2025年12月25日木曜日

話し合いの形をした支配

すべてを私の責任にする人の論理

夫の言い分は、こうだった。


わざわざ遠い場所に住み、低学年の子どもを元の学校に通わせ続けることこそが虐待だ、と。

子どもにかかる負担が分からないのか。

そんなことも分からないなら、母親失格だとまで言われた。


確かに、子どもにとって大変な状況だったと思う。

電車に乗って学校へ行き、帰りもまた電車。

私が迎えに行くまで待たなければならないし、友だちと自由に遊べないという制限もあった。


負担をかけていたのは事実だ。

そこは、私も否定しない。


でも、私にも言い分がある。


家を出た直後、学校のことは何度も悩み、子どもと話し合った。

そのたびに返ってきたのは、

「転校したくない」

という言葉だった。


だから私は、今の学校に通い続けられる方法を必死に探した。

もう少し大きければ一人で通う選択もあったのかもしれない。

けれど、当時は現実的ではなかった。


それでも、不思議なことに。

あの大変さの中で、私たちの毎日はどこか新鮮でもあった。


帰り道に、ふらっと途中下車して寄り道をする。

たまには外でご飯を食べる。

そんな「自由な世界」があることを、うちの子はそれまで知らなかった。


私はもう大人だから、本来は自由に生きていたはずなのに。

気づけばその感覚をすっかり忘れ、縛られる日々が当たり前になっていた。


それに、夫があんな仕打ちをしなければ、そもそもこんな状況は生まれていない。

そこを完全に無視して、私だけを責めるのは、どう考えてもおかしい。


すべての始まりは、夫自身が蒔いた種だ。

その事実を、都合よく忘れているようにしか見えなかった。


モラハラや虐待さえしなければ、今も家族で暮らしていたはずだ。

そんな単純なことすら理解できないのなら——

この人と何を話しても、もう無駄だと思った。


論点をずらして怒鳴る人

言われっぱなしでは分が悪い。

それでは、また夫の思い通りになってしまう。

そう思って、私は反撃した。


夫の虐待という、やむを得ない事情があって自宅を離れたのだ。

だから、今の状況についてあなたに責められる筋合いはない。

そう、はっきりと釘を刺した。


子どもの意思をきちんと尊重した上で決めたことだ、ということも伝えた。

淡々と話したつもりだった。


けれど、反論されるとは思っていなかったのだろう。

夫は激怒し、

「今、そういう話をしてるんじゃない!」

と怒鳴った。


怒鳴り声が耳に残り、奥がジーンとした。

怖かった。

それでも、言わなければならないことがあった。


「未だに虐待の事実を認められない人とは、一緒にいられない」


そう伝えると、夫は

「俺がいつ虐待したんだよ!」

と言った。


その言葉に、本当に驚いた。

反省どころか、事実そのものを否定していたのだ。


では、子どもが転校することには賛成なのか。

そう尋ねると、それは違うという。


「転校なんてさせるな。それはお前のエゴだ」


そう責められても、ではどうすればいいのか。

結局、私が何をしても気に入らないのだと、そのとき思った。


ただ、この時点では、

まだ肝心なことを聞けていなかった。


私たちの居場所を調べて、

夫はいったい何をしようとしているのか——。

2025年12月24日水曜日

私たちの静かな戦い

静寂の中の記録

インターフォンを押すと、すぐに室内に通された。

そこはかつて私たち家族三人で暮らした場所。

ほんの数か月前までは、そこに私たちが確かに存在していたはずなのに――。

懐かしさは微塵も感じられなかった。

立った瞬間に胸が締め付けられ、息が詰まりそうになる。

帰りたい――そう思わずにはいられなかった。

虐待やモラハラの記憶が、あまりにも鮮明に蘇るのだ。

子どもが叩かれ、蹴られる姿を何度も目撃した恐怖。

一日中無視され、張り詰めた空気の中で息を潜めて暮らした日々。

その全てが、この部屋に染みついていた。

だから、ここは私にとって決して「懐かしい場所」ではなかった。

促されるままテーブルの前に座ると、夫はペンを取り出し、静かに書き始めた。

そしてこちらを見て言った。

「今日のことは記録するから。お前もその方が良いよな」

もちろん記録することには賛成だ。

過去の話し合いでは、『言った』『言わない』の争いで何度も心が擦り切れた。

だからこそ、記録は必要だった。

部屋には私たち二人だけ。

テレビも音楽もない、静寂が支配する空間。

その静けさの中に立つと、何だかこれが現実だとは信じられなくなる。

夢――そうであればどんなに楽だろう、とも思った。

夫が何をしているのか分からないまま、準備が整うのを待った。

やがて彼はテーブルの前に座り、マグカップに入ったお茶を差し出した。

結婚前に揃えたペアのカップ――ずっと奥にしまわれていたはずのものだ。

わざわざ持ち出してきたその行為に、私は無意識に警戒していた。


静寂の中の記録

一体、夫はいつから私たちの居場所を知っていたのだろうか。

少なくとも、2〜3か月前までは知らなかったはずだ。

もしかしたら、巧みに騙していたのかもしれない。

手紙を送ってきたことがただの脅しだとしても、無かったことにはできなかった。

すでに、平穏な日常は壊されてしまったのだから。

最初のうち、夫は非常に無口だった。

沈黙に耐えられなくなった私は、一人でぺらぺらと話し始めた。

その中で、手紙のことについても訊ねた。

「どうやって住所を知ったの?」

「これからどうするつもりなの?」

夫は面倒くさそうに、ポツリポツリと答えるだけだった。

夫の場合、大声で怒鳴るのと同じくらい、低く、言葉少なに話すときが怖い。

私は身を強張らせ、逃げ出したい衝動に駆られた。

「〇〇駅なんて、(子ども)のことをちゃんと考えてるのかよ」

唐突に言われたその一言に、すぐには答えを返せなかった。

学校のことだろうと予想はついたが、私たちが試行錯誤しながらやっと乗り越えてきた問題だった。

不安な気持ちでそれを伝えようとした瞬間、

「こういうのが虐待って言うんじゃないか?!」

低く鋭い声が突き刺さり、鼓動は一気に早くなった。

強い言葉で責められるとパニックになってしまう――その癖は、まだ抜けていなかった。

2025年12月23日火曜日

あの日、私は逃げなかった

夫の策略だと分かっていて、私は会うことを選んだ

手紙を受け取った私は、すぐに行動に移した。

まずは、先輩の家に来ないよう、はっきりと釘を刺さなければならなかった。

ただお願いするだけでは、聞き入れてもらえないだろう。

そこで私は、会うことを了承した。

夫は、自分が損をすることは決してしない人だ。

譲歩もしない。

だからこそ、真正面から正論をぶつけても、うまくいかないと思った。

それならいっそ、こちらが一部を譲り、その代わりに要求を受け入れてもらうしかない。

うまくいくかは分からないが、それでもその戦法でいくことにした。

このとき、子どもはひどく不安そうで、私の様子を気にしているのが分かった。

もともとは大らかで、少し鈍いところのある子だった。

それが、いつ怒り出すか分からない父親に怯え、敏感になってしまったのだろう。

連絡を入れると、夫からはすぐに返事が来た。

きっと、これも予想していたに違いない。

相手を追い詰めて動かすのは、夫の常套手段だ。

まんまと策略に乗ってしまった気もするが、今回はあえて乗ることにした。

それにしても、夫のメッセージはいつも威圧的だ。

無理やり相手を動かそうとしているのが、はっきりと分かる。

すべてが自分の思い通りになると信じている、その自信が透けて見えて非常に不快だった。

話し合いの場所に指定されたのは、かつて私たちが暮らしていたあの部屋だった。

夫は相変わらずそこに住んでいて、私は家賃を払い続けていた。


インターフォンを押すまでの長い時間

呼び出されたその日は、朝から落ち着かなかった。

子どもはちょうど、友達と出かける予定が入っていた。

忘れもしない。

曇り空で薄暗く、念のため折り畳み傘を持たせた。

友達のお母さんが付き添ってくれるというので、お礼を伝え、その場を後にした。

そのまま電車に乗り、途中で手土産を買った。

バカみたいな話だが、夫の機嫌を取るためにあれこれと考えてしまう癖が抜けなかった。

手ぶらより何か持って行った方がいいだろうと思い、好物のお菓子を選んだ。

こんな時、離れていても、まだ夫の支配から抜け切れていないのだと実感する。

まず最初に浮かぶのが、「怒らせないように」という考えなのだから、我ながら終わっている。

それでも、怒りに触れたときのあの絶望感が頭から離れず、少しでも避けたいと思ってしまった。

最寄り駅に着き、家へ向かって歩き出してからも、気が重くて足が進まなかった。

必要なことだと分かっていても、やはり話し合いは怖い。

外で会えばよかったかもしれない――そんな後悔を繰り返しながら、家の前に着いた。

ドアの前に立ち、中の様子をうかがったが、物音はしなかった。

しんと静まり返り、まるで誰も住んでいない家のようだった。

インターフォンを押そうと手を伸ばすが、震えてなかなか押せない。

逃げ帰りたい気持ちが込み上げた、そのとき、ふと子どもの笑顔が浮かんだ。

あの笑顔を守りたい。

そのためなら、何だってする。

私は大きく息を吸い込み、そのままの勢いでインターフォンを押した。

2025年12月22日月曜日

壊れた結婚と、それでも守りたかったもの

恐怖の中で、第一歩を踏み出す勇気

居場所が知られてしまった以上、そのままにしておくわけにはいかない。

気は重いけれど、本格的に離婚に向けた交渉を始めなければならない。

そう思っても、なかなか返事をすることができなかった。

結婚生活の中で徹底的に恐怖を植え付けられていたため、その時のインパクトがあまりにも強すぎて、恐れるあまり思考が停止してしまったようだ。

震える手で再び手紙を開き、今度はゆっくりと読んだ。

中には「自分の非を認め、家族としてやり直したい」と書かれていた。

これを読んだだけなら、きっと反省しているのだろうと勘違いしてしまうかもしれない。

でも、基本的に夫が反省することはない。

彼は常に自分が正しいと思っているから、これは嘘だろうとすぐに分かった。

とはいえ、それが分かったところでどうすることもできない。

夫と対峙しなければ、離婚に向かうことはできないからだ。

私は考えた。

そのうち、ふとその前にやるべきことに気づいた。

『先輩の家に乗り込まれないよう、先手を打たなければならない』と。

そのためには、話し合う意思があることを伝えなければならない。

正直、話し合うこと自体が怖いけれど、逃げていては何も進まない。

勇気を振り絞ってメッセージを送った時、すでに子どもと先輩は食事を終えていた頃だった。

その日、二人は映画に行っていて、その後、食事のときに待ち合わせをしていた。

でも現れないので心配した先輩が連絡をくれた。

楽しみにしていたけれど、もう行けるような精神状態でもなく・・・。

「帰ってきたら詳しく説明するから」

と伝え、一人悶々とどうすべきかを考えていた。


話し合う覚悟と、母としての弱さ

精神的に追い詰められていた。

逃げ続けることができれば楽だけど、そうも言っていられない。

夫による包囲網は着々と狭まり、私たちは向き合わざるを得ない状況へと追い込まれていた。

その日、私は話し合う決意を固めた。

家を出てから、何とか勇気を振り絞って向き合ってきた。

けれど、ある時を境に、私は夫と会うことを避けるようになった。

怠慢だと言われれば、それまでだ。

本当に離婚を進めたいのなら、交渉を続けなければならなかったのに。

そうしなかったのには理由がある。

長く一緒にいると、相手のペースに引きずり込まれそうになる瞬間が分かるようになった。

別居が長引くほど、その傾向は強まり、気づけばまた夫のペースに飲み込まれてしまう。

これ以上交渉を重ねたら、相手の思うつぼだ。

そう思うと、どうしても動けなかった。

だけど、もう直接話し合わなければならないところまで来ていた。

きっと腹を割って話そうとしたところで、訳の分からない理論を押し通されるだけだろう。

それでも、話し合わなければならなかった。

覚悟を決めてメッセージを送り、ほっと一息ついたところで先輩と子どもが帰ってきた。

この子にはずいぶん辛い思いをさせてきた。

まだ赤ちゃんだった頃、夫から激しく責められ、涙がこぼれそうになったことがある。

慌てて子どもを膝の上に乗せた。

向かい合っていたら、泣いているところを見られてしまうと思ったからだ

咄嗟の行動だった。

けれど、柔らかくて温かな子どもを抱きしめているうちに、堰を切ったように涙があふれ、顔はぐちゃぐちゃになった。

嗚咽混じりの声に驚いたのか、子どもが振り返って私を見た。

慌てて涙を拭いた。

泣いているところなんて、見せてはいけない。

そう思うのに、涙は止まらなかった。

そのまま子どもをぎゅっと抱きしめたまま、私はしばらく動くことができなかった。

2025年12月20日土曜日

手紙が告げた、平穏な日常の終わり

平穏な日常が崩れた日

何の前触れも無く、突然夫から手紙が届いた。

先輩の家に居候していることなど知るはずのない夫から。

――とうとうバレたのだ。

やっと手に入れた平穏な時間だった。

それを失ってしまうかもしれないと思った瞬間、恐怖が込み上げてきた。

居ても立ってもいられず、私は衝動的に不動産屋へ駆け込んだ。

住みたい地域も、資金計画も。

今後どうするかさえ、何一つ決まっていないまま。

そんな状態で不動産屋に入ったのだから、当たり前だけれど、はっきりと要望を伝えることはできなかった。

きっと、困った客だったと思う。

何を聞かれても口ごもるばかりで、明確な返事もできないのだから。

それでも、お店の人と話しているうちに、少しずつ気持ちは落ち着いてきて、自分のやるべきことも、次第に見えてきた。

思えば、私はずっとこの時を恐れていた。

永遠に訪れなければいいと思っていたのに、そんな都合良くはいかないらしい。

その日はちょうど、子どもと先輩が映画に出かけていて、私は後から合流する予定だった。

普段なら私も一緒に行くのだけれど、その日はどうしても気分が乗らなかった。

「そういう時は無理しなくて良いんだよ」

先輩のその言葉に甘えて、食事の時間に合流することにしていた。

だから、先輩の家に一人きりになってしまい、余計にパニックになってしまったのだと思う。

時計を見ると、まだ二人は映画を楽しんでいる頃だった。

家に戻った私は、ショックのあまりポストに放り込んでしまった手紙をもう一度手に取り、そのまま部屋へと戻った。


逃げることを選ぶ夜

少し落ち着いてくると、考えるべきことを整理できた。

今後の住む場所や、子どもの学校のこと。

これらは、すぐにでも結論を出さなければならなかった。

それに、先輩にこれ以上迷惑をかけないためにも、早く動かなければという思いが強かった。

部屋を見渡すと、ほんの数か月の出来事にすぎないのに、楽しかった日々が次々と蘇ってくる。

自然と涙がこぼれ、『もう少しここに居たい』という気持ちも湧き上がった。

――でも、そんなことを言ってはいられない。

夫が動き出したということは、本気で私たちを連れ戻すつもりだということだ。

甘い考えで立ち向かえば、どんな結末を迎えるかは痛いほど分かっていた。

そして、それを阻むものがあれば、相手が他人であっても容赦はしないだろうということも。

きっと、引っ越したとしても、夫はまた追ってくる。

それでも、今ここで迎え撃つよりは、時間稼ぎでもいいから別の場所へ移ろうと考えた。

夫のような人間は、決して相手を逃がさない。

自分の所有物だと勘違いしているのだから。

ふと、この先ずっと逃げ続ける未来を想像してしまい、胸が締めつけられるように辛くなった。

どうしてこんな目に遭わなければならないの?

ただ穏やかに暮らしたいだけなのに。

そんな些細な夢がなぜ叶わないの?

今後のことを思うと悲観せずにはいられなくて、何かにすがりたくなった。

力が抜けて呆然としていた所、急に着信があり、ハッと我に返ると子どもからだった。

気付いたら既に待ち合わせ時間を過ぎていた。

2025年12月19日金曜日

授業中、いつも外を眺めていた子ども

個人面談で言われたこと

低学年の頃、うちの子の担任は若い女性の先生だった。

物腰が柔らかくて静かに話す人で、子どもたちからも慕われていた。

その先生と初めてゆっくり話したのが個人面談の時。

私の方は勝手が分からずとても緊張してたのだが、時折微笑みながら丁寧に話をしてくれた。

普段目にすることのない学校での様子を聞けるのはとても新鮮で、先生の話してくれるエピソードに聞き入った。

授業参観にも出られていなかったから、初めて知ることばかり。

聞きながら思わず想像してしまった。

楽しそうにお友達と遊ぶ姿を。

内容としては、『概ね心配は要らないよ』ということだったが・・・。

ただ一つだけ。

面談の終わりかけに、授業中にぼんやりとしてることが多くてあまり集中できていないという指摘を受けた。

実は思い当たる節があり、家でもそういう姿を目撃することがあった。

でも、『小さいうちはそういうこともあるよね』と安易に考えてしまった。

落ち着きがないとかお友達に乱暴してしまうとかそういうことではなく、ただボーっとしてしまうだけ。

周りの進行を妨げなければそれほど大きな問題にはならないのではないか。

単純な私は微笑ましいエピソードとして聞いていたのだが・・・。

先生が急に、

「本当に素直で優しいお子さんですよ。きちんと説明すれば何でも分かってくれます」

と言うので、私はその発言の意図が分からなくて戸惑いつつも、

「そうですか・・・。ありがとうござます」

とお礼を述べた。

後から考えるとこれはけん制だった。

その後も同じようなフレーズが繰り返され、さすがの私も(?)となり、

「あのー、何か問題でも・・・?」

と聞いたら、はっきりとした口調で

「十分に良い子なんです。だからあまり怒らないであげてください」

と言われた。

それでもピンと来なくて、曖昧な笑みを浮かべながらその意味を考えていた。

そうしたら最後に、

「育児で悩んでいることなどがあれば相談できる窓口もありますよ」

と案内された。

それで、ようやく理解した。

どうやら私が虐待していると思われているようだった。


小さな体で虐待と闘っていた子ども

面談の最中、ふと外を眺めたら校庭を走り回る子どもたちの姿が見えた。

窓際の席だったうちの子も、こんな風に眺めていたのかもしれない。

元気に駆けていく子どもたちの様子を目で追いながら、ふと物思いにふける我が子の姿を想像した。

入学当初から酷い虐待があった。

保育園時代にもあったけど、小学生になってからエスカレートした。

自我を持つようになった子どもの言動を許せない夫が力でねじ伏せようとしたのだ。

これは私の見解であり、夫は違うと言う。

全て教育だったと。

そんな話納得できるはずもなく、今でもただの虐待だったと思っている。

そこに愛情は無く、ただ思い通りにしたかっただけ。

子どもは学校が終わっても家に帰りたがらなかった。

寄り道をしたら怒られるのに、それでもまっすぐに帰らずに時間を潰した。

夫は分単位で人の時間を管理するような人だから、その遅れを見逃さなかった。

帰宅すると案の定怒られ、子どもはそのたびに必死で自分の身を守った。

それでも帰らざるを得なかったことを考えると、本当に酷いことをしてしまったと申し訳ない気持ちになる。

夫から逃げられるはずがないとか。

体調不良の人を見捨ててはいけないとか。

出られない理由を考えてはいけなかったのだ。

私が臆病だったばかりに子どもの心に深い傷を負わせてしまった。

あの苦しい時間を長引かせてしまった原因は私の弱さだ。

2025年12月18日木曜日

子どもに取り入りたい夫と義両親

夫+義両親と私の攻防

夫の再々就職先の問題が持ち上がった後、明確な構図が出来上がった。

夫+義両親 VS 私だ。

元々そういう感じではあったのだが、ここまでハッキリとはしていなかった。

孤立無援な私に対し、家族総出で攻勢をかけてくる夫。

こうなればもう力関係は明白だ。

どこからどう見ても夫達の方が強い。

でも私も負けてはいられないから必死で抵抗した。

この戦いに負けることは子どもを奪われることを意味する。

それだけは絶対に避けたかったので、常に頭をフル回転させた。

差し迫った危機を前にふと思ったのが、『お金の問題はまだ可愛いものだったなー』ということ。

家賃の一部を出して欲しいとか光熱費は負担するべきだとか。

そんなことはどうでも良くなる位の大きな危機だった。

正直言って生きた心地がしなかった。

私も必死だが、あちらも必死だから。

そう簡単には決着がつかないだろうことは分かっていた。

敵対していると、どんどん相手への印象が悪くなっていくようだ。

段々と義両親も棘のある言い方をするようになり、特にお義父さんからは、

「あんたが頑固だから丸く収まるものも収まらないんだ」

と不満をぶつけられた。

それまでは『名前+さん』呼びだったのが急に『あんた』呼びに・・・。

こういう所からもどう思われているのかを感じ取ってしまい、地味に堪えた。


彼らの対応で困っていたこと

夫や義両親の動きはハッキリ言って読めない。

そう来るのか!と驚かされることもしばしばだった。

そんな中で困ったのは、子どもの都合も聞かずに勝手に日時を指定してきて

「プレゼントを渡したい」

と言うことだった。

あれほど『絶対に止めて』と行ったのに、小学校前での待ち伏せも何度かあった。

ただ、私が毎日迎えに行っていたので彼らの目的はいつも未遂に終わった。

そのたびに鉢合わせしてしまったことも嫌な思い出だ。

気まずい空気が流れ、耐えられなくて早くその場から離れたかった。

でも、目的を達成できなかった彼らはいつも攻撃的で、一言言わなければ気が済まないようだった。

こんな争いに子どもを巻き込みたくない。

守らなければ、という思いから私も時々は言い返すようになった。

いつも言われっぱなしの私が言い返すということは、それだけ余裕が無かったということ。

追いつめられて、普段よりも攻撃的になった。

と言っても、夫が10のレベルで怒鳴るとしたら、私のはせいせい2程度のもので。

必死になってようやく普通の人が語気を荒げる時くらいになった。

普段は怒りと直結していないから、日常生活で怒ることはほぼない。

そんな私が怒りを口にする姿は、周りからも異様に映ったようだ。

この頃をよく知る人からは、

「あの時期のあなたは別人のようだったね」

と言われた。

それくらい殺伐とした空気が漂っていたのだろう。

こんな風に必死で抵抗しても、子どもへの擦り寄りは止まらなかった。

それどころかノイローゼになるくらいに携帯に連絡してきていたので、

『もしかして私が精神的に参って匙を投げるのを待ってるの?』

などと勘ぐってしまった。

話し合いの形をした支配

すべてを私の責任にする人の論理 夫の言い分は、こうだった。 わざわざ遠い場所に住み、低学年の子どもを元の学校に通わせ続けることこそが虐待だ、と。 子どもにかかる負担が分からないのか。 そんなことも分からないなら、母親失格だとまで言われた。 確かに、子どもにとって大変な状況だったと...