数年経ってもモラハラによる心の傷は100%は消えない
家庭内でモラハラを受けていた頃の記憶は未だに消えることはありません。さすがに以前と比べれば鮮明な記憶ではなくなってきてはいます。
でも、忘れたわけではありませんので、ふとした瞬間によみがえってきます。
これは私に限った話ではなく、子どもも同じです。
子どもの場合は叩かれたり蹴られたりしたので更に深刻です。
家を出たばかりの頃は、『あの時は辛かったね~』という話ばかりしていました。
話すことで今まで吐き出せなかった気持ちを消化しようと試みました。
だけど、あの頃のことを話し続けるのは辛いことでもあります。
もう忘れたいのに、話題を掘り返すことでまた記憶が蘇って忘れられなくなる。
そんなことの繰り返しでした。
段々とそれに疲れてきて、気づいたら二人とも以前のことを話さなくなりました。
こんな話をすると『過去と向き合えていない』と思う人もいるかもしれません。
確かに逃げているように見えますが、この話題を出す時には途轍もないパワーが必要で、そのパワーを捻出するにはよほど幸せだと思えるような生活を送っていなければ不可能です。
私たちが日々見つけているような小さな幸せでは追い付かないんです。
心が疲弊してきた時、【もう忘れてしまおう】といつも思います。
向き合えなくても記憶から消えてくれれば良いや。
忘れてしまえば無かったことにできる。
そう考えていたのですが、数年経っても記憶が消えることはありませんでした。
人は上手に忘れることで幸せになれることもあります。
でも、それが難しい時には状況をリセットできるようなボタンが欲しいなぁと思うことがあります。
記憶を強制的に消すことができれば、もうあのことを振り返らずに済むのに。
そう思っても、現実的にはやっぱり難しいんですよね。
せめて子どもの辛い記憶が少しでも薄まるように、毎日をうんと楽しくしようと奮闘しています。
感受性豊かに育った子どもが興味を持ったこと
夫と一緒に居た頃は、自由に何かを楽しむことができませんでした。
そもそも【選択する】という権利を与えられていませんでしたので、気になったからやってみようということは皆無です。
それでも私は大人だから夫と出会う前には自由に選択してそれなりに楽しい日々を過ごしてきて、どれだけ夫との生活が窮屈で不自由かも分かっていました。
でも、子どもは違います。
産まれた時からそんな環境です。
まだ夫と一緒に暮らしている頃、息子は常に無表情でした。
感情が失われているように見えました。
時折見せるのは、夫に虐められた時の辛く悲しい表情だけです。
子どもですから笑顔の時もあるのですが、それは屈託ない笑顔とは程遠くてどこか陰のある笑顔でした。
きっと押さえつけられて締め付けられて感情の起伏が小さくなってしまったんだろう。
そんな風に思いました。
だけど、離れてみて分かりました。
子どもは決して感情を失ってなど居なかった。
自由な生活を手に入れた後、これまでの様子が嘘のように色んなことに興味を持ちました。
好きな動画を見つけて笑ったり、悲しい映画を観て泣いたり、お出かけをした時には新しい場所に興味を持ってどんどん進んでいきます。
美味しい物を食べてはしゃぎ、時には私や祖父母に甘える。
ごくごく普通の子どもです。
そんな子どもが今興味を持っているのが音楽を作ること。
結構凝るタイプのようで、たくさんの音楽に触れながら理論的な面についてもマスターしようとしているようです。
私たちのように過去に何かあると【可哀そうな人たち】というレッテルを貼られることも少なくありません。
けれど、そういう色眼鏡で見ることがモンスターを作り上げ、ごく普通の生活を送っていても不憫な人に映ってしまうのです。
もし周りに【自分たちとは違う】と思えるような人が居たとしても、その人たちなりの幸せがあることを知って欲しいな、と思います。
幸せの形は人それぞれなのですから。