

やがて一緒にゲームをする頻度も減り、いつの間にかゲーム自体からも遠ざかった。

その後、夫の口癖は

「俺も趣味を持たなきゃな―」

になった。

『そんなことを考える前にきちんと仕事をしてくれ』と内心思っていた。

でも、あの女性のお陰で上手く発散できたのか仕事も何やかやと続けていた。

このまま続けてくれれば、もしかしたら養育費をもらうという未来も見えてくるかも・・・。

そんな期待をしつつ、自分の仕事をがんばった。

どのみちシングルマザーになるのだ。

自分で頑張るしかない。

『子どもを守らなきゃ。頑張って育てなきゃ』という決意が私を強くしてくれた。

2025年9月2日火曜日

特殊な関係性を指摘されてもピンと来ない私

感覚がおかしくなっていたのは夫だけではない

ブログでは夫の異常性を指摘することが多い。

でも、おかしくなっていたのは夫だけでは無かった。

私も感覚がだいぶ麻痺していて、『普通』というのが分からなかった。

『それ、おかしいよ』と言われるたびに戸惑う日々。

そういうのに慣れるという意味でも、夫と離れてからの時間は重要だった。

今でも我が家のエピソードを語る時には相手に引かれやしないかと冷や冷やしてしまう。

そんな私が会社で夫とのことを最初に話した時、先輩にはかなり驚かれた。

「突っ込みどころがいっぱいあり過ぎて。何から突っ込んだら良いのか分からないよ」

「ていうか全部おかしい。(私)もおかしいよ」

と言われ、キョトンとしてしまった。

この時、夫だけがおかしいと思っていたのだから無理もない。

先輩が言うには、言われたことを真に受け過ぎて振り回されているのだと言う。

まるで夫の言うことが全て正しいかのように。

それだけを見ると、崇拝しているかのようだと言っていた。

そんなはずはない。

むしろ、夫の言うことは嘘ばかりだと思っていたのだから。

でも、気づかないうちに夫の言う通りにしなければならないという強迫観念に駆られていたのかもしれない。

反抗したら酷いことが待っている。

まるでパブロフの犬みたいに、そう教え込まれた。

子どもも同じで、自分の頭で考えることを止めてしまった。

離婚の話し合いの問、とても苦労したのは自分たちの要望をまとめる時だった。

本来なら色んな要望があるはずなのに。

私の場合には親権が欲しいということしか出て来なかった。

子どもと一緒に居られさえすれば何も要らない。

それ以上のことを求めるのは贅沢だと思った。


モラハラ被害者の闘いは続く

実は未だに夫から受けたモラハラの影響は色濃く残っている。

まあ、夫がいつでも来られる場所に居るというのも大きいのだとは思うが。

それ以上に、夫の存在を意識しながら生活することが当たり前になり過ぎてしまった。

あの人は、何か気に入らないことがあると、

「今からバイクでそっちに行くわ。待ってろよ」

と脅す。

だから、心の底から安心できない。

いっそのこと夫が遠くに引っ越してはくれないだろうか、と思うことも多々ある。

子どものことも気にかけているような素振りを見せるが、これまた呆れるような理由からだ。

将来こどもが立派に育った後、自分の面倒を見て欲しい。

そんな驚くべきことをいけしゃーしゃーと言う。

養育費も払ってくれないくせに、

「老後はよろしくって言っておいて」

などと伝言を頼んでくるのだから本当に図々しい。

以前、子どもがまだ2~3歳の頃も言っていたが、未だに

「パパのために家を建ててね」

と言うこともある。

直接言うことができず伝言をお願いするような間柄なのに、まだ夢を捨てきれないらしい。

将来への不安を口にする時、そこには私たちへの期待がにじんでいるのも感じる。

「一人になってもお前らが居るから俺はまだ幸せだよ」

と言われた時にはゾッとした。

自己愛性人格障害の夫は自分のことしか愛せない。

そのくせ、周りに対して深い愛情を求めてくる。

そして大事にされないと激しく攻撃する。

もし過去に戻れるのなら、きっと私は自分に言うだろう。

まだ社会に出たばかりで何も分からなかったあの頃の私に。

『その人だけは止めておきなさい』と。

2025年9月1日月曜日

既婚者であることがバレそうになった夫

自らの発言で窮地に追い込まれた

ゲーミング女子との関係は、概ね順調だった。

お義父さんやお義母さんが一生懸命邪魔しようとしていたが全く動じず。

相手もそんな様子には気づいていないようだった。

どんどん親密になる二人。

『会いたいね』という雰囲気だったのに・・・。

夫が自爆した。

もう間もなく直接顔を合わせることになるのではないか、というタイミングで。

二人の関係が進展することに期待していた私は心底ガッカリした。

きっかけは子どもの話題だ。

本当にアホな話だと思う。

会話することに慣れ過ぎて素が出てしまったのかもしれない。

それで、『子どもが~』という言葉が出てしまった。

『うちの子が~』と言わなかっただけまだマシなのかも。

でも、『子どもが~』と言ったら、大抵は自分の子だ。

それを、夫は必死で取り繕って兄弟の子どもだということに仕立て上げた。

相手もきっと怪しんだに違いない。

でも、夫があまりにも必死になって弁解するものだから信じるしか無かったのだろう。

結局、お義兄さんに子どもが居る設定になった。

本当に信じたかどうかは分からないが、それ以来夫は慎重になった。

会話もそれまで以上に気を使い、ボロが出ないようにしていた。

その甲斐あってか、二人のやり取りは続いた。

それにしても、こんなにもひた隠しにされる子どもの気持ちはどうなのよ、と思ってしまった。

そんなことをするくらいなら本当に縁を切ってくれても構わないのに。

子どもとのつながりは持っていたいというダブルスタンダード。

良いとこ取りをしようとする夫らしいと言えばそうだが、何ともモヤモヤが残った。


その後、何度も確認されていた夫

一段落したと思っていたが。

その後も夫は何度もゲーミング女子から

「本当は既婚者なんじゃないの?」

と確認されていた。

当たり前だ。

どう考えても怪し過ぎる。

そのたびに、

「そんなわけないじゃん!」

と強く否定し、子どもの存在を打ち消していた。

こんな人が親権を要求するんだから、本当にため息しか出ない。

一連のことを会社の親しい人に話したら、

「あなたにそんな話をしてくるの?馬鹿にしてるよ!」

と物凄く憤っていた。

まるで私よりも当事者みたいに。

「もっと怒って良いんだよ?!」

とも言われたが、正直なところ怒りなんてこれっぽっちも湧かなかった。

だって、もう夫のことが好きではなかったのだから。

恋愛に浮かれている夫のことをどこか冷めた目で見ていて、自分たちに意識が向かないのは好都合だとさえ考えていた。

だから、できるだけ長く続いて欲しかった。

できればそのまま結婚して欲しかった。

そうすれば私は自動的に離婚という自由を手に入れられる。

当時はそればかり考えていて、心に余裕が無くて。

離婚という一大ミッションの前では、それ以外は些細なことのように思えた。

そんなこんなで期待しつつ、まるで自分事のように一喜一憂していたわけだが。

夫はそれを知らない。

もし知ったとしても、また都合の良い脳内変換によって、

「そんなに気にするなんて。よほど俺のことが好きなんだな」

と勘違いするだけだろうけど。

気づかれないのを良いことに、こっそりと全力で二人を応援していた。

「子どもに会いたい」と言われても・・・

夫の要望 あの日、夫は「子どもに会いたい」と繰り返し言った。 これまでのことがあるから、どうしても穿った見方しかできなくて。 『分かった』と言えなかった。 自分が苦しい時だけ子どもに縋ろうとするなんて。 そんなの虫が良すぎる。 だけど徹底的に突き放すこともできなくて、 「ごめん」...