物を投げられるのも暴力だったなんて・・・
『しつけ』とかざし、殴られたり蹴られたりしていた子ども。まだ体も小さくて抵抗できないのをいいことに、夫のやりたい放題だった。
こういう話が出てくると『お母さんは何してたの?』と言われるが。
ただ黙って手をこまねいていたわけではない。
大事な子どもがやられているのを見たら居ても経っても居られなくなり、後先考えず止めに入った。
振り上げられた拳を自ら受け止めるべく、子どもに覆いかぶさったことも。
何故かその瞬間夫の動きは止まり、私が本格的に殴られることは無かった。
あまりにも勢いがつきすぎて当たってしまったことならある。
何というか、本格的に殴られたわけじゃないのでもらい事故みたいな気持ちだった。
止めようとしたけど当たっちゃった、みたいな感じ?
それで、私はいつも誰かに聞かれると、
「暴力を受けてたのは子どもだけ。私は受けたこと無いんだ」
と言っていた。
自分の中では、それは暴力には当たらないと思ったのだ。
でも間違いだった。
私に対するアレコレもアウトな事案なのだと知った。
壁に強く押し付けられたり、肩や手首を握られて自由を奪われたり。
物を投げつけられたりもした。
それらは全部暴力に当たるのだそうだ。
それを考えたら、我が家は色んなものが飛び交っていた。
いつだったか、コップが飛んできた時には慌てた。
陶器の重いコップだったから、当たったら大変だと思って伏せた。
それが気に入らなかったのか、夫は舌打ちをしながら拾った後に高く振り上げた。
そのまま打ち付けられて粉々になった思い出のマグカップ。
それを見た時、私の心も粉々に砕け散った。
この人は、私が悲しくなるようなことをわざとしているのではないかと思った。
すぐ傍には怯え切った表情で固まっている子どもがいて。
このままでは危険だと判断した私は、小さな肩を抱えながら外に出た。
今でも大きな音や声が苦手
あの暴力は『私たちに分からせる』という目的で行われていた。
密室での出来事であり、それを証明する術はない。
頭のキレる夫がへまをするようなことは無いので、全て計算の内なのだと思う。
逃げ場のない家というプライベートなスペースがもっとも危険だなんて。
そんなこと、誰が想像できるだろうか。
私だって、自分がこんな目に合わなければそういう人の存在を想像することすらできなかった。
でも、実際に経験してみて『あれは簡単には逃げられない』ということがはっきり分かった。
相手は逃げられないように用意周到に準備をしているんだから。
成す術もなく追い詰められてしまう人がほとんどだと思う。
時間が経てば体の傷は治るけど、心の傷は長い間癒えることはない。
今でも大きな音や大声がとても苦手だ。
ふいに耳に入ってくると体がビクンとして身構えてしまう。
関係のないことでも同じ。
反射的に怯え、心臓がドクンドクンと音を立る。
今この場に夫は居ないのに。
それを頭では理解していても、あの恐怖が骨の髄までしみ込んでいるみたい。
過去の恐ろしいシーンを思い出すきっかけは色々あって。
外で旦那さんに怒られている人を見たり、子どもが怒鳴られている所に出くわしたり。
誰かに叫んでいる人を見るだけでも平静では居られなくなる。
駅のホームの向こう側で小学生くらいの男の子がお父さんらしき人から怒鳴られているのを見た時は心臓がギュッとなった。
その光景が過去の自分たちと重なって見えた。