2025年12月20日土曜日

手紙が告げた、平穏な日常の終わり

平穏な日常が崩れた日

何の前触れも無く、突然夫から手紙が届いた。

先輩の家に居候していることなど知るはずのない夫から。

――とうとうバレたのだ。

やっと手に入れた平穏な時間だった。

それを失ってしまうかもしれないと思った瞬間、恐怖が込み上げてきた。

居ても立ってもいられず、私は衝動的に不動産屋へ駆け込んだ。

住みたい地域も、資金計画も。

今後どうするかさえ、何一つ決まっていないまま。

そんな状態で不動産屋に入ったのだから、当たり前だけれど、はっきりと要望を伝えることはできなかった。

きっと、困った客だったと思う。

何を聞かれても口ごもるばかりで、明確な返事もできないのだから。

それでも、お店の人と話しているうちに、少しずつ気持ちは落ち着いてきて、自分のやるべきことも、次第に見えてきた。

思えば、私はずっとこの時を恐れていた。

永遠に訪れなければいいと思っていたのに、そんな都合良くはいかないらしい。

その日はちょうど、子どもと先輩が映画に出かけていて、私は後から合流する予定だった。

普段なら私も一緒に行くのだけれど、その日はどうしても気分が乗らなかった。

「そういう時は無理しなくて良いんだよ」

先輩のその言葉に甘えて、食事の時間に合流することにしていた。

だから、先輩の家に一人きりになってしまい、余計にパニックになってしまったのだと思う。

時計を見ると、まだ二人は映画を楽しんでいる頃だった。

家に戻った私は、ショックのあまりポストに放り込んでしまった手紙をもう一度手に取り、そのまま部屋へと戻った。


逃げることを選ぶ夜

少し落ち着いてくると、考えるべきことを整理できた。

今後の住む場所や、子どもの学校のこと。

これらは、すぐにでも結論を出さなければならなかった。

それに、先輩にこれ以上迷惑をかけないためにも、早く動かなければという思いが強かった。

部屋を見渡すと、ほんの数か月の出来事にすぎないのに、楽しかった日々が次々と蘇ってくる。

自然と涙がこぼれ、『もう少しここに居たい』という気持ちも湧き上がった。

――でも、そんなことを言ってはいられない。

夫が動き出したということは、本気で私たちを連れ戻すつもりだということだ。

甘い考えで立ち向かえば、どんな結末を迎えるかは痛いほど分かっていた。

そして、それを阻むものがあれば、相手が他人であっても容赦はしないだろうということも。

きっと、引っ越したとしても、夫はまた追ってくる。

それでも、今ここで迎え撃つよりは、時間稼ぎでもいいから別の場所へ移ろうと考えた。

夫のような人間は、決して相手を逃がさない。

自分の所有物だと勘違いしているのだから。

ふと、この先ずっと逃げ続ける未来を想像してしまい、胸が締めつけられるように辛くなった。

どうしてこんな目に遭わなければならないの?

ただ穏やかに暮らしたいだけなのに。

そんな些細な夢がなぜ叶わないの?

今後のことを思うと悲観せずにはいられなくて、何かにすがりたくなった。

力が抜けて呆然としていた所、急に着信があり、ハッと我に返ると子どもからだった。

気付いたら既に待ち合わせ時間を過ぎていた。

2025年12月19日金曜日

授業中、いつも外を眺めていた子ども

個人面談で言われたこと

低学年の頃、うちの子の担任は若い女性の先生だった。

物腰が柔らかくて静かに話す人で、子どもたちからも慕われていた。

その先生と初めてゆっくり話したのが個人面談の時。

私の方は勝手が分からずとても緊張してたのだが、時折微笑みながら丁寧に話をしてくれた。

普段目にすることのない学校での様子を聞けるのはとても新鮮で、先生の話してくれるエピソードに聞き入った。

授業参観にも出られていなかったから、初めて知ることばかり。

聞きながら思わず想像してしまった。

楽しそうにお友達と遊ぶ姿を。

内容としては、『概ね心配は要らないよ』ということだったが・・・。

ただ一つだけ。

面談の終わりかけに、授業中にぼんやりとしてることが多くてあまり集中できていないという指摘を受けた。

実は思い当たる節があり、家でもそういう姿を目撃することがあった。

でも、『小さいうちはそういうこともあるよね』と安易に考えてしまった。

落ち着きがないとかお友達に乱暴してしまうとかそういうことではなく、ただボーっとしてしまうだけ。

周りの進行を妨げなければそれほど大きな問題にはならないのではないか。

単純な私は微笑ましいエピソードとして聞いていたのだが・・・。

先生が急に、

「本当に素直で優しいお子さんですよ。きちんと説明すれば何でも分かってくれます」

と言うので、私はその発言の意図が分からなくて戸惑いつつも、

「そうですか・・・。ありがとうござます」

とお礼を述べた。

後から考えるとこれはけん制だった。

その後も同じようなフレーズが繰り返され、さすがの私も(?)となり、

「あのー、何か問題でも・・・?」

と聞いたら、はっきりとした口調で

「十分に良い子なんです。だからあまり怒らないであげてください」

と言われた。

それでもピンと来なくて、曖昧な笑みを浮かべながらその意味を考えていた。

そうしたら最後に、

「育児で悩んでいることなどがあれば相談できる窓口もありますよ」

と案内された。

それで、ようやく理解した。

どうやら私が虐待していると思われているようだった。


小さな体で虐待と闘っていた子ども

面談の最中、ふと外を眺めたら校庭を走り回る子どもたちの姿が見えた。

窓際の席だったうちの子も、こんな風に眺めていたのかもしれない。

元気に駆けていく子どもたちの様子を目で追いながら、ふと物思いにふける我が子の姿を想像した。

入学当初から酷い虐待があった。

保育園時代にもあったけど、小学生になってからエスカレートした。

自我を持つようになった子どもの言動を許せない夫が力でねじ伏せようとしたのだ。

これは私の見解であり、夫は違うと言う。

全て教育だったと。

そんな話納得できるはずもなく、今でもただの虐待だったと思っている。

そこに愛情は無く、ただ思い通りにしたかっただけ。

子どもは学校が終わっても家に帰りたがらなかった。

寄り道をしたら怒られるのに、それでもまっすぐに帰らずに時間を潰した。

夫は分単位で人の時間を管理するような人だから、その遅れを見逃さなかった。

帰宅すると案の定怒られ、子どもはそのたびに必死で自分の身を守った。

それでも帰らざるを得なかったことを考えると、本当に酷いことをしてしまったと申し訳ない気持ちになる。

夫から逃げられるはずがないとか。

体調不良の人を見捨ててはいけないとか。

出られない理由を考えてはいけなかったのだ。

私が臆病だったばかりに子どもの心に深い傷を負わせてしまった。

あの苦しい時間を長引かせてしまった原因は私の弱さだ。

2025年12月18日木曜日

子どもに取り入りたい夫と義両親

夫+義両親と私の攻防

夫の再々就職先の問題が持ち上がった後、明確な構図が出来上がった。

夫+義両親 VS 私だ。

元々そういう感じではあったのだが、ここまでハッキリとはしていなかった。

孤立無援な私に対し、家族総出で攻勢をかけてくる夫。

こうなればもう力関係は明白だ。

どこからどう見ても夫達の方が強い。

でも私も負けてはいられないから必死で抵抗した。

この戦いに負けることは子どもを奪われることを意味する。

それだけは絶対に避けたかったので、常に頭をフル回転させた。

差し迫った危機を前にふと思ったのが、『お金の問題はまだ可愛いものだったなー』ということ。

家賃の一部を出して欲しいとか光熱費は負担するべきだとか。

そんなことはどうでも良くなる位の大きな危機だった。

正直言って生きた心地がしなかった。

私も必死だが、あちらも必死だから。

そう簡単には決着がつかないだろうことは分かっていた。

敵対していると、どんどん相手への印象が悪くなっていくようだ。

段々と義両親も棘のある言い方をするようになり、特にお義父さんからは、

「あんたが頑固だから丸く収まるものも収まらないんだ」

と不満をぶつけられた。

それまでは『名前+さん』呼びだったのが急に『あんた』呼びに・・・。

こういう所からもどう思われているのかを感じ取ってしまい、地味に堪えた。


彼らの対応で困っていたこと

夫や義両親の動きはハッキリ言って読めない。

そう来るのか!と驚かされることもしばしばだった。

そんな中で困ったのは、子どもの都合も聞かずに勝手に日時を指定してきて

「プレゼントを渡したい」

と言うことだった。

あれほど『絶対に止めて』と行ったのに、小学校前での待ち伏せも何度かあった。

ただ、私が毎日迎えに行っていたので彼らの目的はいつも未遂に終わった。

そのたびに鉢合わせしてしまったことも嫌な思い出だ。

気まずい空気が流れ、耐えられなくて早くその場から離れたかった。

でも、目的を達成できなかった彼らはいつも攻撃的で、一言言わなければ気が済まないようだった。

こんな争いに子どもを巻き込みたくない。

守らなければ、という思いから私も時々は言い返すようになった。

いつも言われっぱなしの私が言い返すということは、それだけ余裕が無かったということ。

追いつめられて、普段よりも攻撃的になった。

と言っても、夫が10のレベルで怒鳴るとしたら、私のはせいせい2程度のもので。

必死になってようやく普通の人が語気を荒げる時くらいになった。

普段は怒りと直結していないから、日常生活で怒ることはほぼない。

そんな私が怒りを口にする姿は、周りからも異様に映ったようだ。

この頃をよく知る人からは、

「あの時期のあなたは別人のようだったね」

と言われた。

それくらい殺伐とした空気が漂っていたのだろう。

こんな風に必死で抵抗しても、子どもへの擦り寄りは止まらなかった。

それどころかノイローゼになるくらいに携帯に連絡してきていたので、

『もしかして私が精神的に参って匙を投げるのを待ってるの?』

などと勘ぐってしまった。

2025年12月17日水曜日

義両親の甘い蜜作戦

執着する夫の性格は義両親譲り?

虐待被害を受けた子どもはパパが嫌いだ。

義両親のことはパパほどではないが苦手なのかな、と感じることが多い。

多分、あんなパパで無かったら義両親にもそれほど苦手意識を持たなかったのだと思う。

こんなタラレバを考えること自体が無意味で、かえって虚しくなるんだけど。

それでも考えずにはいられない。

実際には存在しない世界を想像し、そのたびに思う。

誰かあの人の記憶を消してくれないだろうか、と。

私たちのことを綺麗サッパリ忘れてくれたら、こんな幸せなことはない。

義両親は、妻や子どもに対して理不尽な怒りをぶつけ続ける息子を常に擁護していた。

子どもが虐められた時だって、何も悪いことをしていないにも関わらず、

「パパが怒ってる時は『ごめんなさい』しちゃいなさい」

などと誤った助言をしていた。

納得のいかない子どもが黙っていたら、

「ほらっ!早く言わないとまた怒られちゃうよ!」

と急かし、夫はそれを満足そうに眺めていた。

こういうエピソード一つとっても歪んでいることを実感する。

そんな義両親が子どもを引き取りたがっていたのは自分たちのためだったのか、それとも息子を想ってのことだったのか。

それは今でも分からない。

ただ一つ言えるのは、彼らもまた凄まじいほどの執着を見せていた。


あの手この手で子どもをその気にさせようとする義両親

子どもを自分たちの方に向かせるためには、何かプレゼントするのが一番だと考えたようだ。

それで私に探りを入れてきた。

「(子ども)ちゃんは今何が好き?」

「欲しがっている物ある?」

と連日メッセージを送ってきて、そのたびに、

「今は特にお気に入りは無さそうですね~」

と答えていた。

それで済めば良かったんだけど・・・。

彼らはそんな簡単に諦めるような人たちではない。

私が何か情報を隠し持っていると思い込み、どうにかして聞き出そうとしてきた。

ある時は、どうやってリサーチしたのか分からないが『同年代の子に人気のグッズを買ったから』と連絡してきた。

取りに来るように言われても、正直気が進まなくて。

でも、送ってもらう訳にもいかず渋々応じた。

こういう時、宅急便で送ってもらえれば非常に楽なんだけど。

私たちの場合には居場所を知られてはいけなかったので、直接会うしか方法が無かった。

待ち合わせ場所に向かう時にはいつも『夫もいるのではないか』という恐怖にさいなまれ、足が止まってしまうことも。

本当はそういう気持ちを分かってもらいたかった。

それなのに、恐怖心を持つこと自体が間違いなのだと逆に諭された。

「必要以上に怖がり過ぎているんじゃないか?」

これは実際にお義父さんから言われた言葉だ。

私たちがされてきたことがどれほど軽く受け止められているかを実感した一言だった。

2025年12月16日火曜日

予想通りだった夫の減給

社員全員がベースダウン

夫の会社が危ないと聞いてから程なくして社員たちの給与が引き下げられた。

能力いかんに関わらず皆がベースダウンした。

状況が状況なだけに仕方の無い選択だったのだと思う。

この時ばかりは夫も納得したようで、文句も言わず受け入れた。

会社としては、ひと先ず社員たちに少しずつ協力してもらってしのごう、という戦法だろう。

これで乗り越えられれば良いなぁと、部外者の私も祈るような気持ちだった。

万が一夫が失職したら、その影響は非常に大きい。

離婚した後に養育費を貰えなくなるとかそういうレベルの話ではない。

離婚自体がとん挫しかねなかったため、その動向が常に気になっていた。

ベースダウンが実施されたと言っても私よりはるかに高い給与をもらっていた夫。

しかも出費も限られているという余裕のある生活。

精神的に追い詰められるような状況でも無かったはずなのに・・・。

この一件で弱気になったのか、

「このままでは俺は野垂れ死にだ!」

などと縁起でもないことを言い出し、ネガティブな発言が増えた。

いちいち大げさな夫を本気で相手にするのも疲れるので、

「大丈夫だよ。これを乗り越えればまた良いことがあるんじゃない?」

などと表面的なフォローをしていたのだが、そんな私に強烈な不満を抱いたようだ。

親身になってくれない、と言いたかったのだろうけど。

そう言われても、もう心配し尽くしたんだよ。

それまでに散々振り回されてきたから、不安だ不安だと騒ぐ夫をどこか冷めた目で見ていた。

自業自得だと思っていたことも確かだ。

あんな仕打ちをしたのだから少しくらい罰が当たったっておかしくない、と。

そんな風に考えているくせに、失職されたら困るとも思っていて。

この頃は自分の立ち位置が上手く定まらなかった。


「お前に養ってもらうしかない」

夫はプライドが非常に高かった。

日常的に私のことを蔑み、侮辱するような発言をしていた。

それなのに、会社の問題が持ち上がったら急に

「お前に養ってもらうしかない」

などと言い出した。

普段の夫からは想像もできないような発言だ。

バカも休み休み言って欲しいところだが、ここで強く拒めないのが私の弱いところだ。

内心は憤りつつも、やんわりとした表現でしか拒否できなかった。

いつも自分に都合良く受け取るのも夫の特徴であり、この時も強く言わないのを良いことに

「お前だって本当は家族元通りが良いんだろ?」

と言い始めた。

そんな訳ないじゃない!

唖然とする私に対して更に、

「ずいぶん自由にやったみたいだから、そろそろ気が済んだんじゃないか?」

と、まるで戻ることが既定路線のような言い方をした。

本当に何も分かっていないのだ。

もう戻らない覚悟をしたことも伝えたはずなのに。

そういう都合の悪いことはスルーするのもいつも通り。

夫と話していたら、あの苦しかった生活が鮮明に思い出された。

今日を無事に過ごすことしか考えられなかったあの生活を。

こんな人だと見ぬけていたら結婚なんてしていなかったのに、あの頃は尊敬できる相手だと思い込んでしまった。

モラハラにも気づけず、頼りになる人だと思ってしまった。

そういう人との離婚がこんなにも大変ということも、私は知らなかった。

2025年12月15日月曜日

『子どもの意思を確認させて』と食い下がる義両親

長引く話し合い

その日、義両親は何が何でも私たちを連れ戻すつもりで来たのだと思う。

だけどなかなか折れないから、業を煮やして

「(子ども)ちゃんの気持ちを確認させて」

と言い始めた。

夫と話させるよりは百万倍マシだが・・・。

それでも簡単にOKできるものではない。

と言うのも過去には連れ去りもあり、胃の痛くなるような日々を過ごした。

もう二度と子どもと暮らせないのではないか。

そんな不安から、全ての計画を投げ出して夫に謝ってしまおうかと考えたほどだ。

だけど先輩がそんな私を止めてくれた。

義両親にとってうちの子が生き甲斐だということも分かっていたから、私も悩んだんだけど。

それ以上に警戒する気持ちの方が強かった。

最初はその場所に呼び出して欲しいと言われ、

「一人で来られる距離ではないですし・・・」

と答えたら、

「そういえば今日は一人でお留守番しているの?」

と言われ、『藪蛇だったかも』と冷や汗。

うちの子は寂しん坊で一人では留守番したがらないことを義両親はよく分かっていた。

それでちょっと怪しんだようで、

「誰かが見てくれているの?」

と聞かれてしまい、更に冷や汗が・・・。

もちろん先輩の家にお世話になっていることは知らない。

しかも、その日『調査会社を使って居所を調べても良いんだよ?』ということを匂わされており、非常に焦った。

しどろもどろになりながらも、何とかこの場を切り抜けなければと、

「最近はずい分しっかりしてきて。一人でお留守番してくれるんですよ」

なんて説明したけど、納得していなかった。

色んな理由をつけて呼び出そうとしており、時計を見ながら

「このままここで晩御飯にしよう。外食と言えば喜んで来るんじゃないか?」

とお義父さんから言われた時には、もう上手い言い訳が浮かんで来ず、

「いえ、あの・・・」

と言葉が続かなかった。

そこに畳みかけるように、

「途中まで迎えに行くから」

と言うので、私は無い頭をフル回転させて必死に言い訳を考えた。


「連絡手段が無い」という理由で断り、急いで帰宅

焦っている時というのは重要なことを見逃しているものである。

その時の私も肝心なことを見過ごしていた。

慌てながらも必死に言い訳を探していた時、隣のテーブルの子に目が留まった。

うちの子より少し大きいかな?という感じの子で、何やら携帯を操作していたのだが。

それを見て、ふと思い出した。

そう言えばうちの子は『携帯を持っていない』という設定になっていたことを。

夫からも散々持たせるように言われたのだけれど、

「まだ早い」

と一蹴した。

それがこんなところで役に立つなんて。

夕飯のことを持ち出されたことは幸いだった。

こちらにも早く帰らなければならない理由ができた。

連絡のつかない子どもを呼び出すこともできないから、すぐに帰って夕飯の準備をしなければ。

そういうストーリーにして、お開きを願い出た。

義両親も子どもが困ることは避けたかったみたい。

それで、あっさりと終了した。

そういう所が夫とは違う。

夫の場合、子どもが困ろうがどうしようが自分のことを優先させる。

『そこに愛情はあるのかい?』と聞きたくなるシーンが何度もあった。

帰り道、やっと解放された安堵と、居場所を調べられてしまうかもしれない不安と。

色んな感情がごちゃ混ぜになり、不安定な気持ちのまま家路を急いだ。

2025年12月13日土曜日

狭まる包囲網

逃げ続けることはできるのか

夫の再々就職後はある程度の自由があった。

その状態まで持っていくのには長い時間がかかったのだけれど。

家を出たばかりの頃はしつこい位に連絡が来ていて、そのたびに怯えた。

いつ居場所を突き止められて連れ戻されるか。

そう考えると気が気では無くて・・・。

それが時間が経つにつれて連絡が減ったり増えたりを繰り返すようになった。

その間、義実家の方でも色んな問題が発生。

向こうが他の問題を抱えている時には数週間ほど音信普通になることも。

実はそういう状況を待ち望んでいた部分もあり、気の毒に思いつつもホッとしていた。

雲行きが怪しくなったのは、夫の再々就職先の経営状況が芳しくなくなってからだ。

何となく、『まだ籍も抜けてないんだから面倒を見るべき』という空気が漂っていた。

押し付けられそうな雰囲気を感じ取った私は抵抗し、のらりくらりと交わした。

義両親の直談判にも首を縦に振らなかったら、業を煮やした二人がとうとう

「とりあえず居場所だけは教えて」

と言い出した。

私がもっとも恐れていたことだ。

一時的とは言え平和な生活を送れていたのは居場所を知られずに済んだからだ。

その生活を失いたくなくて、『教えろ』と言われても絶対に教えなかった。

そうしたら調査するようなことを匂わされ、流石に焦った。

スルーし続けることはできないかもしれない。

どうせバレるのなら自分から言ってしまった方がまだ傷は浅く済むだろうか。

私は葛藤し、だけどバレた後のことを想像すると身動きが取れずにいた。


先輩に迷惑をかけたくない

『調査会社を使って調べる』と宣言された後、私は先輩に相談した。

これ以上、迷惑をかけられないと思った。

引っ越し先を探すつもりで、

「もうここには居られないかもしれない」

と伝え、義両親がこれからやろうとしていることも説明した。

普通なら親戚でもないのにそこまでリスクのある相手を家に置いておきたくはないはずだ。

それまで先輩は一人で自由気ままに暮らしてきた。

そこに小学生を連れた後輩が転がり込んできたんだから。

迷惑を掛けていないはずがない。

それに、最初はほんの少しの間だけ・・・と始めた居候だった。

長居しすぎてしまったことも申し訳なく、お世話になった先輩まで巻き込むことは避けたかった。

当初は、

「先輩が良い人を見つけて結婚することになったら出て行きますね」

なんて冗談を言っていたのだが。

内心は、あまりにも居心地が良くて『先輩に彼氏が出来たら嫌だな』なんて考えてしまった。

なんて自分勝手なんだろう。

とにかく幸せな思い出が多すぎて、出て行くことになるかもしれないと思ったら寂しさがこみ上げてきた。

「本当にお世話になりました」

と頭を下げながら、涙でぐちゃぐちゃになった。

だが、そんな事情を聞いても、

「出て行くなんて言わないでよ。一緒に対策を考えよう」

と言ってくれた先輩。

泣きじゃくる私の背中を何度もさすってくれた。

手紙が告げた、平穏な日常の終わり

平穏な日常が崩れた日 何の前触れも無く、突然夫から手紙が届いた。 先輩の家に居候していることなど知るはずのない夫から。 ――とうとうバレたのだ。 やっと手に入れた平穏な時間だった。 それを失ってしまうかもしれないと思った瞬間、恐怖が込み上げてきた。 居ても立ってもいられず、私は衝...