身に覚えのない『退去の話』
あれは八月のことだった。仕事をしていると、
突然、
借りている部屋の管理会社から
電話がかかってきた。
入居してから数年、
管理会社から直接電話が来たことなど
一度もない。
何か伝えることがある時は、
いつもポストに手紙が入っていた。
だからこそ、
重要な用事なのだろうと思い、
すぐに折り返した。
コール音の後、
女性スタッフが電話に出る。
私は担当者の名前を告げ、
取り次ぎをお願いした。
だが、
あいにく席を外しているという。
仕方なく、
「お昼頃にもう一度かけます」
と伝えて電話を切った。
昼休みになり、
改めて電話をかける。
今度は担当者本人が出た。
「すみません。
何度かお電話を頂いていたのに
出られなくて……」
担当者は、
とても丁寧な人だった。
少しのことでも
必ず手紙を入れてくれる。
ただ、
電話がかかってきたことはない。
『そんなに重要な話なのだろうか』
そう思いながら、
私は用件を尋ねた。
すると、
担当者の口から
思いもよらない言葉が出た。
「先日お話をうかがった
退去の件なんですが……」
聞いた瞬間、
「えっ?」
思わず声が出た。
ゾッとした言葉
私たちに退去の予定はない。
もちろん、
そんな連絡をした覚えもない。
それなのに担当者は、
まるで決まった話であるかのように
説明を続けていた。
誰かと勘違いしているのだろうか。
私は慌てて、
「退去する予定はありません。
別の方と間違えていませんか?」
と伝えた。
すると担当者は、
驚いたような声で言った。
「あれ?
でも先日、ご主人からお話がありまして……」
その言葉を聞いた瞬間、
私は状況を理解した。
夫だ。
夫が勝手に
解約の話を進めていたのだ。
一体何のために。
そんなもの、
考えるまでもなかった。
義実家へ引っ越しをさせるためだ。
担当者も、
かなり困惑している様子だった。
当然だと思う。
夫婦で言っていることが
まるで違うのだから。
そして話の途中、
担当者はこんなことも口にした。
「ああ、そういえば
この件はご主人に連絡するよう
言われていたのを忘れていました」
その瞬間、
背筋が冷たくなった。
夫は私に知られないよう、
解約を進めようとしていた。
契約しているのは私なのに。
もし担当者が
その言葉を忘れていなかったら。
もし私に電話が来ていなかったら。
気付かないまま
話が進んでいたかもしれない。
そう考えると恐ろしくなった。
私はすぐに、
今後の連絡は全て私にしてほしいと
担当者にお願いした。
電話を切った後も、
しばらく動けなかった。
別居してもなお、
夫は私の人生に入り込もうとしてくる。
距離を取ったはずなのに、
全然終わらない。
次は何をしてくるのだろう。
そんなことばかり考えていた。
夫が怖かった。
