2025年12月23日火曜日

あの日、私は逃げなかった

夫の策略だと分かっていて、私は会うことを選んだ

手紙を受け取った私は、すぐに行動に移した。

まずは、先輩の家に来ないよう、はっきりと釘を刺さなければならなかった。

ただお願いするだけでは、聞き入れてもらえないだろう。

そこで私は、会うことを了承した。

夫は、自分が損をすることは決してしない人だ。

譲歩もしない。

だからこそ、真正面から正論をぶつけても、うまくいかないと思った。

それならいっそ、こちらが一部を譲り、その代わりに要求を受け入れてもらうしかない。

うまくいくかは分からないが、それでもその戦法でいくことにした。

このとき、子どもはひどく不安そうで、私の様子を気にしているのが分かった。

もともとは大らかで、少し鈍いところのある子だった。

それが、いつ怒り出すか分からない父親に怯え、敏感になってしまったのだろう。

連絡を入れると、夫からはすぐに返事が来た。

きっと、これも予想していたに違いない。

相手を追い詰めて動かすのは、夫の常套手段だ。

まんまと策略に乗ってしまった気もするが、今回はあえて乗ることにした。

それにしても、夫のメッセージはいつも威圧的だ。

無理やり相手を動かそうとしているのが、はっきりと分かる。

すべてが自分の思い通りになると信じている、その自信が透けて見えて非常に不快だった。

話し合いの場所に指定されたのは、かつて私たちが暮らしていたあの部屋だった。

夫は相変わらずそこに住んでいて、私は家賃を払い続けていた。


インターフォンを押すまでの長い時間

呼び出されたその日は、朝から落ち着かなかった。

子どもはちょうど、友達と出かける予定が入っていた。

忘れもしない。

曇り空で薄暗く、念のため折り畳み傘を持たせた。

友達のお母さんが付き添ってくれるというので、お礼を伝え、その場を後にした。

そのまま電車に乗り、途中で手土産を買った。

バカみたいな話だが、夫の機嫌を取るためにあれこれと考えてしまう癖が抜けなかった。

手ぶらより何か持って行った方がいいだろうと思い、好物のお菓子を選んだ。

こんな時、離れていても、まだ夫の支配から抜け切れていないのだと実感する。

まず最初に浮かぶのが、「怒らせないように」という考えなのだから、我ながら終わっている。

それでも、怒りに触れたときのあの絶望感が頭から離れず、少しでも避けたいと思ってしまった。

最寄り駅に着き、家へ向かって歩き出してからも、気が重くて足が進まなかった。

必要なことだと分かっていても、やはり話し合いは怖い。

外で会えばよかったかもしれない――そんな後悔を繰り返しながら、家の前に着いた。

ドアの前に立ち、中の様子をうかがったが、物音はしなかった。

しんと静まり返り、まるで誰も住んでいない家のようだった。

インターフォンを押そうと手を伸ばすが、震えてなかなか押せない。

逃げ帰りたい気持ちが込み上げた、そのとき、ふと子どもの笑顔が浮かんだ。

あの笑顔を守りたい。

そのためなら、何だってする。

私は大きく息を吸い込み、そのままの勢いでインターフォンを押した。

2025年12月22日月曜日

壊れた結婚と、それでも守りたかったもの

恐怖の中で、第一歩を踏み出す勇気

居場所が知られてしまった以上、そのままにしておくわけにはいかない。

気は重いけれど、本格的に離婚に向けた交渉を始めなければならない。

そう思っても、なかなか返事をすることができなかった。

結婚生活の中で徹底的に恐怖を植え付けられていたため、その時のインパクトがあまりにも強すぎて、恐れるあまり思考が停止してしまったようだ。

震える手で再び手紙を開き、今度はゆっくりと読んだ。

中には「自分の非を認め、家族としてやり直したい」と書かれていた。

これを読んだだけなら、きっと反省しているのだろうと勘違いしてしまうかもしれない。

でも、基本的に夫が反省することはない。

彼は常に自分が正しいと思っているから、これは嘘だろうとすぐに分かった。

とはいえ、それが分かったところでどうすることもできない。

夫と対峙しなければ、離婚に向かうことはできないからだ。

私は考えた。

そのうち、ふとその前にやるべきことに気づいた。

『先輩の家に乗り込まれないよう、先手を打たなければならない』と。

そのためには、話し合う意思があることを伝えなければならない。

正直、話し合うこと自体が怖いけれど、逃げていては何も進まない。

勇気を振り絞ってメッセージを送った時、すでに子どもと先輩は食事を終えていた頃だった。

その日、二人は映画に行っていて、その後、食事のときに待ち合わせをしていた。

でも現れないので心配した先輩が連絡をくれた。

楽しみにしていたけれど、もう行けるような精神状態でもなく・・・。

「帰ってきたら詳しく説明するから」

と伝え、一人悶々とどうすべきかを考えていた。


話し合う覚悟と、母としての弱さ

精神的に追い詰められていた。

逃げ続けることができれば楽だけど、そうも言っていられない。

夫による包囲網は着々と狭まり、私たちは向き合わざるを得ない状況へと追い込まれていた。

その日、私は話し合う決意を固めた。

家を出てから、何とか勇気を振り絞って向き合ってきた。

けれど、ある時を境に、私は夫と会うことを避けるようになった。

怠慢だと言われれば、それまでだ。

本当に離婚を進めたいのなら、交渉を続けなければならなかったのに。

そうしなかったのには理由がある。

長く一緒にいると、相手のペースに引きずり込まれそうになる瞬間が分かるようになった。

別居が長引くほど、その傾向は強まり、気づけばまた夫のペースに飲み込まれてしまう。

これ以上交渉を重ねたら、相手の思うつぼだ。

そう思うと、どうしても動けなかった。

だけど、もう直接話し合わなければならないところまで来ていた。

きっと腹を割って話そうとしたところで、訳の分からない理論を押し通されるだけだろう。

それでも、話し合わなければならなかった。

覚悟を決めてメッセージを送り、ほっと一息ついたところで先輩と子どもが帰ってきた。

この子にはずいぶん辛い思いをさせてきた。

まだ赤ちゃんだった頃、夫から激しく責められ、涙がこぼれそうになったことがある。

慌てて子どもを膝の上に乗せた。

向かい合っていたら、泣いているところを見られてしまうと思ったからだ

咄嗟の行動だった。

けれど、柔らかくて温かな子どもを抱きしめているうちに、堰を切ったように涙があふれ、顔はぐちゃぐちゃになった。

嗚咽混じりの声に驚いたのか、子どもが振り返って私を見た。

慌てて涙を拭いた。

泣いているところなんて、見せてはいけない。

そう思うのに、涙は止まらなかった。

そのまま子どもをぎゅっと抱きしめたまま、私はしばらく動くことができなかった。

2025年12月20日土曜日

手紙が告げた、平穏な日常の終わり

平穏な日常が崩れた日

何の前触れも無く、突然夫から手紙が届いた。

先輩の家に居候していることなど知るはずのない夫から。

――とうとうバレたのだ。

やっと手に入れた平穏な時間だった。

それを失ってしまうかもしれないと思った瞬間、恐怖が込み上げてきた。

居ても立ってもいられず、私は衝動的に不動産屋へ駆け込んだ。

住みたい地域も、資金計画も。

今後どうするかさえ、何一つ決まっていないまま。

そんな状態で不動産屋に入ったのだから、当たり前だけれど、はっきりと要望を伝えることはできなかった。

きっと、困った客だったと思う。

何を聞かれても口ごもるばかりで、明確な返事もできないのだから。

それでも、お店の人と話しているうちに、少しずつ気持ちは落ち着いてきて、自分のやるべきことも、次第に見えてきた。

思えば、私はずっとこの時を恐れていた。

永遠に訪れなければいいと思っていたのに、そんな都合良くはいかないらしい。

その日はちょうど、子どもと先輩が映画に出かけていて、私は後から合流する予定だった。

普段なら私も一緒に行くのだけれど、その日はどうしても気分が乗らなかった。

「そういう時は無理しなくて良いんだよ」

先輩のその言葉に甘えて、食事の時間に合流することにしていた。

だから、先輩の家に一人きりになってしまい、余計にパニックになってしまったのだと思う。

時計を見ると、まだ二人は映画を楽しんでいる頃だった。

家に戻った私は、ショックのあまりポストに放り込んでしまった手紙をもう一度手に取り、そのまま部屋へと戻った。


逃げることを選ぶ夜

少し落ち着いてくると、考えるべきことを整理できた。

今後の住む場所や、子どもの学校のこと。

これらは、すぐにでも結論を出さなければならなかった。

それに、先輩にこれ以上迷惑をかけないためにも、早く動かなければという思いが強かった。

部屋を見渡すと、ほんの数か月の出来事にすぎないのに、楽しかった日々が次々と蘇ってくる。

自然と涙がこぼれ、『もう少しここに居たい』という気持ちも湧き上がった。

――でも、そんなことを言ってはいられない。

夫が動き出したということは、本気で私たちを連れ戻すつもりだということだ。

甘い考えで立ち向かえば、どんな結末を迎えるかは痛いほど分かっていた。

そして、それを阻むものがあれば、相手が他人であっても容赦はしないだろうということも。

きっと、引っ越したとしても、夫はまた追ってくる。

それでも、今ここで迎え撃つよりは、時間稼ぎでもいいから別の場所へ移ろうと考えた。

夫のような人間は、決して相手を逃がさない。

自分の所有物だと勘違いしているのだから。

ふと、この先ずっと逃げ続ける未来を想像してしまい、胸が締めつけられるように辛くなった。

どうしてこんな目に遭わなければならないの?

ただ穏やかに暮らしたいだけなのに。

そんな些細な夢がなぜ叶わないの?

今後のことを思うと悲観せずにはいられなくて、何かにすがりたくなった。

力が抜けて呆然としていた所、急に着信があり、ハッと我に返ると子どもからだった。

気付いたら既に待ち合わせ時間を過ぎていた。

2025年12月19日金曜日

授業中、いつも外を眺めていた子ども

個人面談で言われたこと

低学年の頃、うちの子の担任は若い女性の先生だった。

物腰が柔らかくて静かに話す人で、子どもたちからも慕われていた。

その先生と初めてゆっくり話したのが個人面談の時。

私の方は勝手が分からずとても緊張してたのだが、時折微笑みながら丁寧に話をしてくれた。

普段目にすることのない学校での様子を聞けるのはとても新鮮で、先生の話してくれるエピソードに聞き入った。

授業参観にも出られていなかったから、初めて知ることばかり。

聞きながら思わず想像してしまった。

楽しそうにお友達と遊ぶ姿を。

内容としては、『概ね心配は要らないよ』ということだったが・・・。

ただ一つだけ。

面談の終わりかけに、授業中にぼんやりとしてることが多くてあまり集中できていないという指摘を受けた。

実は思い当たる節があり、家でもそういう姿を目撃することがあった。

でも、『小さいうちはそういうこともあるよね』と安易に考えてしまった。

落ち着きがないとかお友達に乱暴してしまうとかそういうことではなく、ただボーっとしてしまうだけ。

周りの進行を妨げなければそれほど大きな問題にはならないのではないか。

単純な私は微笑ましいエピソードとして聞いていたのだが・・・。

先生が急に、

「本当に素直で優しいお子さんですよ。きちんと説明すれば何でも分かってくれます」

と言うので、私はその発言の意図が分からなくて戸惑いつつも、

「そうですか・・・。ありがとうござます」

とお礼を述べた。

後から考えるとこれはけん制だった。

その後も同じようなフレーズが繰り返され、さすがの私も(?)となり、

「あのー、何か問題でも・・・?」

と聞いたら、はっきりとした口調で

「十分に良い子なんです。だからあまり怒らないであげてください」

と言われた。

それでもピンと来なくて、曖昧な笑みを浮かべながらその意味を考えていた。

そうしたら最後に、

「育児で悩んでいることなどがあれば相談できる窓口もありますよ」

と案内された。

それで、ようやく理解した。

どうやら私が虐待していると思われているようだった。


小さな体で虐待と闘っていた子ども

面談の最中、ふと外を眺めたら校庭を走り回る子どもたちの姿が見えた。

窓際の席だったうちの子も、こんな風に眺めていたのかもしれない。

元気に駆けていく子どもたちの様子を目で追いながら、ふと物思いにふける我が子の姿を想像した。

入学当初から酷い虐待があった。

保育園時代にもあったけど、小学生になってからエスカレートした。

自我を持つようになった子どもの言動を許せない夫が力でねじ伏せようとしたのだ。

これは私の見解であり、夫は違うと言う。

全て教育だったと。

そんな話納得できるはずもなく、今でもただの虐待だったと思っている。

そこに愛情は無く、ただ思い通りにしたかっただけ。

子どもは学校が終わっても家に帰りたがらなかった。

寄り道をしたら怒られるのに、それでもまっすぐに帰らずに時間を潰した。

夫は分単位で人の時間を管理するような人だから、その遅れを見逃さなかった。

帰宅すると案の定怒られ、子どもはそのたびに必死で自分の身を守った。

それでも帰らざるを得なかったことを考えると、本当に酷いことをしてしまったと申し訳ない気持ちになる。

夫から逃げられるはずがないとか。

体調不良の人を見捨ててはいけないとか。

出られない理由を考えてはいけなかったのだ。

私が臆病だったばかりに子どもの心に深い傷を負わせてしまった。

あの苦しい時間を長引かせてしまった原因は私の弱さだ。

2025年12月18日木曜日

子どもに取り入りたい夫と義両親

夫+義両親と私の攻防

夫の再々就職先の問題が持ち上がった後、明確な構図が出来上がった。

夫+義両親 VS 私だ。

元々そういう感じではあったのだが、ここまでハッキリとはしていなかった。

孤立無援な私に対し、家族総出で攻勢をかけてくる夫。

こうなればもう力関係は明白だ。

どこからどう見ても夫達の方が強い。

でも私も負けてはいられないから必死で抵抗した。

この戦いに負けることは子どもを奪われることを意味する。

それだけは絶対に避けたかったので、常に頭をフル回転させた。

差し迫った危機を前にふと思ったのが、『お金の問題はまだ可愛いものだったなー』ということ。

家賃の一部を出して欲しいとか光熱費は負担するべきだとか。

そんなことはどうでも良くなる位の大きな危機だった。

正直言って生きた心地がしなかった。

私も必死だが、あちらも必死だから。

そう簡単には決着がつかないだろうことは分かっていた。

敵対していると、どんどん相手への印象が悪くなっていくようだ。

段々と義両親も棘のある言い方をするようになり、特にお義父さんからは、

「あんたが頑固だから丸く収まるものも収まらないんだ」

と不満をぶつけられた。

それまでは『名前+さん』呼びだったのが急に『あんた』呼びに・・・。

こういう所からもどう思われているのかを感じ取ってしまい、地味に堪えた。


彼らの対応で困っていたこと

夫や義両親の動きはハッキリ言って読めない。

そう来るのか!と驚かされることもしばしばだった。

そんな中で困ったのは、子どもの都合も聞かずに勝手に日時を指定してきて

「プレゼントを渡したい」

と言うことだった。

あれほど『絶対に止めて』と行ったのに、小学校前での待ち伏せも何度かあった。

ただ、私が毎日迎えに行っていたので彼らの目的はいつも未遂に終わった。

そのたびに鉢合わせしてしまったことも嫌な思い出だ。

気まずい空気が流れ、耐えられなくて早くその場から離れたかった。

でも、目的を達成できなかった彼らはいつも攻撃的で、一言言わなければ気が済まないようだった。

こんな争いに子どもを巻き込みたくない。

守らなければ、という思いから私も時々は言い返すようになった。

いつも言われっぱなしの私が言い返すということは、それだけ余裕が無かったということ。

追いつめられて、普段よりも攻撃的になった。

と言っても、夫が10のレベルで怒鳴るとしたら、私のはせいせい2程度のもので。

必死になってようやく普通の人が語気を荒げる時くらいになった。

普段は怒りと直結していないから、日常生活で怒ることはほぼない。

そんな私が怒りを口にする姿は、周りからも異様に映ったようだ。

この頃をよく知る人からは、

「あの時期のあなたは別人のようだったね」

と言われた。

それくらい殺伐とした空気が漂っていたのだろう。

こんな風に必死で抵抗しても、子どもへの擦り寄りは止まらなかった。

それどころかノイローゼになるくらいに携帯に連絡してきていたので、

『もしかして私が精神的に参って匙を投げるのを待ってるの?』

などと勘ぐってしまった。

2025年12月17日水曜日

義両親の甘い蜜作戦

執着する夫の性格は義両親譲り?

虐待被害を受けた子どもはパパが嫌いだ。

義両親のことはパパほどではないが苦手なのかな、と感じることが多い。

多分、あんなパパで無かったら義両親にもそれほど苦手意識を持たなかったのだと思う。

こんなタラレバを考えること自体が無意味で、かえって虚しくなるんだけど。

それでも考えずにはいられない。

実際には存在しない世界を想像し、そのたびに思う。

誰かあの人の記憶を消してくれないだろうか、と。

私たちのことを綺麗サッパリ忘れてくれたら、こんな幸せなことはない。

義両親は、妻や子どもに対して理不尽な怒りをぶつけ続ける息子を常に擁護していた。

子どもが虐められた時だって、何も悪いことをしていないにも関わらず、

「パパが怒ってる時は『ごめんなさい』しちゃいなさい」

などと誤った助言をしていた。

納得のいかない子どもが黙っていたら、

「ほらっ!早く言わないとまた怒られちゃうよ!」

と急かし、夫はそれを満足そうに眺めていた。

こういうエピソード一つとっても歪んでいることを実感する。

そんな義両親が子どもを引き取りたがっていたのは自分たちのためだったのか、それとも息子を想ってのことだったのか。

それは今でも分からない。

ただ一つ言えるのは、彼らもまた凄まじいほどの執着を見せていた。


あの手この手で子どもをその気にさせようとする義両親

子どもを自分たちの方に向かせるためには、何かプレゼントするのが一番だと考えたようだ。

それで私に探りを入れてきた。

「(子ども)ちゃんは今何が好き?」

「欲しがっている物ある?」

と連日メッセージを送ってきて、そのたびに、

「今は特にお気に入りは無さそうですね~」

と答えていた。

それで済めば良かったんだけど・・・。

彼らはそんな簡単に諦めるような人たちではない。

私が何か情報を隠し持っていると思い込み、どうにかして聞き出そうとしてきた。

ある時は、どうやってリサーチしたのか分からないが『同年代の子に人気のグッズを買ったから』と連絡してきた。

取りに来るように言われても、正直気が進まなくて。

でも、送ってもらう訳にもいかず渋々応じた。

こういう時、宅急便で送ってもらえれば非常に楽なんだけど。

私たちの場合には居場所を知られてはいけなかったので、直接会うしか方法が無かった。

待ち合わせ場所に向かう時にはいつも『夫もいるのではないか』という恐怖にさいなまれ、足が止まってしまうことも。

本当はそういう気持ちを分かってもらいたかった。

それなのに、恐怖心を持つこと自体が間違いなのだと逆に諭された。

「必要以上に怖がり過ぎているんじゃないか?」

これは実際にお義父さんから言われた言葉だ。

私たちがされてきたことがどれほど軽く受け止められているかを実感した一言だった。

2025年12月16日火曜日

予想通りだった夫の減給

社員全員がベースダウン

夫の会社が危ないと聞いてから程なくして社員たちの給与が引き下げられた。

能力いかんに関わらず皆がベースダウンした。

状況が状況なだけに仕方の無い選択だったのだと思う。

この時ばかりは夫も納得したようで、文句も言わず受け入れた。

会社としては、ひと先ず社員たちに少しずつ協力してもらってしのごう、という戦法だろう。

これで乗り越えられれば良いなぁと、部外者の私も祈るような気持ちだった。

万が一夫が失職したら、その影響は非常に大きい。

離婚した後に養育費を貰えなくなるとかそういうレベルの話ではない。

離婚自体がとん挫しかねなかったため、その動向が常に気になっていた。

ベースダウンが実施されたと言っても私よりはるかに高い給与をもらっていた夫。

しかも出費も限られているという余裕のある生活。

精神的に追い詰められるような状況でも無かったはずなのに・・・。

この一件で弱気になったのか、

「このままでは俺は野垂れ死にだ!」

などと縁起でもないことを言い出し、ネガティブな発言が増えた。

いちいち大げさな夫を本気で相手にするのも疲れるので、

「大丈夫だよ。これを乗り越えればまた良いことがあるんじゃない?」

などと表面的なフォローをしていたのだが、そんな私に強烈な不満を抱いたようだ。

親身になってくれない、と言いたかったのだろうけど。

そう言われても、もう心配し尽くしたんだよ。

それまでに散々振り回されてきたから、不安だ不安だと騒ぐ夫をどこか冷めた目で見ていた。

自業自得だと思っていたことも確かだ。

あんな仕打ちをしたのだから少しくらい罰が当たったっておかしくない、と。

そんな風に考えているくせに、失職されたら困るとも思っていて。

この頃は自分の立ち位置が上手く定まらなかった。


「お前に養ってもらうしかない」

夫はプライドが非常に高かった。

日常的に私のことを蔑み、侮辱するような発言をしていた。

それなのに、会社の問題が持ち上がったら急に

「お前に養ってもらうしかない」

などと言い出した。

普段の夫からは想像もできないような発言だ。

バカも休み休み言って欲しいところだが、ここで強く拒めないのが私の弱いところだ。

内心は憤りつつも、やんわりとした表現でしか拒否できなかった。

いつも自分に都合良く受け取るのも夫の特徴であり、この時も強く言わないのを良いことに

「お前だって本当は家族元通りが良いんだろ?」

と言い始めた。

そんな訳ないじゃない!

唖然とする私に対して更に、

「ずいぶん自由にやったみたいだから、そろそろ気が済んだんじゃないか?」

と、まるで戻ることが既定路線のような言い方をした。

本当に何も分かっていないのだ。

もう戻らない覚悟をしたことも伝えたはずなのに。

そういう都合の悪いことはスルーするのもいつも通り。

夫と話していたら、あの苦しかった生活が鮮明に思い出された。

今日を無事に過ごすことしか考えられなかったあの生活を。

こんな人だと見ぬけていたら結婚なんてしていなかったのに、あの頃は尊敬できる相手だと思い込んでしまった。

モラハラにも気づけず、頼りになる人だと思ってしまった。

そういう人との離婚がこんなにも大変ということも、私は知らなかった。

あの日、私は逃げなかった

夫の策略だと分かっていて、私は会うことを選んだ 手紙を受け取った私は、すぐに行動に移した。 まずは、先輩の家に来ないよう、はっきりと釘を刺さなければならなかった。 ただお願いするだけでは、聞き入れてもらえないだろう。 そこで私は、会うことを了承した。 夫は、自分が損をすることは決...