絶対に知られてはいけない
心身に不調をきたし、心療内科に通い始めた頃。もっとも恐れていたのは夫に知られることだった。
離婚の交渉で突っ込まれたら反論できない。
「そんな状態の奴が子どもの面倒なんて見れるの?」
と言われそうで、ひた隠しにした。
ただでさえ立場の弱かった私。
条件的にこちらが有利な時でさえ、なぜか交渉では防戦一方だった。
相手が強すぎるというのもあると思う。
これまでの力関係があまりにもアンバランスだったから、それに慣れてしまっていた。
それに加え、どんな状況に陥ろうとも自分に自信を持っている夫に対し、私は常に自信が無かった。
こんなんで勝てるわけがない。
それでも交渉はしなければならないので、必死で闘った。
自分との闘いでもあったのだが、どれだけ経験してもちっとも強くなんてなれなかった。
よく『お母さんになると強くなる』というけど、あれは嘘だ。
私はずっとヘタレのままだったし、色んなものに怯えていた。
その中でも特に怖いのが夫であり、それは最後まで変わらなかった。
何なら離婚した後も怖い。
ただ、一緒に過ごす時間が無いから耐えられるだけ。
そんな私が誰にも頼らずに離婚の決着をつけようとしていた。
内心はストレス満載で、何かにすがりたくなる時も・・・。
それでも耐えて耐えて耐えた結果がアレだ。
心療内科に通っている間、つくづく自分が情けなくなった。
そうやって自己嫌悪に陥ることで心は更にズーンと沈んでいった。
子どもの前では空元気
ただでさえ色々背負わせてしまっている子どもに心配をかけたく無かった。
気付かれないようにあえてハイテンションに振る舞い、先輩さえも欺いた。
「なんかめっちゃ元気だけど、どうした?!」
と言われても、
「いつも通りですよ~」
なんて答えていた。
そしてその反動で一人になった時に落ち込み、また無理をしてテンションを上げる。
そんなことを繰り返してたら、とうとう本格的に調子を崩してしまった。
今考えたら当たり前の話だが、当時は必死だった。
その異変に真っ先に気づいた先輩は、ストレートには言わないけれど、やんわりと『病院に行ったら?』と促してきた。
でも、その提案をスルーした私。
自分でも分かっていたけど認めなくなかったのだ。
普通ならそこで、『じゃあ好きにすれば』となると思うのだが。
情の厚い先輩は放っておくことができなかったのだろう。
毎日ちょっとずつ、
「一緒に行こうか?」
とか、
「評判の良いところを探してあげるよ?」
とか声を掛けてくれた。
本当にありがたい。
それで段々と自分でも行ってみようかという気になったが、そういう気持ちの変化は悟られないようにした。
結局、先輩にも何も言わずに心療内科に通いはじめ、打ち明けたのは終わりが見えてきた頃だった。
こんなにお世話になっているのに言えなかったのは、診断名でもついてしまったら、それこそ先輩の負担になってしまうと思ったから。
この時、先輩にまで嫌われたくないという心理が働いていたのかもしれない。